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婚約破棄された公爵令嬢は、下町で質屋を継ぎました 〜ところでその婚約指輪、贋物ですわよ?〜  作者: 朝比奈ミナ


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第65話:『本物を、お作りなさいまし。——値札は、当店がつけますわ』

 王立中央質庫設置法案は、撤回された。貴族院に諮るまでも、なかった。提出者ご本人が、撤回書を出したのだ。理由の欄には、こう書いてあった。


『担保の実在が確認できないため』


 ……ええ。


 ご自分の蔵に、ご自分で、その一行を。モーリス・グランヴィルは、王立中央銀行頭取を辞した。


 辞表を出したその足で、検事局へ、ひとりで歩いていかれたそうだ。従者も連れず。誰にも呼ばれていないのに。供述書は、ご自分でお書きになった。


『三ヶ月前、王都監獄にて、収監中のオーギュスト・ドラモンに対し、減刑を口頭で約した。書面なし。担保なし。期限なし。違約の定めなし。目的は、法案の維持。金銭の授受なし』


 ……あの方らしいですこと。


 ご自分の罪まで、査定表に書き込むように、お書きになる。項目を立てて。欄を埋めて。ドラモン男爵の減刑は、なかった。


 六年だ。取り調べで、あの方は、こう仰ったそうだ。


「口約束は、査定額ゼロでしてね。……いや、下町の質屋に、そう教わったんですよ」


 西六番出張所は、閉まった。あの、白い漆喰の建物だ。看板のない、石に文字を刻んだ建物。


 行列は、なくなった。


 ……その代わり、下町の質屋の店先に、少しずつ人が戻ってきた。


 三百四十一軒が、三百五十二軒になった。爺さんが十一人、店を開け直した。


「日当が、なくなったんでな」


 ボナール氏は、そう仰った。帽子を、握り潰しながら。


「食っていかにゃならん。……仕方なく、店を開けとる。仕方なくだぞ、お嬢さん」


 ええ。


 仕方なく、ね。


 三十六軒は、戻らなかった。もう、お歳だもの。四十年ぶんの目を持ったまま、隠居なさった。


 ……当店、その三十六人ぶんは、まだ、査定できておりませんわ。


 ギヨーム・ソレルは、南の国境の手前で捕まった。百四十一件の質入れ。全部、流質。詐欺で、八年だ。けれど、あの方は、雇い主の名をご存じなかった。


「顔は、見てねえ。……ただ、馬車が来た。黒塗りの、いい馬車だ。紋が、なかった」


 ……三度目だ。


 このひと月で、三度、伺った。鴉のジェスパーは、荷運びになった。


 当店が、雇ったのだ。


「……お嬢さん。あっしは、荷を担ぐだけでさあ」


「ええ。それで結構ですわ」


「ただ、今度は」


 その方は、少しだけ笑った。下卑た笑いでは、なかった。


「開けていい荷でさあ」


 テオは、その方に、まだ口を利かない。一生、利かないかもしれない。


 ……それで、よろしいの。当店、許していないもの。


 ジョスラン・ミレーは、訴追されなかった。


 罪が、ないもの。


 三十年、千八百四十点。全部に、署名。一点の例外も、なく。ジラール警吏長が、検事局にそう申し立ててくださった。


「他意はないが」


 その方は、当店の帳場で、そう仰った。


「……四十年、警吏をやってきて、初めてだ。『罪がないことを立証する』ために、三十年ぶんの贋作の帳面を出したのは」


 ただ。


 鑑札は、戻らなかった。


 質庫の辞令は、蔵と一緒に消えた。三十年前の除籍は、メルローズ公爵家の申し立てによるもの。今更、覆せない。申し立てた方は、もう、お亡くなりだもの。


 六十の職人が、また、鑑札のない職人に戻った。


 *


 その方が、当店の暖簾をくぐったのは。法案が撤回されて、十日目の朝だった。


「……お嬢さん」


 背の高い老人が、帳場の前に立っていた。今度は、座らなかった。両手に、布の包みを持っておいでだった。


