第51話:『お久しぶりね、ジェスパーさん。足抜けの証文は、当店にございましてよ』
扉を開けると、痩せた男が立っていた。
鴉のジェスパー。
五ヶ月前、当店の帳場に、テオを連れ戻しに来た方だ。あのときは、良い外套を着て、指に石を三つ嵌めて、下卑た笑いを浮かべていた。
今は。
「……お、お邪魔しやす」
外套は、擦り切れていた。指輪は、ない。頬が、こけていた。この方、五ヶ月で、二十年ぶん、老けましたのね。
「テオ坊。……でかくなったなあ」
テオは、動かなかった。私の斜め後ろで、床に、根が生えたように。
この子は、震えていなかった。震えないのだ。震える代わりに、息をしなくなる。すり師の子が、元締めの前で覚える、最初の癖だ。
「テオ。息を、なさい」
「……し、してる」
「していらっしゃいませんわ」
私は、扉を大きく開けた。
「ジェスパーさん。お入りになって」
ジェスパーは、卓に着かなかった。
壁際に立って、両手を揉んでいた。この方の指は、震えていた。すり師の指が震えるのは、たぶん、この世で一番みっともないことだ。
「宿は、いつからお気づきに?」
「……三日前でさあ。市で、お嬢さんが、水差しを買いなすった」
「値切らなかった。……あっし、あれで、分かったんでさあ。目利きが来た、と」
「まあ。お上手ですこと」
「上手じゃねえ。あっしは、逃げようと思ったんで」
その方は、そこで、顔を上げた。
「三日、逃げようと思って、逃げられなかったんでさあ」
「ジェスパーさん。あなた、今、何をなさっておりますの」
「……運び屋でさあ」
「何を」
「品を。クレールから、王都へ。月に一度。……荷は、開けちゃいけねえ。中身は、聞いちゃいけねえ。渡す先は、その都度、変わりやす」
「元締めは?」
ジェスパーは、答えなかった。答えられなかった、と申し上げるべきかしら。
「ジェスパーさん」
「……知らねえんでさあ」
その方は、掠れた声で、仰った。
「知らねえんですよ、お嬢さん。四年、運んで、一度も顔を見てねえ。あっしは、鴉のジェスパーでさあ。王都の東を、十五年仕切ってた男でさあ。それが今、顔も知らねえ野郎の荷を、月に一度、担いで、三日歩いてるんで」
私は、椅子を一つ、その方のほうへ押した。ジェスパーは、座らなかった。
「……お嬢さん。あっしは、詫びに来たんじゃねえ」
「存じておりますわ」
「詫びる気も、ねえ。テオ坊のことも、あっしは、悪いと思っちゃいねえ。あれは商売でさあ。あの頃は、あれが、あっしの商売だった」
テオの肩が、動いた。
「ですから、当店は、あなたを許しませんの」
私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「ジェスパーさん。あなたは、この子を四年、働かせましたわね。十二の子が、四年前ですと、八つですわ。八つの子に、他人様の懐から財布を抜かせて、上前をお取りになりましたの。……当店、そういうお品には、値をつけませんのよ」
「…………」
「許しませんわ。一生、許しませんの」
私は片眼鏡を着けた。
「ですけれど」
「商いは、いたしますわ」
ジェスパーが、顔を上げた。
「当店、お客様は、お断りしない主義ですのよ」
しばらく、誰も、何も言わなかった。それから、ジェスパーは、壁に背中を預けた。ずるずると、床まで滑り落ちた。
「……お嬢さん」
その方は、床に座り込んだまま、両手で顔を覆った。
「あっしの、足抜けは」
声が、震えていた。
「いくらでさあ」
私は、その言葉をしばらく聞いていた。
……四年前だ。
この方は、金貨四十枚を受け取った。祖母から。八つの子の、身請け代として。
あのとき、この方は、たぶん笑ったのだろう。四十枚で、ガキ一匹。良い商売だ、と。世の中に、そんな金の使い方をする婆さんがいるものか、と。
四年、経った。
今、この方は、床に座って、同じことを訊いておいでだ。
「ジェスパーさん」
「……へえ」
「足抜けの証文は、当店にございましてよ」
ジェスパーの手が、顔から落ちた。
「お久しぶりね、ジェスパーさん」
私は、鞄から、革の綴りを出した。三日月堂の、貸付台帳の、控えだ。旅にも、持ってきた。質屋だもの。私は、その頁を開いた。
『四年前 霜月
金貨四十枚 支払 鴉のジェスパー方
名目 テオ 年季奉公の残債 肩代わり
受取 (爪印)
