第53話:『その船の権利書、沈んだ船の分まで数えておいでですわね』
私は、湯呑みを二つ、鞄に納めた。
布に包んで。並べて。
置いてくる、という考えは、浮かばなかった。
「姐さん」
「なあに」
「それ、持ってっていいの? あいつのだろ」
「テオ」
私は、鞄の口を閉じた。
「当店、お預かりいたしますわ。……質札は、お渡しできませんけれど」
ジョスラン・ミレーは、消えた。鏨を途中で落として。三十年ぶんの署名を、灰に埋めて。窓辺に、湯呑みを一つ置いて。紋のない黒塗りの馬車で、どこかへ。
「ジェスパーさん。あなたが運んだ荷は、王都のどちらへ?」
「渡す先は、その都度、変わりやす。……ただ、荷をまとめるのは、いつも同じでさあ。クレールの、川っぷちの商会で」
「お名前は?」
「ロワゾー商会でさあ」
*
クレール市は、川の町だった。王都から三日の街道の他に、川がある。北の山から、南の海まで。川船が、朝から晩まで、上ったり下ったり。
ロワゾー商会は、その川っぷちに、大きな倉を三つ持っていた。
商会主のロワゾー氏は、六十がらみの、恰幅の良い方だった。愛想は良い。愛想の良い方は、たいてい、断るのがお上手だ。
「いやあ、お嬢さん。王都から、わざわざ。……ですがねえ」
その方は、両手を広げた。
「うちは、荷を預かるだけでしてね。中身は、見ません。誰の荷かも、帳面にしか書きません。その帳面を、他人様にお見せするわけには——ねえ? 商いですから」
「ええ。仰るとおりですわ」
「分かってくださいますか」
「ええ。当店も、質屋ですもの。お客様の質草の中身を、他人様には申しませんわ」
私は微笑んだ。
「ですから、伺っておりますのよ。……商いの話として」
「はあ?」
「商会の帳面を、拝見したいんですの。——おいくらでしたら、お売りになりまして?」
ロワゾー氏の顔から、愛想が剥がれた。
「……お嬢さん。うちは、そういう店じゃありませんよ」
残念ですこと。
「お引き取りを」
*
倉を出たところで、怒鳴り声がした。
「ロワゾー! 出てこい!」
老人だった。
真っ黒に焼けた顔。潰れた耳。手が、木の根みたいだった。この方の手を、私は存じている。四十年、縄を握った手だ。その方が、紙を振り回していた。
「俺の船を返せ! 三十年だぞ! 三十年、俺は——」
商会の若い衆が、四人、出てきた。
あら。
こういうときの若い衆というのは、たいてい、話を聞きに出てくるのではない。
「お待ちになって」
私は、その老人と、若い衆のあいだに立った。テオが、私の袖を引いた。この子は賢い。「やめとけよ」の意味だ。
「お嬢さん。危ないですから、どいてください」
若い衆の一人が、丁寧に仰った。丁寧な方が、一番怖い。
「ええ。危のうございますわね。……ですから、お仕事を、いたしますわ」
私は、老人のほうへ向き直った。
「そちらのお品を、拝見してもよろしくて?」
「……あ?」
「わたくし、質屋ですの」
権利書だった。
立派なお品だ。厚い紙。刷りの文字。商会の印が、赤く。
『川船持分権利書
船名 エメ号
持分 十二分の一
所持人 バティスト・ロラン
ロワゾー商会』
「三十年前だ」
老人——ロランさんは、掠れた声で仰った。
「俺は、艀の水夫だった。稼いだ金を、全部、これに突っ込んだ。一隻を十二口に分けて、船乗りが持ち合うんだ。俺の一口が、俺の年金だった。三十年、船賃の上がりで、飯を食ってきた」
「それが」
「先月から、上がりが来ねえ。商会に訊いたら、『エメ号は、二年前に沈みました』と」
「二年前?」
「二年前だ! 俺は、先月まで、上がりを貰ってたんだぞ! 沈んだ船の上がりを、二年、貰ってたっていうのか!」
私は片眼鏡を着けた。
「ロランさん。この権利書、他の口の方は?」
「十一人いる。みんな、船乗りの爺だ。……みんな、上がりが止まった」
「その方々の権利書、集められまして?」
「なんでだ」
「拝見したいんですの」
*
半刻で、十一枚、集まった。この町の船乗りというのは、足が速い。私は、十二枚を船着き場の板の上に並べた。日は明るかった。市の日と、同じ光だ。
