第62話:『証人は、下町ぜんぶですわ』
朝。
テオが、良い外套を出してくれた。私が、公爵家から着てきた、ただ一枚の外套だ。あの夜会の夜に着ていた、あれだ。
「……姐さん。これ、着るの?」
「ええ」
「なんで? 質屋の格好でいいじゃん」
「テオ」
私は、袖を通した。
「これ、質草ですのよ」
「あの夜、勘当されまして、これ一枚で、この店に参りましたの。……祖母の帳面に、書いてございますわ。当店の質草棚の、第一号ですのよ。ずっと、流れずに、ございますわ」
鏡を見た。公爵令嬢の外套だ。仕立ては、王都で一番。生地は、南の絹。
……ええ。
良いお品ですこと。
「テオ。査定額、金貨四十枚ですわ」
「……そんなに?」
「ええ。ですけれど」
私は、にっこりと微笑んだ。
「本日は、これを着て、質屋の仕事に参りますのよ。……ですから、今日から、これは、質屋の外套ですわ」
*
扉を開けた。
通りが、いっぱいだった。ラトン街の、三番地の前が。
ポレットさんが、一番前にいた。仕立て物の未亡人だ。開店したての頃に、形見の指輪を取り戻した方。今日は、一番良い黒を、着ておいでだった。
その隣に、油問屋のご隠居。青磁の香炉の方だ。杖をついて、二人の若い衆に支えられて。ドニさんが、粉だらけの前掛けのまま。手に、パンの籠を。
「お嬢! 昼飯だ! 五十人ぶん焼いた!」
……五十人?
ジュリアンさんがいた。南風堂の若旦那だ。香箱を、抱えて。
「侯爵夫人が、戻ってくださいました。……先週です。うちの香を、また、焚いてくださってます」
クロエさんがいた。前掛けをして、袖をまくって、指が墨で真っ黒で。
「うちの帳面、持ってきました。四軒ぶん。全部です」
そして。
「……お嬢さん」
真っ黒に焼けた顔の、老人が。手が、木の根みたいで、耳が潰れた方が。
「ロランさん!?」
クレール市の、船乗りだ。三十年の年金を、川底に沈めた方。
「馬車で、三日だ。爺が二十人、乗り合いでな」
その方は、少し、笑った。
「船が、上がったんだ、お嬢さん。先月。……二十人で、綱かけてな。腰やった奴が三人出たが、上がった。今、直しとる。……舵が、まだ付いとった。あんたの言うとおりだ」
……私は、少し、片眼鏡を外した。
ボナール氏がいた。
その後ろに、老人が、五十人ばかり。全員、質屋の元主人だ。四十年、五十年、質草を見てきた目だ。全員、質庫の窓口の、あの上着を、着ていなかった。
「……ボナールさん。この方々」
「辞めてきた」
ボナール氏は、帽子を握り潰していた。
「昨日、五十六人だ。……全員、辞めた。日当は、もう出ん。……こいつら、馬鹿だろう」
私は、答えられなかった。
「なあ、お嬢さん。こいつら、四十年、質屋やってきた爺だ。毎晩、担保庫で、贋物を数えて、黙って、朝には『甲種担保』と読み上げてきた」
その方の声が、掠れた。
「今日は、口が利ける」
マルゴさんが、煙管を咥えて、私の隣に来た。
「お嬢。数えたよ」
「何を」
「立会人さ」
マルゴさんは、煙管の先で、通りを指した。通りは、ラトン街を埋めていた。
パン屋。仕立て屋。油問屋。古着屋。八百屋。魚屋。桶屋。鍛冶屋。口入屋。船乗り。質屋の爺さん。子供。子供。子供。
「……六百人だ」
私は、息を止めた。
六百人。
担保庫の五百二十九点より、多い。
*
王立中央質庫、本庫。
石の建物の前に、卓が一つ、出ていた。
立会人名簿だ。
役人が、二人。名前を書かせて、印を捺させて。
「……あの、字が」
ポレットさんが、口ごもった。
「あの、わたし、字が」
「拇印で、結構ですわ」
私は、そう申し上げた。
「質商法第十一条ですわ。名義人の求めがあれば、店は台帳を開示いたしますの。……拇印は、署名と、同じ効き目がございますのよ。祖母の帳面にも、拇印が、いくつも」
ポレットさんは、指を、朱肉に押しつけた。
震えていた。
そして、名簿に、赤い丸を、一つ。
