第68話:『ボードワン様。——お品物を、拝見してもよろしくて?』
役所の親切には、書式がある。
書式のある親切は、断ることができる。断れば控えが残り、控えが残れば、あとで「差し上げようとしたのに」と言われる。それが書式の効能だ。
……ええ。当店、そういうお品を、何度も拝見しておりますわ。
馬車から降りてきたのは、細身の男だった。四十代の後半だろうか。外套は黒で、裏地だけが濃い青。襟に、剣と星の略章。剣と星。王立宝物院の紋である。
「三日月堂の、ヴィオレッタ・メルローズ殿でいらっしゃいますな」
「はい」
「王立宝物院次官、ジェラール・ド・ボードワンと申します。——朝早くに、失礼を」
その方は、深く頭を下げた。次官が下町の質屋に頭を下げるところを、私は初めて拝見した。
テオが、雨戸の陰から顔を出している。私は指を一本だけ立てて、下がらせた。
「まだ、暖簾を出しておりませんの」
「存じております。ですから、参りました」
「……と、仰いますと」
「客の目のあるところでは、申し上げにくい用向きでして」
私は、暖簾を出した。朝の風に、細い月の抜き型が揺れる。
「ボードワン様。当店、暖簾を出してからしか、お話を伺いませんの」
その方は、一瞬だけ、目を細めた。それから、笑った。慇懃な笑い方だった。
「なるほど。エルマ・クロッシュのお店だ」
*
帳場に通した。その方は、椅子に浅く腰かけ、両手を膝に置いた。姿勢がいい。役所で二十年以上、姿勢を崩さずに座ってきた人の座り方だ。
「単刀直入に申し上げます。三日月堂さんに、王立宝物院指定鑑定所の看板を、お戻ししたい」
テオが、湯呑みを取り落としかけた。私は、算盤を引き寄せた。
「……三月ほど前に、返上いたしましたわ」
「存じております。当時の状況では、やむを得ぬことでした。中央質庫の設置法案が上程されておりましたので、院としても、係争の当事者を指定に留めておくわけには参りませんでした」
「ええ」
「法案は撤回されました。頭取は辞任なさった。——院として、あの返上は誤りであったと考えております」
その方の口調は、澱みがない。早口だが、聞き取りにくくはない。書面を読み上げているのではなく、書面を作れる人が喋っている。
「三日月堂さんの鑑定は、王都で最も確かです。それを指定から外したまま、というのは、院の恥です」
「まあ」
「率直に申し上げれば、私の恥でもあります」
「ボードワン様。当院の指定鑑定所は、いま、いくつございますの」
その方の唇が、そこで止まった。
「……七、ございます」
半拍、遅い。
数字を言うときだけ、この方は言葉が遅くなる。癖だ。数を口に出す前に、頭の中で一度、数え直している。
「七軒ですのね。それで、八軒目に当店を」
「はい」
「条件を、伺ってもよろしくて?」
「条件はございません」
その方は、懐から一枚、書面を出した。折り目の付き方が正確だ。
「ただ、指定鑑定所には、王国宝物令の定める義務が生じます。第十四条——王家の紋章、略紋、または宝物院の棚番を有する品を受け入れた場合、七日以内に院へ届け出ること」
「……ええ」
「形式的なものです。年に一度あるかないかでしょう」
私は、書面を受け取らなかった。受け取れば、指が触れる。触れれば、見たことになる。見たことになれば、断るのに理由が要る。
「ボードワン様」
「はい」
「お断りいたしますわ」
次官の顔から、笑いが消えた。消えたあとに残ったのは、怒りではなかった。
困惑だ。
「……理由を、伺っても」
「ええ。看板は、質草になりませんの」
「は」
「三月前、当店は看板を一枚、失いましたわ。けれど、帳場は失っておりませんの。あの日から今日まで、当店の査定は、一度も変わっておりませんわ」
私は、質札の綴りを軽く叩いた。
「看板が戻れば、当店の目がよくなりますこと?」
「……いえ」
「では、要りませんわ」
しばらく、その方は動かなかった。それから、書面を折り直して、懐に戻した。折り目は、来たときと同じ位置に戻った。
「……失礼を申し上げました」
「いいえ。お気遣いは、確かに頂きましたわ」
「一つだけ、申し上げてもよろしいか」
「どうぞ」
