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婚約破棄された公爵令嬢は、下町で質屋を継ぎました 〜ところでその婚約指輪、贋物ですわよ?〜  作者: 朝比奈ミナ


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第55話:『はじめまして、ミレー様。——祖母が三十年、お待ちしておりましたわ』

 三日月堂の暖簾が、見えたとき。私は、少しだけほっとした。


 まだ、掛かっていた。


「お嬢!」


 マルゴさんが、飛び出してきた。煙管を咥えたまま。この方が煙管を咥えたまま走るのを、私は初めて見た。


「客だよ。……客が、来てる」


「あら。まあ。当店に?」


「二刻、待ってる。何も言わない。座りもしない。……お嬢。あたしゃ、四十年この街で口入屋やってるけどね」


 マルゴさんの声が、低くなった。


「あんな手ぇした男は、見たことがない」


 *


 店の中は、暗かった。


 祖母が、この店を暗くしたのは、たぶん、客の恥を隠すためだ。品物を手放しに来る人の顔が、よく見えないほうがいい。その暗がりに、背の高い老人が立っていた。


 帳場の前に。座らずに。私は、扉のところで足を止めた。


 手が、見えた。


 大きな手だ。指の関節が、太かった。太いのではない。腫れて、固まって、太くなった関節だ。爪が、平らだった。


 金工師の爪だ。何十年、鏨の頭を指で押さえてきた爪。爪の先が、丸くならずに、平らに潰れる。右手の親指の付け根に、丸い胼胝たこが一つ。


 ……鏨を握る場所だ。


 私は、その手を見ていた。三十年、祖母が、備考欄に書き続けた手だ。


 『腕、落ちず』

 『継ぎの入れ方、変えた。よい』

 『鏨の運び、前より深い。目が良くなっている』

 『銀蝋、薄い。手が寒かったか』


 その、手。


 テオが、私の後ろで息を止めていた。


 私は、帳場へ歩いた。


 いつもどおりに。祖母が四十年、肘をついていた場所に、腰を下ろして。それから、申し上げた。


「お品物を、拝見いたしますわ」


 老人は、動かなかった。しばらくして、掠れた声がした。


「……客じゃねえ」


 低い声だった。長いこと、使っていない声だ。


「そうですの」


 私は、片眼鏡に手を伸ばさなかった。この方に、それは失礼だ。老人は、店の中を見ていた。ゆっくり、ゆっくり。首を回して。


 質草棚の鍋を。外套を。壁の、王都の地図を。三十年ぶんの点が打ってある、あの地図を。地図のところで、その方の目が止まった。ずいぶん長いこと、止まっていた。


 それから、また動いた。帳場の算盤。祖母の質札の綴り。棚の、埃。この方は、三十年、この店に入ったことがないのだ。三十年、外から見ておいでだったのだ。


「……エルマさんは」


 ジョスランは、そう仰った。私は、答えられなかった。


 三つ、数えた。


「祖母は」


「昨年の暮れに、亡くなりましたわ」


 店の中が、静かだった。外で、荷車が通っていく音がした。パン屋のご主人が、竈に薪をくべる音も。下町は、いつもどおりだった。老人は、動かなかった。


 まばたきも、なさらなかった。


 それから——


「…………一年、来なかった」


 その声は、ほとんど聞こえなかった。


「はい?」


「一年、来なかった」


 その方は、大きな手を、ゆっくりと握った。握れなかった。関節が、固まっている。


「三十年、月に一度、来た。……三十年だ。一度も、休まなかった。熱があっても来た。雪でも来た。足を折った年も、杖ついて来た」


「去年の春から、来なくなった」


 この方は、そう仰った。


「わしは」


 声が、途切れた。


「……とうとう、愛想を尽かされたと、思った」


 私は、鞄を開けた。布の包みを、取り出した。開いて、帳場に並べた。


 二つ。


 白い、粗い、下町の焼き物だ。上等なものではない。ラトン街の東の窯。五十年前に閉まった窯だ。右の縁が欠けたものと、左の縁が欠けたもの。老人が、それを見た。


 この方の顔が、初めて動いた。


「……返しに、来た」


 その方は、そう仰った。


「それを。……三十年、返しに来ようと思ってた。返しに来て、それで、終わりにしようと思ってた。……いつも、明日でいいと思った」


 その方の大きな手が、震えていた。


 金工師の手が、震えていた。


「三十年、明日でいいと思ってた」


 私は、湯呑みに湯を注いだ。


 二つ、ともに。


