第58話:『でしたら、あなたの腕に——正しい値札をおつけしますわ』
その夜、私は、帳場に水差しを置いていた。クレール市の、婆さんの布の上から、金貨三枚で買った、銀の水差し。
三刻、見ていた。
「姐さん」
テオが、帳場の向こうから言った。
「あいつ、告発すんの?」
「……」
「ばあちゃんの帳面、あるじゃん。五冊。二千三百十一点。あれ、警吏に出せば、あいつ、終わりじゃん。あいつが終われば、質庫の真贋の欄、誰も埋められねえ。……法案、止まるかもよ」
この弟子は、賢い。
賢すぎる。
「テオ」
「うい」
「祖母は、なぜ、なさらなかったのかしら」
テオが、黙った。
「三十年ですわ。一冊目の、十頁で、足りましたのよ。……あの方は、なさらなかった」
私は、湯呑みを両手で包んだ。祖母の、欠けた湯呑みだ。
「テオ。告発というのは、値札ですのよ」
「……え?」
「『贋作を作った罪人』。……その札を貼ったら、あの方の値打ちは、そこで、確定いたしますわ。永久に。三十年ぶんの腕も、一頁目の備考欄も、全部、その札の下ですのよ」
湯呑みを、置いた。
「祖母は、三十年、値札を貼るのを、拒み続けましたの。……孫が、それを貼っては、帳尻が合いませんわ」
テオは、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「じゃあ、姐さん。どうすんの。あいつ、蔵の中じゃん。あいつが真贋の欄を埋めたら、質庫は完成じゃん。……姐さん、負けるじゃん」
「ええ」
私は、水差しを灯りに近づけた。
「ですから、値札を、お貼りしますのよ」
「え? 今、貼らないって——」
「正しいのを、ですわ」
私は片眼鏡を着けた。この水差しを、私は十日、査定できずにいた。
本歌が、ない。
写しには、必ず本物がある。写すのだもの。兜には、二百年前の騎士団の兜があった。竜涎香にも。絵には、ヴァレンヌという、着せられた名前が。
この水差しの本物を、わたくし、存じない。祖母の帳面の、どこにもなかった。二千三百十一点、探した。
当たり前ですわね。
私は片眼鏡を外した。
わたくし、十日、なんて馬鹿なことを。
「テオ」
「なに」
「写しではございませんの」
テオが、目を丸くした。
「え? だって、三日月、あんじゃん。継ぎ目に。姐さん、自分で——」
「ええ。三日月が、ございますわ」
私は、その継ぎ目を指でなぞった。
「ですから、写しだと思いましたのよ。三十年、三日月は、写しの印でしたもの。……テオ。三日月は、写しの印ではございませんわ」
顔を、上げた。
「署名ですのよ」
あの方は、仰った。
——見てくれ、と。
三十年、あの方は、写しに署名を彫り続けた。この王都で、この写しに気づく方は、一人しかいないから。あの人だけは、見抜くから。見抜かれたら、終わり。
だから、彫った。彫っちまった。
……そして、三年前。
あの方は、初めて、写しではないものをお作りになった。誰の写しでもない、銀の水差しを。そこにも、三日月を彫って。
「テオ」
私の声が、少し震えた。
「あの方は、お作りになりましたのよ。……本物を」
「三年前ですわ。……そして、その年に、家が、焼けましたの」
私は、水差しを両手で持った。
「婆さんが仰っておりましたでしょう。『うちの人が、拾ってきたのさ。三年前だったかね。町外れの、焼けた家からね』と」
「……姐さん。じゃあ、これ」
「ええ」
「持って、来られませんでしたのね」
三年前。
あの方は、生まれて初めて、写しではないものをお作りになった。三十年前の、あの一行のお返事だ。
『本物を作ったら、うちの帳場へ持っておいで。値は、わたしがつける。』
持っておいでに、なれなかった。いつも、明日でいいと思った。……三十年、明日でいいと思ってた。
そして、家が焼けた。谷の工房へ、移された。門の鍵が、外から掛かる工房へ。一年前、祖母が来なくなった。あの方は、三十年ぶんの型を炉に入れた。
私は、水差しを布に包んだ。
「テオ。外套を、お出しになって」
「え、今から!? もう夜だよ!」
「ええ。夜ですわね」
私は片眼鏡を着けた。
「当店、閉店の刻限でございますわ。……ですから、こちらから、伺いますのよ」
*
王立中央質庫、本庫。
担保査定室は、地下だった。石の階段を、二十四段降りた。灯りが、廊下に、一つずつ。
階段の途中で、私は手袋を着けた。……ここから先は、お品物に触りますもの。
……北向きの、大きな窓はなかった。
窓が、ない。
扉を開けると、ジョスラン・ミレーが卓に向かっていた。壁に、鏨が二百本。大きさ順に。その方は、査定表を前にしていた。第五版だ。
『真贋 ( )』
空欄だった。
その方の手には、ペンが握られていた。鏨を握る手が、ペンを握っていた。
「……お嬢さん」
「ミレー様。閉店間際に、失礼いたしますわ」
私は、卓の前に立った。
「お品物を、拝見していただきたく、参りましたの」
