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婚約破棄された公爵令嬢は、下町で質屋を継ぎました 〜ところでその婚約指輪、贋物ですわよ?〜  作者: 朝比奈ミナ


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第52話:『工房の煙は、嘘をつきませんわ』

 クレール市から、北へ、半日。川に沿って、谷が細くなっていった。


「この先でさあ」


 ジェスパーは、先を歩いていた。振り返らない。この方は四年、この道を月に一度、歩いておいでだ。


「荷は、いつも、そこの祠に置いてありやす。あっしは、拾って、担いで、王都へ運ぶ。……人には、会わねえ。一度も」


「一度も?」


「へえ。……ただ」


 その方の足が、止まった。


「一度だけ、見やした」


 *


 谷を曲がると、それは、あった。


 石の塀。


 高かった。私の背の二倍。上に、鉄の返しが打ってある。塀は新しい。三年、経つかどうか。その中に、建物が一つ。


 もとは水車小屋だったのだろう。川に、大きな車がまだ残っている。ただ、その建物は、水車小屋ではなかった。石を積み直して、屋根を葺き替えて、煙突が三本。


 三本である。


「……姐さん。あれ」


「ええ。炉が、三つですわ」


 私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。王都の宮廷工房でも、炉は二つだ。


 煙が、上がっていた。


 三本のうち、真ん中の煙突から。細く、白く。


「ジェスパーさん。門は?」


「いつも、閉まってやす。……鍵が、外から掛かってるんでさあ」


「外から?」


「へえ」


 ジェスパーは、そこで初めて振り返った。


「お嬢さん。あっし、四年、おかしいと思ってたんでさあ。……工房の鍵ってのは、中から掛けるもんでしょう。盗まれちゃ困るから。あそこは、外から掛かってるんで」


 門は、開いていた。


 鍵が、地面に落ちていた。私はそれを拾った。大きな、鉄の鍵だ。錆びていない。よく使われている鍵だ。


 ……そして、今日、投げ捨てられた鍵だ。


「テオ。下がっていなさい」


「やだ」


「テオ」


「やだって」


 *


 中は。


 ……中は、綺麗だった。


 私は、しばらく動けなかった。


 道具が、壁一面に並んでいた。たがねが、二百本。掛かっている順が、大きさ順だ。一本も狂わずに。金槌が、四十。金床が、三つ。天秤が、五つ——五つだ。当店には、二つしかない。


