第67話:『四十八点目——帳面に載らなかったお品が、一点ですわ』
帳面に載らない品というものが、ある。
質屋を始めてから、私はそれを何度も見た。書けば足がつくから書かない。書けば値がつくから書かない。書かない理由は、いつも持ち主の側にある。品物の側には、一つもない。
ジョスラン・ミレーの手の中で、蝋の石は丸いままだった。
「ミレー様」
「……ああ」
「四十八点目は、いつ作られましたの」
「四十七点を納めて、三月あとだ」
テオが、天秤の分銅を戻す手を止めた。柱時計の音だけが、店に残った。
「同じ註文主ですの」
「分からん」
「分からない、と仰いますと」
「使いが、違った」
その方は、目を開けた。老人の目が、灯りの中で少しだけ濡れている。二十年前を思い出す目ではない。二十年前を、ずっと忘れていなかった目だ。
「四十七点のときは、若い使いが来た。宝物院の名を出した。註文書もあった。判も、あった」
「ええ」
「四十八点目のときは、名乗らなかった。註文書も、無え」
私は、白紙をもう一枚、引き出した。
「馬車は」
「黒塗りだ。いい馬車だった」
「紋は」
ジョスラン・ミレーは、私を見た。
「……無かった」
三度目でも、四度目でもない。この一年で、私は何度この馬車を伺ったろう。ソレルの供述で。怪文書の紙屋で。谷の工房への鏨で。そして昨夜、殿下の口から。紋のない、黒塗りの馬車。
……ええ。ようやく、二十年前まで遡りましたわ。
「ミレー様。註文の仕方も、違いましたのね」
「なぜ、分かる」
「お覚えでいらっしゃるからですわ」
私はペンを持ち直した。
「三十年、千八百四十点。あなたは、一点ずつを覚えてはおられませんわ。覚えていたら、人は三十年も続きませんもの。……けれど、この一点だけは、覚えておいでですの」
老人は、蝋を帳場に置いた。
「本歌を、見てねえ」
*
写しを作るには、本歌が要る。
当たり前のことだ。物を写すのだから、写す物が手元になければならない。三十年、ジョスラン・ミレーの工房には、いつも本歌が届いた。届いて、写しができて、両方が持ち去られた。
「四十八点目は、紙が来た」
「紙、ですの」
「一枚だ。寸法と、目方と、色。それだけ書いてあった」
「本歌は」
「来なかった」
その方は、平らな爪の指で、帳場を叩いた。とん、と一度。
「あんた。物を見ずに、物は作れねえ」
「ええ」
「だから、断った」
私は、顔を上げた。
「断りましたの」
「三度、断った」
沈黙が、少しあった。テオが息を吸う音が聞こえた。
「四度目に、何と仰いましたの」
「……何も、言われなかった」
ジョスラン・ミレーは、自分の右手を見た。
「工房の戸に、紙が挟んであった。使いも来ねえ。同じ紙だ。寸法と、目方と、色。……その下に、一行」
「なんと」
「『エルマ・クロッシュ 三日月堂』」
私の指が、ペンから離れた。
ぱたり、と、紙の上にペンが落ちた。
「……住所と、屋号が書いてあった。それだけだ。脅しの文句も、何も無え」
その方は、笑わなかった。
「わしは、作った」
私は、湯呑みに残った茶を飲んだ。冷えていた。
……ええ。
あの馬車の主は、この方の急所を、二十年前から存じておりましたのね。金でも、罰でもなく。三十年、月に一度だけ茶を飲みに来た婆さんの名前を。腹は立たない。ただ、そのやり方を、私は帳面に書き留めた。
「ミレー様」
「ああ」
「その紙は、どちらに」
「持って帰った。品と一緒に、使いがな」
「では、寸法を」
老人は、蝋の石を指で挟んだ。
「幅、六分五厘。奥、五分。高さ、四分二厘」
私は書いた。
「目方は」
「九匁三分。……ただし、これは玻璃の目方だ」
「玻璃で、お作りに」
「青い石だと書いてあった。深い青だ。夜の色だと」
その方の口調が、少しだけ職人に戻った。
「玻璃に、銅と、少しの金を入れる。窯から出して、七日冷ます。急ぐと、中に糸が入る」
「本歌は、蒼玉ですわね」
「たぶんな」
「ミレー様。台座は」
「無え」
ジョスラン・ミレーは、首を振った。