「わしは、鑑札がねえ」


 その方は、そう仰った。


「表の市には、出せねえ。工房も、持てねえ。……六十だ。三十年前と、同じだ。何も、変わっちゃいねえ」


「ミレー様」


「一つだけ、変わったのは」


 その方は、包みを帳場に置いた。


「持ってきた、ってことだ」


 包みを、開いた。


 銀の水差し。


 クレール市の、婆さんの布の上から金貨三枚で買った、あの水差しだ。私が、お返ししたのだ。地下の、窓のない部屋で。


「三十年、明日でいいと思ってた」


 ジョスラン・ミレーは、そう仰った。


「今日は、今日にした」


 私は片眼鏡を着けた。


「お品物を、拝見いたしますわ」


 銀の含み、九割四分。


 本歌、なし。


 継ぎ目、底寄り。その奥に、横倒しの、細い月。


「査定、確定いたしましたわ」


 私は、片眼鏡を外した。


「金貨、八十枚」


 ジョスランの、大きな手が。


 止まった。


「……八十?」


「ええ」


「お、お嬢さん。……そりゃ、法外だ。銀の目方で、三枚だぞ。写しなら、地金で——」


「写しでは、ございませんもの」


 私は、算盤を引き寄せた。


「銀、三枚ですわ。……あとの七十七枚は」


 ぱちん。


「腕ですの」


 ジョスラン・ミレーは、動かなかった。


 ずいぶん長いこと。


 それから、その大きな手で顔を覆った。私は、少し奥へ引いた。この店の帳場は、暗い。祖母が、そうしたのだ。


 ……ええ。


 この暗さは、そのためにあるのね。私は、蔵から一冊、持ってきた。五冊目だ。手が震えた字の、最後の一冊。最後の記載は、昨年の秋。


『銀の匙 一 継ぎ目柄寄り 横倒しの月あり 東市にて 銀貨四枚』


 その、次の行。


 白いままの、次の行に。私は、ペンを下ろした。


『銀水差し 一 本歌なし 継ぎ目底寄り 横倒しの月あり

 三日月堂 帳場にて 金貨八十枚』


 そして。


 備考欄に。


 祖母の備考欄は、素っ気ない。三文字か、四文字だ。


 私は、書いた。


『本物。』


「ミレー様」


「……ああ」


「一頁目を、お開きになって」


 その方は、一冊目を開いた。三十年前の、革表紙。背が割れて、麻糸で綴じ直してある一冊。


 一頁目の、備考欄。


『本物を作ったら、うちの帳場へ持っておいで。

 値は、わたしがつける。』


「三十年、かかりましたわね」


 私は、五冊目をその隣に開いた。


『本物。』


「……お嬢さん」


「はい」


「一年、遅れた」


「ええ」


 私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。


「ですから、利息を、頂きますわ」


 私は、棚から湯呑みを二つ、出した。白い、粗い、下町の焼き物だ。ラトン街の、東の窯。右の縁が欠けたものと、左の縁が欠けたもの。


「ミレー様。月に一度、いらして」


「……」


「お茶を、お淹れいたしますわ」


「あんたが?」


「ええ」


 私は、湯を注いだ。


「祖母は、三十年、あなたのお茶を、飲んで帰りましたのよ。……三十年ぶん、お返しいただきますわ」


 その方は、湯呑みを受け取った。欠けた縁の、左のほうを。


「本物を、お作りなさいまし」


 私は、そう申し上げた。


「鑑札は、ございませんわね。表の市には、出せませんわね。……結構ですわ。当店、質屋ですもの」


 私は、質草棚を指した。鍋と、外套と、パン屋の女房の絵の掛かっていた、あの棚を。


「質屋は、お品物を見ますの。持ち主の身分は、見ませんのよ。……鑑札を訊く質屋が、どこにございまして?」


 私は片眼鏡を着けた。


「——値札は、当店がつけますわ」


 ジョスラン・ミレーは、湯呑みを両手で包んでいた。金工師の、爪の平らな、関節の固まった手で。


「……エルマさん」


 その方は、そう仰った。


 誰にでもなく。


「淹れたぞ」