「私は」
その方は、初めて、少しだけ言い澱んだ。
「私は、下町の質屋を、王都の恥だと申したことがあります。三年前の、貴族院の宝物委員会の席で。……議事録に、残っております」
まあ。
自分から言うのか。
「よく、ご存じで」
「私が申し上げたのです」
「ええ。……当店、その議事録の写しを、昨夜、拝読いたしましたわ」
その方は、目を伏せた。
「取り消すつもりはありません。取り消せば、二重に恥ですので」
「賢明ですわ」
「ただ」
ボードワン次官は、顔を上げた。
「あのとき私が申したのは、『下町の質屋には、王家の宝が流れ込む』ということです。恥は、質屋にあるのではなく——流した側にあります」
私は、算盤の珠を一つ、指で押さえた。この方は、二十年前の秋を知っている。
……ええ。ご存じの方の言い方ですわ。
「ボードワン様」
「はい」
「お品物を、拝見してもよろしくて?」
「私は、何も持って参りませんが」
「では、当店のお品を」
私は、帳場の隅から、小さな布を取った。
布を開く。
蝋の石が一つ、載っている。台座も、爪もない。丸く、少し扁平で、大人の親指の腹ほどの大きさ。昨夜、ジョスラン・ミレーの指が作った四十八点目だ。ボードワン次官が、それを見た。
その方の背が、椅子の背から、二寸ほど浮いた。
「……珍しいお品ですな」
「ええ」
「玻璃、でしょうか」
「よくお分かりですわね」
「いや」
次官の指が、膝の上で一度だけ組み直された。
「……青い玻璃は、珍しい」
私は、その方の目を見ていた。目は、蝋の石から離れなかった。三呼吸のあいだ、離れなかった。
「ボードワン様。当店、この形の品を探しておりますの」
「……何のために」
「値をつけるためですわ。当店、質屋ですもの」
その方は、立ち上がった。立ち上がるとき、椅子が半寸だけ後ろへ滑った。姿勢のいい人の椅子は、普通、滑らない。
「三日月堂さん」
「はい」
「先ほどの、宝物令第十四条ですが」
「ええ」
「あれは、指定鑑定所の義務です。指定でない店には、届出の義務がありません」
その方は、外套の前を合わせた。
「……ですから、届け出ないでください。院へは」
まあ。
私は、片眼鏡の鎖に指をかけた。
「ボードワン様。それは、次官のお言葉ですの」
「いいえ」
その方は、暖簾に手をかけた。
「二十年前に、蔵の鍵を預かった、一人の役人の言葉です」
からん、と鈴が鳴って、その方は出ていった。
*
車輪の音が遠ざかってから、テオが帳場に走ってきた。
「姐さん! あの人、あれ見て、息止めたよ」
「ええ」
「三回、止めた。オレ数えた」
「上手ですわね」
私は、蝋の石を布に包み直した。
「テオ。他に、何かお気づきになって?」
テオは、店の入口を指した。石畳の上に、乾いた土が、点々と落ちている。靴の踵の形をした、小さな塊が三つ。
私はしゃがんで、指の先で一つ、つまんだ。崩れた。粉になった。指の腹が、赤くなった。
「……姐さん、それ」
「赤土ですわ」
王都の土は、灰色をしている。石灰と砂だ。この色の土が出るのは、西の街道を三日行った先——市の立つ、あの町の周りだけ。
クレール市。
ひと月半ほど前に、私が歩いた町。焼けた家の炉から、燃え残りの三枚を拾った町。
「テオ」
「なに」
「あの方の履物、昨日か一昨日に、クレール市の道を歩いておりますわ」
看板を一枚、頂けるお話でしたのよ。三月前に失ったものを、向こうから。……ええ、親切ですわね。書式のついた親切ですけれど。
指定鑑定所には、届出の義務がございますの。王家の紋のあるお品を受け入れたら、七日以内に。
——当店が今、帳場に何をお預かりしているか。ご存じの上でいらしたのかしら。
帰りしなに、こう仰いましたのよ。「届け出ないでください」と。
次官のお言葉ではなく。二十年前に蔵の鍵を預かった、一人の役人の言葉として。
次回、第69話『「国のため」と仰る方の帳面ほど、面白いものはございませんわ』——
人を調べるのに、その方に会う必要はございませんの。帳面が、二十年ぶん残っておりますもの。
慇懃な次官がお嫌いになれた方は、評価の☆を一つ。当店、次の一枚を繰りますわ。