「石だけだ。爪も、枠も、註文になかった。……三十年で、一度きりだ。石だけ寄越せというのは」
台座がない。
枠もない。
つまり、はめる先が、もう決まっている。
*
私は、店の奥の棚へ行った。祖母の棚だ。裏台帳の五冊が納まっていた錠前の棚ではない。その一つ下、誰でも手が届く高さに、薄い冊子が並んでいる。
背表紙に、年が入っている。三十一冊。
「姐さん、それ何」
「宝物院の公開目録ですわ」
「……こうかい?」
「年に一度、書肆で売っておりますの。王家の蔵にどんな宝があるか、国民に知らせるための冊子ですわ。銅貨二枚ですのよ」
テオが、変な顔をした。
「宝の場所、教えちゃっていいの?」
「よろしいの。名前と、寸法しか載っておりませんもの」
私は、冊子を一冊抜いた。
「材も、来歴も、伏せてございますわ。……写されると困りますから」
言ってから、自分の言葉に、少し笑いそうになった。寸法だけ伏せなかった。だから、この国の誰でも、王家の宝の寸法を知ることができる。銅貨二枚で。
私は帳場に戻り、灯りを近づけた。
三十一冊のうち、二十年前より古いものを選ぶ。頁を繰る。宝飾の部。王冠の部。
あった。
『王冠 中央玉 幅六分五厘 奥五分 高四分二厘』
私は、動かなかった。自分の手が、書き取ったばかりの紙の上にある。同じ数字が、三つ並んでいる。
……ええ。
この寸法は、存じておりますわ。銅貨二枚で。
「ミレー様」
「……なんだ」
「四十八点目のお品は」
私は片眼鏡を着けた。それから、外した。着ける意味が、なかったからだ。目の前に、品物がない。品物は、二十年前から、王宮にある。
「王冠の、中央の石ですわ」
テオが、椅子を鳴らして立ち上がった。
「王冠って……あの、王冠? 国王陛下の、あれ?」
「ええ」
「うそだろ。あれ、蔵の一番奥だろ。番人が四人いるって——」
「テオ」
「え」
「番人は、蔵の外を見ておりますのよ」
私は、目録を閉じた。中を見る仕事は、誰の役目でもない。二十年に一度、開けて数えるだけだ。
ジョスラン・ミレーは、蝋の石を帳場に置いたまま、動かなかった。三十年、王都の贋作のほとんどを作った男が、自分の作った一点の行き先を、たった今、知ったのだ。
「……わし、は」
「ミレー様」
「わしは、王冠を——」
「いいえ」
私は、その手に湯呑みを持たせた。中身は空だったけれど、持たせた。
「あなたは、玻璃を一つ、お作りになりましたわ。それだけですの」
「だが」
「石を抜いた方と、石を入れた方と、帳面に『異状なし』と書いた方が、別におられますのよ」
私は、目録の背に指を置いた。
「その三人ぶんの罪を、あなたが一人で持って帰らないでくださいまし。……当店、預かり物が多うございますの」
その方が帰ったあと、私は店じまいをした。テオが、雨戸を繰る。板の鳴る音が、八枚。今朝より、一枚多い。
「姐さん」
「なあに」
「明日、どうすんの」
「暖簾を出しますわ」
「そうじゃなくて」
私は、帳場の綴りを揃えた。四十八枚。最後の一枚の品名の欄に、私はまだ何も書いていない。書けば、この店の帳面に「王冠」の二文字が載る。載せた紙は、歩き出す。
「……テオ」
「なに」
「当店、明日から、四十八点を探しますの」
ふう、と息を吐いて、テオが最後の雨戸を閉めた。
外の音が、消えた。その、消えたはずの外から。
からから、と、車輪の音がした。
石畳を踏む、いい馬車の音だ。それが、当店の暖簾の前で止まった。
四十八点目。帳面に載らなかった一点。台座も、枠も、註文にございませんでしたの。
——はめる先が、もう決まっておりましたのね。二十年前から。
寸法は、銅貨二枚で誰でも買えますのよ。国が、自分で刷って売っておりますの。
隠すべきものを隠して、隠さなくてよいものだけを隠さなかった。……お役所らしゅうございますこと。
次回、第68話『ボードワン様。——お品物を、拝見してもよろしくて?』——
本日は、当店から出向きませんの。向こうから、いらっしゃいますわ。
銅貨二枚で王家の寸法が買えると知って、ぞっとなさった方は、ブックマークを一つ。




