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婚約破棄された公爵令嬢は、下町で質屋を継ぎました 〜ところでその婚約指輪、贋物ですわよ?〜  作者: 朝比奈ミナ


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第60話:『数式でお勝ちになりたいのなら、数式で負けてくださいまし』

 十日だ。


 私は、帳場に弾を並べた。一、査定表の穴。五つ。——閣下が、先月、お塞ぎになった。第五版で。私は、その紙を裏返した。


 ……いいえ。塞がっていない。


 担保庫の五百二十九点は、いつ査定された? 先月より、前だ。真贋の欄の、ない表で。私は、それを一の欄に書き直した。


『一、五百二十九点は、真贋の欄のない表で査定された』


 二、沈んだ船。エメ号。十二分の二十。——国の蔵が、川底に、船を一隻。担保の実在の話だ。真贋どころではない。


 三、写し比率。四百二十三点。——ただし、目方が合っただけだ。証しには、ならない。


 四——


 私は、四の欄で、ペンを止めた。


「姐さん」


 テオが、帳場の向こうから言った。


「四つ目、書けよ」


「……」


「ミレー様が、『わしの作だ』って言えば、終わりじゃん。一発じゃん」


「テオ」


「でも、そしたら、あの人、牢屋じゃん」


 この弟子は、賢い。


 賢すぎますわ。


 *


 ジラール警吏長が当店に来たのは、その夜だった。四角い顔を、いっそう四角くして。


「十日後の件だ。警吏隊から、二十人出す。……お嬢さん。人が集まるぞ。あの触れ書きの出し方は、なんだ。『希望する者すべて』とは」


「そう書きましたのよ」


「役所は、そういう書き方をせん」


「当店、役所ではございませんもの」


 警吏長殿は、ふん、と鼻を鳴らした。


「他意はないが。……で、なんだ。呼びつけておいて」


「警吏長殿。ひとつ、伺いたいんですの」


 私は、片眼鏡の鎖に指をかけた。


「写しを作ることは、罪ですの?」


 ジラール警吏長は、しばらく、私を見ていた。それから、こう仰った。


「……罪ではない」


 私は、息を止めた。


「罪ではない。写しは、写しだ。宮廷工房でも作る。稽古のために、名品の写しを作らせる。骨董屋の見本もそうだ。……写しを作ること自体を罰する条文は、王国の法典に、一つもない」


「では、何が」


「偽ることだ」


 警吏長殿は、太い指を卓に置いた。


「詐欺だ。写しを、本物と偽って売る。あるいは、本物と偽って、担保に入れる。……偽った者が、罪だ。作った者ではない」


 ……私は、片眼鏡を外した。


「警吏長殿。ミレー様が、三十年、作られた写しは、二千三百十一点のうち、千八百四十点ですわ。祖母の帳面に、そう書いてございますの」


「ああ」


「その千八百四十点」


 私の声が、少し、震えた。


「継ぎ目に、何が彫ってございますかしら」


 ジラール警吏長の、四角い顔が。


 止まった。


「……三日月」


「ええ」


「千八百四十点、全部か」


「一点の、例外も、ございませんわ」


 私は、五冊を帳場に積み上げた。


「祖母は、三十年、一点ずつ、確かめて、書いておりますのよ。『横倒しの月あり』と。千八百四十回。……一度も、『月なし』とは、書いておりませんわ」


「警吏長殿」


 その方の顔を見た。


「三日月は、署名ですのよ」


「ミレー様は、ご自分で、そう仰いましたわ。『見てくれ、と』。……三十年、あの方は、ご自分の作った写しに、全部、ご自分の署名を、彫っておいでですの」


 私は片眼鏡を着けた。


「署名のある品は」


「偽っておりませんわ」


 店の中が、静かだった。テオが、口を開けたまま、固まっていた。


「……あ」


 最初に声を出したのは、ジラール警吏長だった。


「あ、あ、待て。待て、お嬢さん。……ということは」


「ええ」


「あの男は」


「三十年、一度も、偽っておりませんわ」


 私は、五冊の背表紙を、指でなぞった。


「偽ったのは、ドラモン男爵ですわ。由緒書きを着せてお売りになった。偽ったのは、ソレルさん。男爵に、三百枚でお売りになった。偽ったのは、ピケさん。ヴァレンヌの署名を書き足させた。ジェルヴェさんは、系図を書きましたわ。カルヴェさんは、査定票を信じて、蝋を売りましたの」