 *


 夜。


 店じまいの刻限に、からん、と鈴が鳴った。


 黒い外套。


 手が、空だった。三度目だ。


「殿下」


「……客ではない、と言いたいところだが」


 その方は、少しだけ、決まりの悪い顔をなさった。


「本日は、取り立てに来た」


 あら。


「元金だ」


 私は、帳場の引き出しから、布の包みを出した。


 三枚だ。


 燃え残った、紙。


 包みを、開いた。


「殿下。元金を、お返しいたしますわ」


 ルシアン殿下は、それを読んだ。


『註文主 控』


『王立宝物院    二十年前  四十七点』


 その方は、動かなかった。


 ずいぶん長いこと、動かなかった。


「……クレール市の、焼けた家の炉ですわ」


 私は、静かに申し上げた。


「灰の中に、埋まっておりましたわ。束は、きつく重ねますと、真ん中が、燃え残りますの。空気が、入りませんもの」


「二十年前」


 殿下の声が、掠れた。


「……私は、七つだ」


「ええ」


「母の瓶が『壊れた』ことになっていた年だ」


「ええ」


「この蔵の総裁は」


 その方は、顔を上げた。


「私だ」


「ええ」


 私は、片眼鏡の鎖に指をかけた。


「殿下。だから、申し上げられませんでしたのよ」


「……分かっている」


「申し上げましたら、あなたは、お調べになりますわ。ご自分の役所を。正確に。速く。……総裁が調べれば、蔵は、知りますでしょう」


「知った蔵は、紙を燃やす」


「ええ」


 私は、その三枚を指した。


「三年前に、この炉が、そうしたように」


 殿下は、その三枚を長いこと、見ていた。


 それから——


「ヴィオレッタ殿」


「はい」


「査定を、頼めるか」


 私は片眼鏡を着けた。帳場の算盤を、ぱちん、と一つ弾いた。


「承りましたわ」


「ただし、殿下。一つ、申し上げておきますわ。……当店の査定は、遅うございますのよ」


「知っている」


「三日では、済みませんわ。三月でも、三年でも」


「知っている」


 その方は、少しだけ笑った。


「八ヶ月、この店に通った。あなたの査定が遅いことだけは、王都で一番、よく知っている」


 まあ。


 窓の外に、細い月が昇っていた。祖母の看板と、同じ形の月が。


「殿下。ひとつ、伺ってもよろしくて?」


「なんだ」


「宝物院の馬車には、紋章が、ございますこと?」


 殿下は、当たり前のことを訊かれた顔をなさった。


「ある。全部だ。宝物院の馬車は十四台、全部に、剣と星の紋が入る。……紋のない馬車は、宝物院に、一台もない」


「そうですの」


「なぜ、そんなことを——」


 その方の声が。


 止まった。


「……いや」


 殿下の顔から、色が引いた。


「一台だけ、ある」


 その方は、外套の襟を立てた。


「明日、伺う」


 からん、と鈴が鳴った。


「……客として、だ」

第2部、ここまででございます。


法案は撤回され、蔵は閉まり、写し師は帳場へ参りました。祖母の三十年に、ようやく、値札が付きましたのよ。備考欄に、二文字だけ。


閣下は、金貨を一枚もお取りになりませんでした。あの方の罪は、見なかった罪でございます。……当店、三月前に、同じ査定をいたしましたわ。父に。


赤い付箋は、二枚とも、剥がれました。「金貨九千枚の流れ先」と「写し師ジョスランの行方」。

——代わりに、新しいのが、三枚ほど。


二十年前の秋、四十七点。『破損につき処分』。鋳潰しの受領書は、一枚もございません。

註文主の控の、筆頭に——王立宝物院。

そして、紋のない、黒塗りの馬車が、一台。


当店の台帳に、貸し倒れはございませんのよ。三枚とも、これから査定いたしますわ。


利息は次話で、たっぷりお返しいたします。——それでは、また開店の鈴で。

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