第56話:『あなたの三日月は、署名ですわね。祖母への』
「祖母が、あの日、なんと申し上げたか」
私は、そう申し上げた。
「調書は、抜き取られておりますの。剥奪の根拠となった品も、訴えた方のお名前も。……残っておりますのは、処分の結論だけですわ。宝物院の資料室で、確かめてまいりましたのよ」
ジョスラン・ミレーは、湯呑みを握っていた。
「……そうか」
その方の肩が、落ちた。
「そうか。……いや、いい。三十年、知らずに来たんだ。あと二十年、知らずに済ませても、同じだ」
「ミレー様」
私は立ち上がった。
「祖母は、質屋ですのよ」
「……あ?」
「質屋は、帳面に、書きますわ」
私は、蔵から、一冊目を持ってきた。三十年前の、革表紙。色が褪せて、背が割れて、麻糸で綴じ直してある一冊。祖母の手で。
帳場に置いた。
ジョスランは、それを見ていた。
「……なんだね、それは」
「祖母の、裏の台帳ですわ」
私は、表紙に手を置いた。
「三十年ぶん、五冊。二千三百十一点。——王都に流れた、贋作の記録ですわ」
ジョスランの顔が、白くなった。白くなって、それから、笑った。その笑い方は、私がこの店を始めてから、一番、見たくないものだった。
「……そうか」
「ミレー様」
「そうか。そうだったのか」
その方は、湯呑みを置いた。静かに置いた。手が震えていたけれど、湯呑みは鳴らなかった。三十年、金物を扱ってきた手だ。
「あの人は、集めてたのか。わしの、証拠を。三十年」
「月に一度、来て、茶を一杯飲んで、帰って。……あれは、見に来てたのか。次の一点を。……ああ、そうだ。そうだよな。当たり前だ。質屋だもんな。目利きだもんな。わしは、なんで——」
「ミレー様」
「三十年だぞ、お嬢さん。三十年、あの人は、わしの首に、縄をかけ続けてたのか」
「ミレー様」
「なんで、締めなかった!」
その方は、初めて、声を荒らげた。
「三十年! 一冊目の十頁で、足りたはずだ! なんで、締めなかった! ……焦らして、楽しんでたのか! 婆さんは、わしを——」
「一頁目を、お開きになって」
その方の声が、止まった。
「……あ?」
「一頁目ですわ。ご自分で、お開きになって」
ジョスランの、大きな手が伸びた。関節の固まった、爪の平らな手が。三十年ぶんの、革の表紙に触れた。
開いた。
一行目。
『銀燭台 一対 継ぎ目左寄り 横倒しの月あり 東市にて 金貨六枚』
日付があった。
「ミレー様。その日付を、ご覧になって」
「……」
「あなたが、職人でなくなった日の——翌日ですのよ」
ジョスランは、動かなかった。
「祖母は、その日から、書き始めましたわ。裁きの、翌日から。……三十年、一点も、逃さずに」
私は、その頁を指した。
「そして、ミレー様。備考欄を、ご覧になって」
六日、この帳面を読んだ。祖母の備考欄は、素っ気ない。それは、ずっと存じていた。淡々と、数字と、事実だけ。
書かない、ということが、あの方の一番雄弁な備考欄だと、私は思っていた。
……書いて、おいででしたのよ。
『腕、落ちず』
『継ぎの入れ方、変えた。よい』
『これは、急いだな』
『腕、上がる』
『鏨の運び、前より深い。目が良くなっている』
『銀蝋、薄い。手が寒かったか』
『今日のは、雑。何かあったか』
三十年。
二千三百十一点。
贋物を見つけるたびに。継ぎ目の三日月を覗くたびに。あの方は、その男の腕の批評を、備考欄に書いていた。
ジョスランの、指が。
備考欄の上で、止まった。
「……これ、は」
「一頁目の、備考欄ですわ」
私は、静かに申し上げた。
「三十年で、たった一度だけ、祖母が、長く書いた欄ですわ。……あとは、全部、三文字か、四文字ですのよ」
そこには、こう書いてあった。
『本物を作ったら、うちの帳場へ持っておいで。
値は、わたしがつける。』
店の中が、静かだった。外で、荷車が通っていった。ジョスラン・ミレーは、その一行を見ていた。
ずいぶん長いこと、見ていた。それから、その大きな手で、帳面を掴んだ。掴んで——顔に押し当てた。
私は、奥へ引いた。
テオの肩を抱いて、暖簾の向こうへ。この店の帳場は、暗い。祖母が、そうした。品物を手放しに来る人の顔が、よく見えないほうがいい、と。
……ええ。
この暗さは、そのためにございますのね。
*
どのくらい、経ちましたかしら。私が戻ったとき、その方は、帳面をそっと閉じていた。背表紙を、掌で撫でていた。麻糸で綴じ直した、あの背を。
「……直したのは、あの人か」
「ええ」
「下手だな」
その方は、掠れた声で笑った。今度は、笑いだった。
「金工師に頼めば、もっと、綺麗に綴じたのに」
「ミレー様。ひとつ、伺ってもよろしくて?」
「……ああ」
「継ぎ目の、三日月ですわ」
私は、帳場に、あの水差しを置いた。クレール市の、婆さんの布の上から、金貨三枚で買った、あの水差しだ。
