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婚約破棄された公爵令嬢は、下町で質屋を継ぎました 〜ところでその婚約指輪、贋物ですわよ?〜  作者: 朝比奈ミナ


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第66話:『二十年前の秋、四十七点。——目録から、始めますわ』

 目録というものは、物より長く生きる。物は焼ける。割れる。盗まれる。けれど「何があったか」を書いた紙が一枚残ってさえいれば、その物は、まだこの世にあることになる。


 逆もまた、同じだ。


 ……ええ。紙が消えれば、物は、無かったことになりますのよ。


 私は暖簾を出した。細い月の抜き型が、朝の石畳に、同じ形の影を落とす。店の中では、テオが雨戸を繰っていた。板の鳴る音が、七枚。


「姐さん」


「なあに」


「今日、いくつ開ける?」


「全部ですわ」


 テオは八枚目に手をかけたまま、こちらを振り向いた。十二歳の目は、こういうときだけ、ずいぶん大人びる。


「昨日、店じまい、遅かったじゃん」


「ええ。お客様が、遅うございましたから」


「……あの人、また来る?」


「さあ」


 私は暖簾の端を直した。指の先が、少し冷たい。木枯らしの季節が、そろそろ、この街にも降りてくる。


「けれど、昨日、そう仰いましたわね」


 からん。


 鈴が鳴った。


「——おはよう」


 黒い外套が、暖簾をくぐった。今朝は襟を立てていない。手には、小さな木の箱を一つ。


「客だ」


「いらっしゃいませ」


 私は帳場に戻り、質札の綴りを引き寄せた。テオが、慌てて残りの雨戸を繰っている。板が三枚、続けて鳴った。


「ずいぶん、お早いのですわね」


「開店の刻限に来た。客というのは、そういうものだろう」


「ええ。……ただ、当店のお客様は、たいてい、もう少し困っておいでですの」


 ルシアン殿下は、木箱を帳場に置いた。それから、少しだけ、笑われた。


「困っている」


 箱の中身は、懐中時計だった。私は、それを知っていた。去年の春、この帳場で拝見した品だ。あの日、黒い外套の男は名を名乗らず、これを一つだけ置いて、私の目を試していかれた。