「……わしは、もう」
「いいえ」
布の包みを卓に置いた。
「拝見していただくのではございませんわね。……失礼いたしましたわ。当店が、拝見いたしますのよ」
包みを開いた。
ジョスラン・ミレーは、それを見た。見て——動かなくなった。
「……それ」
「クレール市の、朝市ですわ。婆さんの布の上に、五点並んでおりましたうちの、真ん中でしたのよ。金貨三枚と。……値切りませんでしたわ」
その方の大きな手が、卓の上で震えていた。
「……なんで」
「拾われましたのよ。焼けた家から」
「ミレー様」
私は片眼鏡を着けた。
「査定を、始めますわ」
「第一に、本歌ですわ」
私は、水差しを灯りに掲げた。
「ございませんの。……祖母の帳面、三十年、二千三百十一点。この形は、一点もございませんわ。王都の、どの蔵の目録にも。どの家の記録にも」
「……」
「この水差しの本物は、この世に、ございませんの。——ここに、あるだけですわ」
「第二に、銀ですわ」
胴を指で弾いた。ちん、と良い音がした。
「含み、九割四分。……写しは、ここを落としますのよ。落とさなければ、儲けが出ませんもの」
私は、その方を見た。
「ミレー様。あなた、これで、儲けるおつもりが、ございませんでしたのね」
「第三に、継ぎ目ですわ」
底を、返した。
横倒しの、細い月。
「三十年、これは、写しの印でしたわ。……祖母の帳面に、千八百四十回、書いてございますのよ。『横倒しの月あり』と」
私は片眼鏡を外した。
「ミレー様。この一点だけは」
「署名ですわね」
地下の部屋が、静かだった。窓のない部屋だ。音が、どこにも逃げない。
「査定、確定いたしましたわ」
私は、水差しを卓にそっと置いた。
「銀の水差し、一。作、ジョスラン・ミレー。本歌なし。写しにあらず。……三十年の、一点目ですわ」
ジョスラン・ミレーは。
両手で、顔を覆った。
金工師の、爪の平らな、関節の固まった手で。
「……お嬢さん」
その声は、掠れていた。
「値なんか、つかねえよ」
「わしの腕には、もう、値札がねえんだ。三十年、贋物を作った手だ。……鑑札が戻ったって、それは、この国が忘れてくれただけだ。忘れたもんに、値はつかねえ」
その方は、顔を上げた。
「わしは、囲われてる。あんたの言うとおりだ。鏨、二百本でな。……六十の男が、鏨二百本で買われるんだ。安いもんだろう」
「ミレー様」
「値札が、ねえんだよ、お嬢さん!」
私は、帳場の——いいえ。ここには、帳場がございませんわね。私は、卓に手を置いた。
「でしたら」
「あなたの腕に——正しい値札を、おつけしますわ」
ジョスランが、動きを止めた。
「……あ?」
「当店、質屋ですのよ。値のつかないお品に値をつけるのが、商いですわ。……ミレー様。三十年、祖母が値をつけなかったのは、値打ちがないからでは、ございませんの」
私は、その方の目を見た。
「まだ、終わっていなかったからですわ」
「終わりましたのよ。三年前に」
水差しを指した。
「これが、お返事ですもの。……一年、遅れましたわ。祖母には、間に合いませんでしたの。ですから」
私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「わたくしが、つけますわ。祖母が、そう書いておりますもの。『値は、わたしがつける』と。……当店、先代の約定は、引き継ぎますのよ」
「ミレー様。一つ、お願いがございますの」
「……」
「壇上に、お立ちになって」
ジョスランが、顔を上げた。
「王立中央質庫の担保庫を、公開査定いたしますわ。立会いは、貴族院。組合。警吏隊。——そして、王都中」
私は、卓に両手をついた。
「五百二十九点。国が『甲種担保』と査定した、金貨で何千枚ぶんの資産ですわ。……その八割に、横倒しの月が、彫ってございますのよ」
「……お嬢さん、あんた、それは」
「ええ。あなたの首が、飛びますわ」
私は微笑んだ。たぶん、微笑んだと思う。
「ですから、飛ばしませんの。——あなたは、告発なさるのではございませんわ。ミレー様」
「首席担保査定官として、真贋の欄を、埋めていただきますのよ」
ジョスラン・ミレーは、私を見ていた。
ずいぶん長いこと。
それから——その方は、笑った。三十年ぶりに笑ったような、笑い方だった。
「……エルマさんの、孫だな」
「ええ」
私は、水差しをその方の手に返した。
「それと、下町の質屋の女主人ですわ」
本日のご来店、ありがとう存じます。
三年前、あの方は、生まれて初めて「写しでないもの」を作りました。三十年前の一行への、お返事でございます。
持ってこられませんでした。いつも、明日でいいと思って。
当店、お預かりいたしましたわ。値は、これからつけますのよ。——王都中の、お立ち会いで。
次回、第59話『担保庫を、公開査定いたしましょう。お立ち会いは、王都中で』——
第7章、決戦編でございます。