「お座りになって」


「……」


「ミレー様。お座りになって」


 その方は、座った。三十年ぶりに、この店の椅子に。ジョスラン・ミレーは、六十だった。三十年前、この方は、三十だったのだ。


「三十二年前、宮廷工房の名簿に、あなたのお名前がございましたわ。金工部、首席職人」


「……ああ」


「経歴の欄に、『メルローズ公爵家出入り』と」


 その方の湯呑みを持つ手が、止まった。


「……お嬢さん。あんた、誰だね」


「ヴィオレッタと申しますわ」


 私は、少しだけ微笑んだ。


「ヴィオレッタ・メルローズ。……先代メルローズ公爵の、孫ですわ」


 老人は、湯呑みを置いた。置いて——両手で、顔を覆った。


「……そうか」


 しばらくして、その方は仰った。


「そうか。エルマさんの、孫か。……そうだ。娘さんが、公爵家に嫁いだんだ。婚礼の年に、エルマさんが、言っとった。『帳簿の合わん家に、やることになった』と」


 その方は、顔を上げた。


 目が、赤かった。


「……その、帳簿の合わん家に、写しを作らされたのが、わしだ」


 *


「三十年前だ」


 ジョスラン・ミレーは、そう話し始めた。短い言葉だった。この方は、長く喋る癖をなくしておいでだ。


「先代の公爵に、呼ばれた。蔵で。三点、写せと」


「……お断りには」


「できるかね」


 その方は、少し笑った。笑いではなかった。


「宮廷職人だ。お抱えの家に逆らったら、その日で終いだ。……それに、わしは、三十だった。首席になったばかりだった。有頂天だったのさ。公爵様が、わしの腕を見込んで、と思った」


「先代は、なんと」


「『他の者には、できん仕事だ』と」


 ……ああ。


 この方は、褒められたのだ。


「三点、写した」


「……」


「良い出来だった。わし、あれは、今でも、良い出来だったと思う。……本物は、その年に、売られた。わしの写しが、蔵に並んだ」


「露見しかけたのは、二年後だ」


 その方の声が、平たくなった。


「誰かが、気づいた。蔵の品が、おかしいと。……公爵は、その日のうちに、宮廷工房に、届けを出した」


 私は、片眼鏡の鎖に指をかけた。


 鳴らせなかった。


「『お抱えの金工師が、無断で贋作を制作していた』と」


 店の中が、静かだった。


「わしは、何も言わなかった」


「……なぜ」


「言えるかね」


 その方は、湯呑みを両手で包んだ。


「言ったら、公爵家が潰れる。潰れたら、エルマさんの娘さんは、どうなる。……あの人が、婚礼の席で、あんな顔をしてたのを、わしは、見てたんだ」


 私は。


 ……私は、動けなかった。


「職人鑑札、永久剥奪。三十で、わしは、職人じゃなくなった」


 ジョスランは、そう仰った。


「その日から、わしは、写ししか作れねえ。表の仕事は、鑑札がねえと、受けられん。……三十年、闇で、写しを作った。作れば作るほど、腕が上がった。腕が上がるほど、闇が、深くなった」


 その方は、そこで湯呑みを置いた。


「……お嬢さん」


「はい」


「ひとつ、教えてくれ」


 ジョスランは、私をまっすぐ見た。三十年ぶんの目だった。


「エルマさんは」


「あの裁きの日、参考人として、呼ばれた」


 その方の声が、震えていた。


「わしは、あの日、あの人の顔を見られなかった。ずっと、下を向いてた。……何を言ったか、聞こえなかった。聞こえないふりを、した」


 ジョスランは、大きな手を卓の上で握った。


「三十年、月に一度、あの人は来た。来て、そこに座って、茶を一杯飲んで、帰った。何も言わずに。……わし、一度も、訊けなかった」


 その方の目から、涙が一粒、落ちた。金工師の、爪の平らな手の甲に。


「あの日、あの人は——なんと、言ったね」


 私は、片眼鏡を着けた。


「ミレー様」


 そして、申し上げた。


「はじめまして、ミレー様。——祖母が三十年、お待ちしておりましたわ」

三十年、月に一度、祖母は谷へ通いました。茶を一杯飲んで、何も言わずに帰る。それを三百六十回。

……当店の先代は、本当に、不器用な方でございましたわ。


一年、行かなくなりました。あの方は、それを「愛想を尽かされた」と思って、三十年ぶんの署名を、灰に埋めました。


次回、第56話『あなたの三日月は、署名ですわね。祖母への』——

裁きの日、祖母が何と言ったか。当店の台帳に、残っておりますのよ。

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