 銀の蓋。裏に、彫り消しの跡。王家の紋が、削られている。


「殿下」


「うむ」


「これを、どうなさいますの」


「質に入れる」


 私は顔を上げた。その方は、真面目な顔をしておいでだった。冗談を仰るときの顔ではない。


「理由を、伺ってもよろしくて?」


「昨日、あなたは私に査定を頼まれた。……いや、逆だな。私があなたに頼んだ」


「ええ」


「頼んだ以上、私は物を出す。物を出す以上、それがどこにあるかを、誰かが書き留めねばならん」


 その方は、蓋を指で撫でた。


「これを宝物院に持ち込めば、院の帳面に載る。総裁の私物として、正式にな」


「そして、蔵が知りますわ」


「そうだ」


 私は片眼鏡を着けた。彫り消しの跡を、もう一度だけ見る。あの日と、傷は一つも増えていない。よく仕舞っておられた。


「質屋に預ければ、記録は当店の帳面にしか残りませんの」


「そのとおりだ」


「殿下。……それは、役所の総裁のなさることではございませんわ」


「うむ。だから、客として来た」


 まあ。


 私は片眼鏡を外した。


「お預かりいたしますわ。——ただし」


「ただし?」


「貸付は、いたしませんの。当店、王家の紋を担保に金子をお貸しした前例がございませんもの。……たぶん、王国中どこを探しても、ございませんわ」


「では、なんと書く」


「『預かり』ですわ」


 私は質札を一枚、抜いた。書式は、王国質商法の定めるとおり。名義、品名、受入日、そして備考。名義の欄に、私は書いた。


『ルシアン・ド・アルディス』


 爵位も、役職も、書かない。書けば、そこから紙は歩き出す。


「殿下」


「なんだ」


「一つだけ、伺いますわ」


 私はペンを置いた。


「昨夜、あなたは、宝物院の馬車は十四台だと仰いました。……お調べになりまして?」


「調べていない」


「では、どうしてご存じですの」


「数えたことがあるからだ」


 その方は、少しだけ黙られた。


「七つのときだ。厩に十四台あった。並んでいるのが、面白くてな」


 ……ええ。


 七歳の子供は、蔵の中を数えて歩きますのね。二十年前の秋に。私は質札の控えを切って、帳場の綴りに挟んだ。ぱちん、と算盤の珠を一つだけ弾く。預かりの合図だ。


「殿下。当店、本日から、あなたの査定を承ります」


「ああ」


「けれど、先に申し上げておきますわ。——当店は、宝物院を調べませんの」


「調べない?」


 その方の眉が、寄った。


「では、どうやって」


「殿下。昨夜、申し上げましたでしょう。総裁が調べれば、蔵は知りますわ。知った蔵は、紙を燃やしますの」


「分かっている。だが、それでは何も——」


「ええ。ですから、蔵の外を数えますわ」


 私は、帳場の下から布の包みを出した。三枚の、燃え残りの紙。昨夜、その方にお返しした「元金」だ。今朝、また帳場に戻っている。その方が置いていかれたのだ。


『註文主 控』


『王立宝物院    二十年前  四十七点』


「殿下。この紙は、二十年前に四十七点の『写し』が誰かの註文で作られたと申しております。……ただ、それだけですの」


「それだけ、か」


「ええ。この紙は、四十七点が『何であったか』を申しませんわ。壺なのか、匙なのか、燭台なのか。目方も、寸法も、ございません」


 私は三枚を、帳場に並べた。


「殿下。当店が四十七点の写しを探そうとしても、探しようがございませんの。何を探すのか、分かりませんもの」


「宝物院の出納帳には、載っている」


「ええ。二十年前の秋、四十七点、『破損につき処分』。……その頁を、誰が繰りに行きますの」


 その方は、答えられなかった。閲覧を申請すれば、申請の記録が残る。総裁が自分の役所の古い頁を繰れば、翌日には蔵じゅうが知る。


「殿下」


「うむ」


「目録が、要りますの」


 私は、質札の綴りを両手で引き寄せた。


「当店の商売は、目録から始まりますのよ。何があるかを書く。それから、値をつける。逆はございませんわ」


「その目録が、宝物院にしかない」


「いいえ」


 私は片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。


「もう一つ、ございますの」


 *


 その日の午後、暖簾に西日が差す頃に、背の高い老人が店に来た。ジョスラン・ミレー。六十歳。三十年、王都の贋作のほとんどを作り続けた男で、今は鑑札のない、ただの職人だ。