 材料の棚には、銀の延べ板。金の薄板。銅。錫。鉛。全部、産地ごとに札がついている。


 窓が、大きかった。北向きの大きな窓。工房の窓は、北向きが良い。日が変わらないからだ。灯りは、油ではなかった。蝋燭だ。良い蝋燭が、束で。


「……姐さん」


 テオの声が、掠れていた。


「ここ、牢屋じゃねえの?」


「ええ」


 私は、鉄の鍵を握っていた。


「牢屋ですわ」


 王都中の職人が、涙を流して欲しがる工房だ、ここは。道具も、材料も、光も、蝋燭も、なにもかも。ただ、門の鍵が、外から掛かっている。


 ……そういう囲い方が、ある。


 鎖で繋ぐのではない。石の壁と、鉄の格子でも、ない。


 欲しいものを、全部、与えるのだ。与えて——外に、出さない。


 炉に、手をかざした。


 温かかった。


「テオ。この炭、いつのものかしら」


「んー……」


 テオが、灰を指でつまんだ。この弟子は、こういうときだけ下町の子の指をする。


「今朝だよ。……いや、昼まで。まだ、湿ってる」


「ええ」


 私は、真ん中の煙突を見上げた。細い煙が、まだ上がっている。


「工房の煙は、嘘をつきませんわ」


 私は片眼鏡を着けた。


「ジェスパーさん。あなた、三日、市でわたくしを見ておりましたわね。……その三日で、こちらにも、伝わりましたのね」


 ジェスパーが、青くなった。


「あ、あっしじゃねえ! あっしは——」


「存じておりますわ。あなたではございませんの」


 私は、卓を見た。作りかけの品が、置いてあった。銀の小さな箱。蓋が、まだ付いていない。その隣に、鏨が、一本。置いてあったのではない。


 落ちて、いた。


「テオ。ご覧になって。……この方は、仕事の途中で、立たれましたわ」


 鏨を途中で落とす職人は、いない。二百本を、大きさ順に掛ける方が。


「ジェスパーさん。先月、荷を置きに来たとき、何をご覧になりまして」


 ジェスパーは、両手を揉んでいた。


「……馬車が、ありやした」


「どんな」


「黒塗りで。……立派なんでさあ。車軸に、油が差してある。ああいう馬車は、音がしねえんでさあ。あっし、気づかなかった。祠の陰で、いきなり、目の前に」


「紋章は?」


「ねえんで」


 ……あら。


「ねえんですよ、お嬢さん。あれだけの馬車で、紋がねえ。……紋のねえ馬車ってのは、二種類しかねえんでさあ。持ってねえ奴か」


 ジェスパーは、掠れた声で言った。


「隠してる奴か」


 私は、工房の中をもう一度、見渡した。


 この方は、贅沢に囲われていたのだ。道具と、材料と、光と、蝋燭で。三年。あるいは、もっと。テオが、炉の前にしゃがみ込んでいた。


「姐さん。……これ、なに」


 灰を、掻いていた。


 私は屈んだ。


 白い灰の中ほど。まだ、熱を持っている場所に。小さな鉄の塊が、いくつも埋まっていた。私は、火箸で一つ、掻き出した。


 ……型だ。


 打刻の型。先が、細い月の形をした——


 横倒しの、三日月。


「三日月の、型ですわ」


 私は、それを地面に、そっと置いた。もう一本、掻き出した。もう一本。もう一本。


 十七本、あった。


 三十年ぶんだ。大きさが少しずつ違う。小さな指輪に打つ、髪の毛ほどの月から、大きな鉢に打つ、爪ほどの月まで。十七本、全部、灰の中に。


「……あいつ、捨てたの?」


 テオが、呟いた。


「これ、あいつの署名だろ? ばあちゃんが、三十年、追っかけてた。……なんで、捨ててくの」


 私は、答えられなかった。


 鉄は、燃えない。


 燃えないと、ご存じないはずが、ない。二百本の鏨を、大きさ順に掛ける方が。燃えないものを、火に入れる。それは——燃やしたかったのでは、ない。


 置いていきたかった、のだ。


「姐さん」


「なあに」


「窓のとこ、なんか、ある」


 北向きの、大きな窓。


 その、桟の上に。


 湯呑みが、一つ。


 ……私は、しばらく動けなかった。


 白い、粗い、下町の焼き物だ。上等なものではない。金貨どころか、銅貨の値もつかない。窯は、ラトン街の東の。もう、五十年前に閉まった窯だ。


 口の縁が。


 欠けて、いた。


 私は、鞄を開けた。布の包みを、取り出して。旅に持ってきたのだ。当店の、一番大事な質草だもの。置いてくる気になれなかった。


 包みを、開いた。


 窓の桟に、並べた。


 二つ。


 ……同じ窯だ。


 同じ土。同じ釉。同じ、粗い、白。欠け方は、違う。祖母のは、右の縁。この方のは、左の縁。


 けれど。


 ……ええ。


 ついですわね。


「姐さん。……それ、ばあちゃんの」


「ええ」


「なんで、ここに、もう一個あんの」


 私は、答えられなかった。


 三十年。


 月に一度。朝早くに出て、三日、帰らない。マルゴさんが四十年の付き合いで、ただ一つ、教えてもらえなかったこと。


 商売だよ、と。


 あの方は、そう仰ったのだ。私は、二つの湯呑みを見ていた。北向きの窓から、谷の光が入っていた。工房の窓は、北向きが良い。日が変わらないからだ。


 ……三十年、変わらない光の中で。


 月に一度。


「テオ」


 私の声が、少しおかしかった。


「祖母は、この方を、追っておいでではございませんでしたのね」


 私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。鳴らなかった。指が、うまく動かなかったので。


「通って、おいででしたのよ」

道具が二百本、大きさ順に。材料は産地ごとに札つき。天秤が五つ。北向きの、大きな窓。

——王都中の職人が、涙を流して欲しがる工房でございました。


門の鍵だけが、外から掛かっておりましたの。


次回、第53話『その船の権利書、沈んだ船の分まで数えておいでですわね』——

追う前に、一件。当店、お客様は、お断りしない主義ですのよ。

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