第57話:『腕を買われたのではなく、囲われたのですわ』
触れ書きは、翌朝、王都中に回った。
『王立中央質庫 本庫 担保査定室 開設
首席担保査定官 ジョスラン・ミレー
同日付にて、職人鑑札を回復す』
私は、その紙を、帳場で、長いこと見ていた。三十年ぶんの、名誉の回復だ。
六十になって。
*
王立中央銀行の頭取室は、思ったより狭かった。卓が一つ。椅子が二つ。棚に、帳面が、びっしり。壁に、絵の一枚も掛かっていない。
灰色の髪の方が、卓の向こうで、書き物をしておいでだった。
「お待たせしました。——五分、お待ちいただいた。すみません」
「まあ。数えておいででしたの」
「数えます。人の時間は、私の物ではないので」
この方は、そういう方ですのよ。
「頭取閣下。ジョスラン・ミレーを、雇われましたわね」
「ええ」
「なぜ」
グランヴィル氏は、ペンを置いた。
「あなたのせいですよ」
……はい?
「第五版に、真贋の欄を設けました。あなたの校正のとおりに。五つ、全部です。真贋、濃さ、使用の痕、来歴、効能。……刷り上がったのが、先月です」
その方は、卓の引き出しから、綴じ紙を出した。
新しい査定表だ。
「刷って、配って、それで、気づきました」
グランヴィル氏は、その頁を開いた。
『真贋 ( )』
空欄だった。
「欄を作ったら」
その方は、静かに仰った。
「埋める人間が、要る」
私は、答えられなかった。
「私の窓口には、三百人の役人がいます。全員、算式は使えます。誰一人、この欄が埋められない。……三十を数えるうちに、と申し上げてきました。この欄だけは、三十では、埋まらない」
グランヴィル氏は、私をまっすぐ見た。
「ヴィオレッタ殿。あなたは、正しかった。目利きは、要ります。——ですから、雇いました。王都で一番の目を」
「閣下」
私は、卓の上で、指を組んだ。
「ミレー様の、除籍記録は」
「読みました」
「三十年前。職人鑑札を、永久剥奪。理由は——『贋作の制作に関与した咎』」
グランヴィル氏は、その紙を卓に置いた。宝物院の綴りの、写しだ。
「読みましたよ。全部」
「それで、お雇いに?」
「それで、雇いました」
「ヴィオレッタ殿。お尋ねします」
その方は、身を乗り出した。この方が身を乗り出すのを、私は、初めて見た。
「贋作を作れる人間以外に、贋作を見抜ける人間が、いますか」
私は、答えられなかった。
答えられなかった。
だって——それは、私がずっと、この方に申し上げてきたことだもの。
目利きは、天からは降りない。写せる。祖母が三十年ひとりで書き溜めた帳面があって、その頁を私が捲れるから、私は見える。
贋作の帳面だ。
私の目は、二千三百十一点の贋作で、できている。
「……閣下」
「私は、あなたを見て、学んだのですよ」
グランヴィル氏は、そう仰った。
「あの講堂で、あなたは二つの燭台を並べた。私は、あの日から、ずっと考えていた。あなたの目は、どこから来たのか、と。……天才ではない。あなたは、そう仰った。写せる、と」
「…………」
「なら、写しましょう。国が。三百人の窓口に、王都で一番の目を、一つ、据える。彼が真贋の欄を埋める。彼の目が、査定表に写る。十年かければ、三百人が、彼の目を持つ」
その方は、初めて、少しだけ、熱く仰った。
「ヴィオレッタ殿。それが、制度です」
……私は、その言葉を、美しいと思った。
この方が悪人なら、どんなに楽だったかしら。
「閣下。ミレー様は、どうやってお見つけに?」
「推薦状が、参りました」
「どなたから」
「……申し上げられません」
私は、その方の顔を見た。この方は、嘘をつかない。ドラモン男爵が、そう仰った。「あの男は、嘘をつきません」と。
「申し上げられない」と仰るときは、本当に、申し上げられないだけだ。
「閣下。その推薦状には、なんと?」
「『三十年前、宮廷工房から不当に追われた金工師がいる。今も王国のどこかで、腕を持て余している』——その一文です」
……不当に、追われた。
あら。
差出人は、ご存じだ。三十年前、あの裁きで、何があったかを。
「閣下。差出人を、お調べになりまして?」
「調べません」
「なぜ」
「良い推薦は、良い推薦です」
その方は、平然と仰った。
「出自を、数えないので」
私は片眼鏡を着けた。
着けて——外した。
この方には、査定が要らない。ご自分で、全部、仰るのだもの。
「閣下」
「ええ」
「ミレー様に、何を、お渡しになりまして?」
「渡す?」
「鏨、二百本」
