第54話:『積荷のない船に、保険はかかりませんのよ』
船乗りというのは、目が良い。二十人、集まった。三十年、四十年、この川を上り下りしてきた爺さんたちだ。手が、木の根みたいで、耳が潰れていて、顔が真っ黒。
私は、その方たちに、たった一つ伺った。
「みなさん。二年前、エメ号が沈みました日。ご覧になった方は?」
六人、手が挙がった。
「浮いてた」
最初の爺さんが、そう仰った。
「……浮いて?」
「浮いてたよ。喫水がな、こんなに」
その方は、掌を腰のあたりに、水平に置いた。
「船ってのはな、お嬢さん。荷を積むと、沈むんだ。腹まで沈む。荷がねえと、浮く。ぷかぷかとな。……あの日のエメ号は、浮いてた。あんな軽い船が、川を下る理由が、ねえんだよ」
「他の方は?」
「同じだ」
「わしも、見た。軽かった」
「舵が、高すぎた。あんなん、まともに曲がらん」
六人が、六人とも、同じことを仰った。私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
……この方たちは、帳面を読めない。
二十人のうち、字が読める方は、四人だ。権利書に何が書いてあるか、ロランさんに読んでもらっていた方々だ。その方たちが、二年前の船の喫水を、覚えておいでだ。
「ロランさん。証券は?」
ロランさんは、油紙の包みを大事そうに出した。三十年ぶん、擦り切れた包みだ。
「これが、全部だ。俺は字が下手だが、紙は失くさねえ」
私は、その中から一枚を抜いた。
『海上並川船 積荷保険証券
被保険者 ロワゾー商会
対象 積荷
船名 エメ号』
私は、それを日に透かした。
一枚しか、ない。
「ロランさん。船体の証券は?」
「ねえよ。船体は、掛けてねえ。高いんだ、船体は。……荷にだけ掛けるのが、この川の商売だ。船は沈まねえもんだからな。沈むのは、荷だ」
*
私は、その一枚を板の上に置いた。
「査定を、始めますわ」
「第一に、喫水ですわ。六人の船乗りが、揃って『浮いていた』と仰いましたの。……六人ですのよ、ロワゾーさん。六人の、四十年ぶんの目が」
ロワゾー氏は、倉の入口に立っていた。若い衆は、もう、いなかった。逃げたのではない。船乗りが二十人いるからだ。
「第二に、証券ですわ。積荷保険。対象は、積荷。船体には、掛けておいででない」
私は、その紙を掲げた。
「第三に——」
鎖を引いて、片眼鏡を外した。
「ロワゾーさん。あなた、保険を、お請求になりまして?」
ロワゾー氏の顔が、ゆっくりと崩れた。
「……した」
「おいくら、下りまして?」
「…………」
「ロワゾーさん」
「……一枚も、下りなかった」
あら。
私は、その一行を指で撫でた。
『対象 積荷』
「積荷のない船に、保険はかかりませんのよ」
船着き場が、静かだった。川の音だけが、していた。
「……あんた」
ロランさんの声が、震えた。
「あんた、船を、沈めたのか」
「ち、違う! 事故だ! 事故だったんだ!」
「荷が、ねえんだぞ! 空船で、なんで下った!」
「…………」
ロワゾー氏は、膝をついた。
「……荷が、なかったんだ」
「二年前だ。……南の船が、来なくなった。二年、来なくなったんだ。運ぶ荷が、なくなった」
私は、その言葉を聞いていた。南の船が、二年、来なくなった。
……ジュリアンさんも、同じことを仰った。南風堂の、若旦那が。『うちの仕入れ筋は、去年、潰れました。南洋の船が、二年、来なくなって』と。
この国の、どこか遠くで、船が止まったのだ。その波が、王都の香具屋と、クレールの船会社を、二年かけて沈めた。
「荷がなきゃ、船賃が入らねえ。船賃が入らなきゃ、二十人の爺に、上がりが払えねえ。……俺は、この町で、三代だ。爺さんたちは、俺の親父の代からの——」
ロワゾー氏は、そこで詰まった。
「保険が、下りると思った。船を、沈めれば」
「けれど、積荷が、ございませんでしたのね」
「……」
「一枚も、下りなかった。船は、川底。荷は、最初からない。爺さんたちの上がりは、止まる」
私は、二十枚の権利書を揃えた。
「ですから、八口、お刷りになりましたの」