「なぜ、彫っておいでですの」
ジョスランは、水差しを見た。それから、少し、驚いた顔をなさった。
「……これ、市に出てたのか」
「三年前、焼けた家から拾ったと。婆さんが仰っておりましたわ」
「そうか。……焼けたか、あの家も」
その方は、水差しを手に取った。自分の手を、見るような目だった。
「三日月はな」
そして、仰った。
「……見てくれ、と」
「一点目だ。三十年前の、燭台。……あれを東の市に流すとき、わしは、迷った。この王都で、この写しに気づく奴は、一人しかいねえ。ラトン街の、三日月堂の婆さんだ。あの人だけは、見抜く」
ジョスランは、水差しの継ぎ目を、指でなぞった。
「見抜かれたら、終わりだ。……だから、彫った」
「……」
「彫っちまった」
ジョスランは、水差しを、そっと置いた。
「わしは、あの人に、見つけてほしかったんだ。三十年」
私は片眼鏡を着けた。
「あなたの三日月は、署名ですわね」
「祖母への」
ジョスランは、答えなかった。答えなかったことが、答えだった。
「ミレー様。祖母は、月に一度、あなたの工房へ、参りましたわね」
「……ああ」
「何を、なさいまして?」
「何も」
その方は首を振った。
「何も、しねえ。座って、茶を一杯飲んで、帰る。……わしが作ったもんを、じっと見て。何も言わずに」
「値を、仰いまして?」
ジョスランの顔が、止まった。
「……いや」
「一度も?」
「……一度も」
「ミレー様」
私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「あの方は、目利きですのよ。写しにも、値はつきますわ。地金の値が。ドラモン男爵なら、金貨で、いくらでもお買いになりましたでしょう」
「……」
「三十年、月に一度、査定に来て、一度も、値を仰らなかった」
その方の目を見た。
「値をつけない、ということが、当店の商いでは、たった一つの意味しか、持ちませんのよ」
「——まだ、終わっていない、ということですわ」
ジョスランは、湯呑みを、両手で包んだ。欠けた縁の、左のほうを。
「……ああ」
その方の声は、震えていた。
「ああ。……そうか。あの人は、三十年、わしの仕事を、未完のままにしてくれてたのか」
「ミレー様。戻っていらして」
私は、そう申し上げた。
「祖母の帳場は、ここにございますわ。……値は、わたくしが、つけますわ」
ジョスランは、長いこと、黙っていた。それから、湯呑みを、そっと帳場に置いた。
二つ、並べて。
「……お嬢さん」
「はい」
「わしは、明日、王都の蔵へ行く」
私は、息を止めた。
「一年前に、男が来た。……いや、使いの者だ。顔は、見とらん」
「何を、仰いまして?」
「何も。……道具を、置いていった」
ジョスランは、自分の、大きな手を見た。
「鏨を、二百本」
「……三十年だ、お嬢さん。わしは三十年、盗んだ道具と、拾った道具で、作ってきた。鑑札がねえと、道具は買えん。まともな鏨は、鑑札がねえと、売っちゃくれねえんだ」
その方は、手を握ろうとした。握れなかった。
「二百本、揃いで、置いていった。……大きさ順に、箱に入って。わしは、あれを、三日、見てた。三日、触れなかった」
「ミレー様」
「四日目に、触った」
私は片眼鏡を外した。
……ああ。
この方を囲うのに、鎖は要らない。石の塀も、鉄の格子も。欲しいものを、全部、置いていく。置いて——外に、出さない。
「明日、辞令が出る。……王立中央質庫、本庫。担保査定室」
ジョスランは、立ち上がった。
「鑑札が、戻るんだ」
その方の声は、平たかった。
「三十年ぶりだ。……六十になって、鑑札が、戻るんだよ、お嬢さん」
「ミレー様!」
私は、帳場から立ち上がった。開店してから、初めて、帳場から立ち上がって、お客様を追った。
「あなたの腕は、本物ですわ! 祖母が、三十年、そう書いておりますの! 二千三百十一点、全部——」
「お嬢さん」
ジョスラン・ミレーは、扉のところで振り返った。その顔は、静かだった。
「あの人が、一年、来なくなった日に」
その方は、そう仰った。
「わしは、三十年ぶんの型を、炉に入れた」
「十七本、全部だ。……鉄は、燃えねえ。知ってて、入れた」
ジョスランは、暖簾に手をかけた。
「わしの腕には、もう、値札がねえんだ」
ここまでお読みくださって、ありがとう存じます。
三十年、月に一度。座って、茶を一杯飲んで、何も言わずに帰る。
——値をつけない、ということが、当店の商いでは、たった一つの意味しか持ちませんのよ。
備考欄に、たった一行。『本物を作ったら、うちの帳場へ持っておいで。値は、わたしがつける。』
……間に合いませんでしたわ。一年、遅れましたの。
次回、第57話『腕を買われたのではなく、囲われたのですわ』——
鏨、二百本。あれで、人が買えますのよ。