グランヴィル氏の眉が、動いた。
「……それは、私ではありません」
「彼が本庫に着いたとき、道具は、すでに届いていました。私は、道具を用意しろと命じた。だが、担当が『すでに搬入済です』と。……クレールからの荷でした。彼自身の道具だと聞いています」
私は、送り状を思い出した。
『クレール発 王都行/品目 工具一式 鏨 二百本/宛先 王立中央質庫 本庫 担保査定室』
荷主——記載なし。
「閣下」
私は、一度、息を継いだ。
「一年前、ミレー様のところへ、使いが参りましたの。顔も名乗らずに、鏨を二百本、置いていきましたわ。……あの方は、三十年、盗んだ道具と拾った道具で、仕事をしておいででしたのよ。鑑札がないと、鏨は買えませんもの」
グランヴィル氏の指が、卓の上で、止まった。
「一年、あの方は、その道具で、仕事をなさいましたわ。……そして先月、その道具ごと、あなたの蔵に、届きましたの」
「…………」
「閣下。それは、雇用ではございませんわ」
私は、その方を見た。
「腕を買われたのではなく、囲われたのですわ」
頭取室が、静かだった。グランヴィル氏は、しばらく、私を見ておいでだった。それから——首を振った。
「ヴィオレッタ殿。あなたは、私を、悪人にしたいのですね」
「いいえ」
「では、なぜ、そう仰る」
「閣下が、悪人でないから、ですわ」
「……どういう意味です」
「閣下。あなたは、鏨を二百本、お渡しになりませんでしたわ。あなたは、俸給をお払いになる。辞令をお出しになる。……あなたは、人を、真っ当に雇う方ですのよ」
私は、卓に手を置いた。
「真っ当に雇う方は、鏨で人を囲う、ということを、ご存じないんですの」
「閣下。ミレー様は、六十ですわ。三十年、鑑札がございませんでしたの。あの方に、俸給は、要りませんのよ。爵位も、名誉も、要りませんわ」
その方を、見た。
「あの方が、この世で、たった一つ、欲しいものが、何だとお思いになって?」
グランヴィル氏は、答えなかった。
「道具ですわ」
「三十年、盗んだ鏨で、王都一の仕事をなさった方ですのよ。……その方の前に、揃いの鏨を、二百本、大きさ順に、箱に入れて、置いていく」
私は、そこで、少し、声が掠れた。
「あの方、三日、触れなかったそうですの」
「…………」
「四日目に、触りましたわ。……閣下。それが、鎖ですのよ。鎖は、要りませんの。石の塀も、鉄の格子も」
片眼鏡を卓に置いた。
「欲しいものを、全部、置いていくんですわ。置いて——外に、出さない。あの谷の工房は、門の鍵が、外から掛かっておりましたのよ」
グランヴィル氏は、動かなかった。
ずいぶん長いこと、動かなかった。この方が、こんなに長く黙るのを、私は、初めて見た。
「……ヴィオレッタ殿」
「はい」
「あなたは、彼について、何かを知っている」
私は、答えなかった。申し上げられないもの。申し上げたら、どうなるかしら。
この方は、真っ当な方だ。真っ当な方に、「あなたの首席査定官は、王都の贋作を三十年供給してきた男です」と申し上げたら。
この方は、お調べになる。正確に。速く。そして、三日で、ジョスラン・ミレーは、牢に入る。三十年ぶんの、贋作の罪で。
祖母の裏台帳が、証拠になる。五冊。二千三百十一点。備考欄つきで。
……祖母の三十年が、あの方の首を締める。
あの方が、三十年、締めてくれと願い続けた、その縄で。
「……閣下。ひとつだけ、お願いがございますの」
「言ってください」
「ミレー様に、真贋の欄を、埋めさせないでくださいまし」
グランヴィル氏は、目を細めた。
「理由を」
「申し上げられませんの」
「では、聞けません」
その方は、ペンを取り直した。
「ヴィオレッタ殿。私は、あなたを尊敬しています。本気です。……ですが、理由のない要求は、通せません。私が二十年、帳尻を合わせてきたのは、理由のない一行を、一度も通さなかったからです」
この方は、書き物に戻った。顔を上げずに、こう仰った。
「彼はもう、国家の職人ですよ」
当店が校正いたしました真贋の欄を、埋めるために、王都で一番の目が雇われました。
……その目が、王都で一番の贋作の手でございます。
当店の校正が、写し師を、国家の鑑定官にいたしましたのよ。利息が、少々、高うつきましたわ。
次回、第58話『でしたら、あなたの腕に——正しい値札をおつけしますわ』——
第2部、決戦のご宣告でございます。
囲われた腕のことを思ってくださった方は、ブックマークで、決戦までお付き合いを。