 月に一度、茶を飲みに来る。昨日、そう約束した。


「……早すぎたか」


「いいえ」


 私は湯呑みを二つ、棚から出した。白い、粗い、下町の焼き物。右の縁が欠けたものと、左の縁が欠けたもの。


「一日で参りましたわね」


「……月に一度と、言われた」


「ええ」


「今日から、一月だ」


 まあ。


 この方は、こういう数え方をなさる。三十年、明日でいいと思っていた男の、今日の数え方だ。


「ミレー様。お茶の前に、一つ、伺ってもよろしくて?」


「ああ」


「二十年前の秋。四十七点」


 その方の手が、湯呑みの手前で止まった。


「作りましたわね」


 沈黙が長かった。テオが、質草棚の埃を払う手を止めた。


「……作った」


「覚えておいでですの」


「型は、焼いた」


「ええ」


「図面も、無え。書いたことがねえ」


「ええ」


 私は、そこで待った。急かさない。この方の三十年は、急かされたことで潰れてきた三十年だ。やがて、ジョスラン・ミレーは、自分の手を見た。


 金工師の手だ。爪が平らで、関節が固まっている。指の背に、古い火傷の跡が三つ。


「……手は、覚えてる」


 私は、帳場を空けた。


 算盤を退け、質札の綴りを退け、天秤を出した。祖母の天秤だ。皿が銅で、腕が鉄。分銅は一分から二十匁まで、二十七個。それから、蝋を一塊。


「ミレー様。目を、お閉じになって」


「……なんだって」


「作った物を、思い出そうとなさらないでくださいまし。思い出そうとすると、人は、思い出したい形を作りますの」


 私は、蝋を老人の手に置いた。


「作ってくださいまし」


 ジョスラン・ミレーは、しばらく、その蝋を握っていた。それから、目を閉じた。


 手が、動いた。


 驚いたのは、速さだった。迷いが、まるでない。親指の腹が蝋の腰を出し、人差し指の第二関節が縁を落とす。二十呼吸ほどで、それは小さな器の形になった。


「……水差しの、口だ」


「目方は」


「三十六匁」


 テオが、天秤に飛びついた。蝋を皿に載せ、分銅を積む。二十匁、十匁、五匁、一匁。


「……三十六匁と、二分」


「蝋のぶんが二分だな」


「すげえ」


 テオの声が、裏返った。


「姐さん。この爺さん、目方が指に入ってる」


「ええ」


 私は、質札の綴りから白紙を一綴り、引き出した。書式は、当店の目録の書式で書く。番号、品名、材、目方、寸法、そして備考。


 一点目。


『銀水差し 一 高さ七寸二分 目方百八十匁 註文主控 二十年前 備考——口の巻きが二重、王家の様式』


 二点目。


 三点目。


 *


 日が暮れた。テオが灯りを入れた。


 十二点目で、老人の手が震え出した。私は茶を淹れ直した。十八点目で、テオが天秤の分銅を並べ替えた。大きさ順に。ジョスラン・ミレーが、それを見て、少しだけ笑った。


「……あんたの弟子か」


「見習いですわ」


「並べ方が、いい」


 二十四点目。燭台。腕が三つ。三十一点目。香炉。獅子の摘み。


 三十九点目。写経箱。錠前が二つ。夜が更けた。祖母の柱時計が、二度、鳴った。


 四十五点目。


 四十六点目。


 四十七点目。


 ——銀の匙。柄の先に、王家の百合。


「……四十七」


 ジョスラン・ミレーは、目を開けた。私は、書き終えた綴りを揃えた。四十七枚。一枚も、書き損じていない。


「ミレー様。四十七点、確かに承りましたわ」


 私は片眼鏡を着けた。


「これで、当店は探せますの。何を探すのか、分かりましたもの」


 二十年、この国のどこかにあった物が、四十七枚の紙になって、下町の帳場に載っている。


 ……ええ。これが、目録ですわ。


「姐さん、すげえよ。四十七点、全部——」


 テオの声が、途中で止まった。ジョスラン・ミレーの手が、蝋を握ったままだったからだ。


 最後の一塊。まだ、形になっていない蝋。その手が、動いた。


 目を、閉じたまま。


 小さい。ずいぶん、小さい。器でも、匙でもない。指の腹で押して、押して、押して——丸い。


 石だ。


 台座も、爪も、何もない。ただの、石の形。


「……ミレー様?」


 老人は、目を開けなかった。


「四十八点目が、ある」

第3部「宝物院編」、本日より開店でございます。長らくお待たせいたしましたわ。


目録から始めるのが、当店の商売ですの。何があるかを書いてから、値をつけますのよ。逆はございませんわ。……ええ、王宮の蔵も、同じでしたはずですのに。


四十七点。二十年前の秋。帳面には『破損につき処分』と。

——ところが、あの方の手は、四十八点、覚えておいででしたのよ。


次回、第67話『四十八点目——帳面に載らなかったお品が、一点ですわ』——

帳面に載らない品ほど、値打ちがございますの。


第2部からお付き合いくださった方も、ここからの方も。ブックマークを一つ、当店の暖簾に。

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