六百人が、並んだ。
名前を書ける方が、二百人。拇印が、四百人。役人が、途中で、朱肉を、三つ、取り替えた。
「……姐さん」
テオが、私の袖を引いた。
「あそこ」
行列の、中ほど。
黒い外套が、一つ。
その方は、並んでおいでだった。
六百人の、真ん中に。
パン屋の主人と、桶屋の女房のあいだに。
「殿下——」
「しっ」
その方は、私を見ずに、仰った。
「今日は、違う」
順番が、来た。
殿下は、卓の前に立って、ペンを取った。役人が、顔を上げて——固まった。
「で、殿下!? あの、こちらへ、こちらへ。総裁席は、上に——」
「客だ」
殿下は、短く仰った。
「客として、来た。列に、並んだ。……何か、問題が?」
役人は、答えられなかった。殿下は、名簿に、ペンを下ろした。私は、その手元を見ていた。
書いた。
『ルシアン・アルディス』
……あら。
「ド」が、ございませんの。
ルシアン・ド・アルディス。王弟。王立宝物院総裁。あの「ド」は、貴族の印だ。あれがあるから、この方は、殿下だ。
その、一文字を。
その方は、ペンを置いた。それから、初めて、私を見た。
「ヴィオレッタ殿」
「……はい」
「本日、私は、宝物院の総裁ではない」
その方は、静かに仰った。
「本日、私は、あなたの店の、八ヶ月ぶんの常連客だ。……それ以上の資格を、私は、持っていない」
「殿下」
私は、片眼鏡の鎖に指をかけた。
「利息を、お納めいたしますわ」
「……ほう」
「わたくし、嘘を、つきましたの。あの夜、宝物院の綴じ紐の色を伺って、『なんでも』と申し上げましたわ。……あれは、嘘ですわ」
「知っている」
「ええ。ですから、利息ですのよ」
その方へ、目を向けた。
「認めることが、利息ですの。……元金は、まだ、お返しできませんわ」
「期限は」
「決めましたわ」
私は片眼鏡を着けた。
「本日では、ございませんの。……ですけれど、遠くございませんわ」
その方は、しばらく、私を見ておいでだった。
それから——笑った。
「では、待とう」
その方は、行列に戻った。パン屋の主人と、桶屋の女房のあいだに。
「良い目だ」
*
石の建物の、扉が、開いた。
中は、明るかった。
窓が大きく、灯りが惜しみなく点いていて、床は磨いた石。あの、明るさだ。恥じることなど何もない、という顔の、明るさ。その奥に、鉄の扉があった。
担保庫。
壇が、組んであった。
卓が、三つ。
右に、質庫の窓口役人。算盤と、査定表の第五版を、前にして。真ん中に、卓が、一つ。空いている。
左に。
背の高い老人が、立っていた。大きな手を、卓に置いて。その卓の上に、湯呑みが、二つ。
白い、粗い、下町の焼き物だ。ラトン街の、東の窯。五十年前に、閉まった窯。右の縁が欠けたものと、左の縁が欠けたもの。
湯気が、立っていた。
ジョスラン・ミレーが、私を見た。
「……お嬢さん」
その方は、短く仰った。
「淹れた」
グランヴィル氏が、壇の下から、私を見上げていた。灰色の髪を、きっちり撫でつけて。装身具は、ひとつも。その方は、六百人を見渡した。値踏みでは、なかった。
数えていらしたのだと、思う。
「……ヴィオレッタ殿。証人は?」
私は、壇に上がった。
湯呑みを、一つ、手に取った。
温かった。
「閣下」
私は、六百人を見渡した。パン屋。仕立て屋。船乗り。質屋の爺さん。子供。拇印が、四百。そして、その真ん中に、黒い外套が、一つ。
「証人は、下町ぜんぶですわ」
本日も、お付き合いくださいまして。
立会人、六百人。名前を書けた方が二百人、拇印が四百人。役人が朱肉を三つ、取り替えました。
——五百二十九点より、多うございますのよ。
爺さんが、五十六人、辞めてまいりました。日当は、もう出ませんの。今日は、口が利けますわ。
次回、第63話『査定を、始めますわ。——本日の質草は、法案ですわ』——
扉が、開きます。