私は、手袋を着けた。川風で、指がかじかんでおりましたので。
「査定を、始めますわ」
「第一に、番号ですわ」
右下の小さな数字を指した。
「持分、十二分の一。……ですから、一番から十二番まで、ございますわね。ロランさんは、四番。こちらの方が、七番。こちらが、九番」
私は、顔を上げた。
「みなさん。他に、お仲間は?」
ざわ、とした。
人垣の後ろから、爺さんが一人、おずおずと紙を出した。
「……わし、十六番だが」
しん、とした。
「十六番」
私は、その紙を受け取った。
「まあ。十二分の一が、十六番」
もう一人、出てきた。十九番。もう一人、二十番。私は、二十枚を並べ直した。
「ロワゾーさん」
私は、倉の入口を振り返った。ロワゾー氏が、蒼い顔で立っていた。
「エメ号は、二十口に、切り分けられておりますわね」
「第二に、印肉ですわ」
一番から十二番までを、左に。十三番から二十番までを、右に寄せた。
「みなさん、ご覧になって。日に、透かして」
商会の印が、赤く捺してある。
「左の十二枚。印肉が、褪せて、茶に寄っておりますわね。三十年ぶんの、褪せ方ですわ」
私は、右の八枚を掲げた。
「右の八枚。……赤うございますこと」
「第三に、船ですわ」
権利書の一番下の行を指した。
『就航 三十二年前』
「ロランさん。エメ号は、いつ沈みまして?」
「商会は、二年前と言ってる」
「では」
ロワゾー氏をまっすぐ見た。
「二年前に沈んだ船の権利書が、なぜ、去年、八枚も刷られておりますの?」
ロワゾー氏は、動かなかった。動けなかった、と申し上げるべきかしら。
「査定、確定いたしましたわ」
私は、片眼鏡を外した。
「エメ号は、二年前に沈みましたわ。沈んだあと、あなたは、八口、お売りになりましたのね。沈んだ船の持ち分を。……そして、先月まで、二十人に上がりをお配りになりましたわ」
「な、なんの話か——」
「上がりの原資は、新しく売った八口の代金ですわ。売った金を、配っただけ。船は、川底ですのよ」
二十枚を、そっと重ねた。
「先月、上がりが止まりましたのは、二十一人目が、お見つかりにならなかったからですわね」
「その船の権利書」
ロワゾー氏に、二十枚を差し出した。
「沈んだ船の分まで数えておいでですわね」
ロランさんが、板の上に座り込んだ。三十年、縄を握った手で、顔を覆って。私は、その方の隣に屈んだ。
「ロランさん」
「……三十年だ」
「ええ」
「三十年、俺の年金だと思ってた。……川底にあったのか。二年も」
私は、答えなかった。
答える言葉が、なかった。その代わりに、私は、一枚の権利書を裏返した。癖だ。品物は、必ず裏を見る。祖母に、そう習った。
裏書があった。
小さな字で。刷りではなく、手書きで。
『本権利書は、下記に担保として差入済につき、譲渡を制限す
王立中央質庫 西六番出張所』
私は、二十枚、全部、裏返した。
二十枚。
全部だった。
「ロワゾーさん」
私の声は、たぶん、少し冷えていた。
「あなた、この権利書を——沈んだ船の権利書を」
私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「国の蔵に、担保として、お入れになりましたのね」
ロワゾー氏は、答えなかった。その代わり、掠れた声でこう仰った。
「……国が、いいと言ったんだ」
私は、その一行を日に透かした。王立中央質庫。西六番出張所。あの、明るい床。番号札。三十を数えるうちに、値が出る窓口。
品目、権利書。素材、紙。目方、——
紙だもの。
目方は、正直に、量れますわね。
一隻の船が、二十口に切り分けられておりました。船は、二年前から、川底でございます。
沈んだ船の権利書に、国が値をつけておりました。……お品物は、正直でございますのよ。紙は、ちゃんと、紙の目方でございましたわ。
次回、第54話『積荷のない船に、保険はかかりませんのよ』——
川底を、浚いますわ。
沈んだ船に値がついた馬鹿馬鹿しさに腹の立った方へ。☆を一つ、船乗りたちに。