 顔を上げた。


「そして」


「王立中央質庫は、五百二十九点に、『甲種担保』の値札を、お貼りになりましたのよ」


「……国が」


 ジラール警吏長の声が、掠れた。


「国が、偽ったのか」


「いいえ」


 私は首を振った。


「見なかっただけですわ」


 私は、帳場の四の欄に、ペンを下ろした。


 書いた。


『四、三十年、王都の写しには、すべて署名がある。

  偽った者は、一人もいない。

  ——見なかった者だけが、いる。』


「テオ」


「……姐さん」


「祖母は、三十年、なぜ、告発なさらなかったのかしら」


 テオは、答えなかった。私は、湯呑みを両手で包んだ。祖母の、欠けた湯呑みだ。


「……できなかったんですのよ」


 私の声が、うまく出なかった。


「罪が、ございませんもの」


「三十年、あの方は、告発できる罪を、一つも、お作りにならなかった。……テオ。祖母の帳面は、証拠ではございませんでしたのね」


 私は、五冊に手を置いた。


「無罪の、記録ですのよ」


 千八百四十点。


 三十年。月に一度。


 あの方は、市へ行って、彼の写しを見つけて、継ぎ目を覗いて、三日月を確かめて、帳面に書いた。


 『横倒しの月あり』


 一点ずつ。千八百四十回。それは、こういう意味だった。


 ——今月も、この子は、署名した。

 ——今月も、この子は、偽らなかった。


 そして、谷へ行って。座って。茶を一杯飲んで。何も言わずに、帰った。


 ……あの方は、確かめに行っておいでだったのね。


 三十年。


「姐さん、泣いてる?」


「まさか」


 私は、湯呑みを置いた。


「湯気ですのよ」


 ジラール警吏長は、帰り際に、こう仰った。


「お嬢さん。一つ、忠告だ」


「はい」


「あんたの理屈は、通る。法廷でも通る。……だが、通るのと、通すのは、別だ」


 その方は、扉のところで振り返った。


「三十年、王都中が贋物を掴まされてきた。その落とし前を、誰かがつけにゃならん。……人ってのはな、お嬢さん。『誰も悪くありません』では、納得せんのだ」


 存じておりますわ。


 *


 十日目の、前夜。


 私は、帳場に四つの弾を並べた。


 一、真贋の欄のない表。

 二、川底の船。

 三、四百二十三点。

 四、三十年ぶんの、署名。


 ……足りない。


 これは、全部、「あなたの査定は間違っている」という弾だ。あの方は、こう仰るだろう。


 ——では、今、査定し直せばいい。第五版で。私の首席査定官が、真贋の欄を埋める。それで、蔵は、正しくなる。


 ……そうだ。


 それで、蔵は、正しくなる。


 法案は、通る。


 ……いいえ。


 閣下。


 あなたは、四百二十三点を、査定し直すおつもりなのね。その、四百二十三点は、どうやって、蔵に入った?私は、算盤を引き寄せた。


 ぱちん。


 ソレル、百四十一件。ぜんぶ流質。貸付金は、そっくり基金へ。


 ぱちん。


 ロワゾー、二十枚。沈んだ船。


 ぱちん。


 ロシュフォール、一領。金貨三百枚で、査定票をお買いになった。


 ぱちん。


 ……閣下。


 あなたの蔵の資産は、四百二十三点、査定し直せば、二束三文になる。担保が消える。担保が消えれば、貸した金が、返ってこない。


 貸した金は、どこから出たのかしら。


 基金だ。


 私は、算盤の玉を、全部、払った。じゃら、と、良い音がした。


「……あら」


 まあ。


 閣下。


 あなたの蔵は、査定し直したら、潰れる。


「数式でお勝ちになりたいのなら」


 私は、四つの弾を、そっと揃えた。


「数式で、負けてくださいまし」


 *


 その夜、当店の扉の下に、紙が一枚、差し込まれていた。


 テオが、拾ってきた。


「姐さん、なんかヤバいのある」


 怪文書だった。


 刷りものだ。同じものが、王都中に撒かれていた。


『下町の質屋「三日月堂」こそ、王都贋作網の元締めである。

 その証拠に、王都に流れる贋物には、すべて「三日月」の刻印あり。

 先代エルマ・クロッシュは、三十年、この刻印を帳面に記録し続けていた。

 自らの工房の出荷台帳を、である。』


 私は、その紙を、灯りに透かした。


 二月前にも、同じ嘘を伺った。ユディト・メルローズが、最後に、これを撒いた。私は片眼鏡を着けた。


「テオ」


「うい」


「紙屋を、お替えになりませんのね」

お読みいただき、ありがとうございます。

写しを作ることは、罪ではございません。偽ることが、罪ですの。

——三日月は、署名でございました。三十年、千八百四十点。一点の例外もなく。


祖母は、告発しなかったのではございませんの。できなかったんですのよ。罪が、ないんですもの。

あの方の帳面は、証拠ではございませんでしたわ。無罪の、記録でしたの。


次回、第61話『怪文書の紙も、今年の漉きたてですのね』——

同じ嘘は、二度、通りませんのよ。

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