備考 この子の目は、本物だから。
エルマ・クロッシュ』
爪印が、あった。
この方の、爪印だ。
「ジェスパーさん。祖母は、四十枚で、テオを買いましたのではございませんわ」
私は、その備考欄を指した。祖母の備考欄は、素っ気ない。ただ一箇所、ボナール氏の頁にだけ『困った時はお互い様』と書いた方だ。もう一箇所、あったのね。
「買ったのは、この子の、足抜けですの。……祖母は、値打ちのあるものにしか、値をつけませんのよ」
「…………」
「ジェスパーさん」
その方を見下ろした。
「では、あなたの足抜けは、おいくらかしら」
ジェスパーは、答えなかった。
「わたくしには、査定できませんの」
私は、綴りを閉じた。
「わたくし、あなたを許しておりませんもの。腹を立てている者の査定は、狂いますわ。祖母が、そう書いておりますのよ。……ですから」
そこで、振り返った。
「テオ」
*
テオが、跳ねるように顔を上げた。
「この方の査定は、あなたがなさいまし」
「……え」
「あなたの目は、盗むためではなく、見抜くためにございますわ。……五ヶ月前、そう申し上げましたわね。使ってごらんなさい」
「姐さん、俺、そんな——」
「テオ」
私は片眼鏡を外して、この子に差し出した。
祖母の、形見だ。
「三行、探してごらんなさい」
テオは、片眼鏡を受け取らなかった。受け取らずに、ジェスパーの前に立った。この子は、まだ、十二だ。床に座り込んだ大人より、頭一つ低かった。
ずいぶん長いこと、テオは、その方を見ていた。それから、こう言った。
「……指」
「へ?」
「あんた、指、震えてる」
テオの声は、平たかった。
「あんた、すり師の元締めだろ。指、震えたら、終わりじゃん。あんた、俺らに、いっつも言ってたじゃん。『震えたら首だ』って。……あんた、今、首じゃん」
ジェスパーが、自分の手を見た。
「第二に、外套。……あんた、外套に金かける男だったじゃん。それ、擦り切れてる。袖んとこ。あんた、袖から先に擦り切れんだよ。荷、担いでるから。……あんた、担ぐ側になったんじゃん」
テオは、そこで、少し黙った。
「第三に……あんた、俺の名前、呼んだ」
「……」
「テオ坊って。呼んだじゃん。四年前、あんた、俺の名前、呼ばなかったよ。『おい』か『ガキ』しか言わなかった。……名前、呼ぶようになったんだ、あんた」
テオは、拳を握った。
「それって、あんたが、ひとりぼっちになったってことじゃん」
私は、その査定を、帳面に書き留めた。
……この弟子の目は。
本当に、よく利きますこと。
「テオ。査定額は?」
テオは、答えなかった。しばらくして、こう言った。
「……姐さん。俺、こいつ、大っ嫌いだよ」
「ええ」
「一生、嫌い。許さねえ。……でも」
テオは、そっぽを向いた。
「値打ちが、ゼロだったら、姐さんは、放っとくじゃん。値がつかないもんには、値をつけないんだろ」
あら。
「姐さんが査定するってことは、こいつ、まだ、なんかあんだろ」
*
私は片眼鏡を着けた。
「ジェスパーさん。査定、確定いたしましたわ」
その方は、床から、私を見上げた。
「あなたの足抜けは、金貨四十枚ではございませんの。……当店、そんな持ち合わせは、ございませんし」
「じゃ、じゃあ——」
「品物で、頂きますわ」
私は、その方の前に屈んだ。
「ジェスパーさん。四年、荷を運んでおいでですわね。開けてはいけない荷を。……お尋ねしますわ。写し師のジョスラン・ミレーは、今、どこに」
ジェスパーは、口を開いた。
開いて——閉じた。
それから、両手を、床について。
こう、仰った。
「お嬢さん。……ひとつ、直させてくだせえ」
「はい?」
「あんた方、勘違いしてなさる」
その方は、掠れた声で、笑った。
笑い声ではなかった。
「写し師の旦那は」
ジェスパーは、私を見た。
「逃げてるんじゃねえ。——囲われてるんでさあ」
本日も、当店の帳場までようこそ。
鴉が、一羽、床に落ちておりました。……当店、この方を、一生許しませんのよ。許しませんけれど、商いはいたしますわ。それが、質屋というものですの。
本日の査定は、見習いが担当いたしました。上出来でございましたわ。
次回、第52話『工房の煙は、嘘をつきませんわ』——
囲われた職人を、探しますわ。
許さないけれど商いはする——その線引きに頷いてくださった方は、☆をひとつ。