「新しく八人から集めたお金で、二十人に上がりを配りましたわね。……ロワゾーさん、これは、上がりではございませんのよ。八人のお金を、二十人で分けただけですわ」
「わかってる!」
「そして、二十一人目が、お見つかりにならなかった」
「……ああ」
「ですから、二十枚まとめて、国の蔵に、お入れになりましたのね」
ロワゾー氏は、両手を地面についていた。
「……あそこは、見ないんだ」
その方は、掠れた声で仰った。
「三十を数えるうちに、値が出るんだ。品目、権利書。素材、紙。目方、二匁。……国の印が捺してある紙だ。甲種担保。金貨で、ちゃんと貸してくれた」
ロワゾー氏は、顔を上げた。その顔は——私が、近頃、何度も見た顔だった。ロシュフォール男爵の顔。カルヴェの顔。ロベール・ダルジャンの顔。ジェルヴェの顔。
「お嬢さん。……あそこは、船を、見ないんだよ」
私は、二十枚を裏返した。
『本権利書は、下記に担保として差入済につき、譲渡を制限す
王立中央質庫 西六番出張所』
「テオ」
「うい」
「王立中央質庫は、今、何をお持ちかしら」
テオは、その裏書を覗き込んだ。それから、変な声を出した。
「……船?」
「ええ」
「川底の?」
「ええ」
私は、帳面の数字を、指でなぞった。
「しかも、十二分の二十を、ですわ」
ロランさんは、ずっと板の上に座っていた。三十年ぶんの年金が、川底にあると知った方だ。私は、その隣に屈んだ。
「ロランさん。査定、確定いたしましたわ」
「……あ?」
「あなたの権利書ですわ。十二分の一。……エメ号の、十二分の一ですのよ」
「そんなもん、川の底だろうが」
「ええ」
私は、川を指した。クレールの川は、広いけれど、深くはない。夏には、子供が渡る。
「川底ですわ。……ロランさん。あの船、壊れておりまして?」
ロランさんの、目が。
止まった。
「……い、いや。沈んだだけだ。あの日は、静かだった。舵が利かなくて、浅瀬に乗って、ゆっくり、傾いて……壊れちゃ、いねえ」
「では」
私は立ち上がった。
「沈んでおりますだけですわね」
「エメ号の船体、査定額——金貨二十四枚ですわ。三十二年もののオーク材。鉄の帯が、二十本。舵が、まだ付いておりますわね」
私は片眼鏡を着けた。
「十二分の一で、金貨二枚ですわ。ロランさん。三十年の年金にしては、お安うございますこと」
ロランさんは、答えなかった。
「ですけれど、ロランさん。……浚えば、船が上がりますのよ」
二十人が、黙った。
それから、爺さんが一人、こう言った。
「……浚えるぞ、あんな浅瀬」
「二十人いりゃ、上がる」
「わし、綱の玉掛けなら、まだできる」
「馬鹿、お前、腰が」
私は、その騒ぎを、少し離れて聞いていた。二十人の爺さんが、川を指さして、口々に怒鳴っていた。
……当店の商いは、ここまでだ。
私は、値をつけるだけ。上げるのは、船乗りのお仕事だ。
*
ロワゾー氏は、その日のうちに、代官所へ自分で歩いていった。行く前に、私に一枚、紙を寄越した。
「……お嬢さん。帳面は、売らねえ。売る商売じゃねえ。……ただ、これは、俺の荷の送り状だ。俺のもんだ。俺のもんを、誰に見せようが、俺の勝手だろう」
この方、最後だけ、商人でいらっしゃいましたのね。
送り状だった。
つい先日の、最後の荷。
『クレール発 王都行
荷主 (記載なし)
品目 工具一式 鏨 二百本
金床 三 天秤 五
宛先 王立中央質庫 本庫 担保査定室』
私は、その一行を長いこと見ていた。
鏨、二百本。
大きさ順に、壁に掛かっていた、あの二百本だ。道具が、王都へ行ったのだ。道具の行くところへ、職人は参る。
「テオ」
「……姐さん」
「帰りますわ」
私は、送り状を畳んだ。片眼鏡の鎖が、ちり、と鳴った。
「囲われた場所が、変わっただけですのね。……石の塀が、石の役所になりましたのよ」
一隻の船が、川底に。国の蔵が、十二分の二十を、お持ちでございました。
……当店、本日は、値をつけただけでございます。船を上げるのは、船乗りのお仕事ですの。二十人、まだ、怒鳴っておりましたわ。あれは、良い音でございました。
次回、第55話『はじめまして、ミレー様。——祖母が三十年、お待ちしておりましたわ』——
帳場に、お客様が。




