第50話:『顧客名簿の筆頭に——「王立宝物院」と』
クレール市は、王都より、埃っぽくて、賑やかだった。馬車で三日。麦の畑を抜けて、川を二つ渡って、それだけ。王国の、内側だ。国境は、まだずっと先だ。
月に一度、大きな市が立つ町だと聞いていたけれど——聞くのと、見るのとは、違った。通りが、市だ。町ぜんぶが。
布。鍋。麦。羊。革。塩。魚。古着。古釘。壊れた時計。誰かの結婚指輪。天幕もなければ、番号札もない。地面に布を敷いて、その上に品を並べて、値切る声が、朝から晩まで絶えない。
埃と、汗と、獣と、油の匂い。
「……姐さん」
テオが、私の袖を握っていた。
「ここ、いいな」
「王都の下町より、ずっといい。……みんな、目で見て、買ってる」
私は、三日、市を歩いた。何も買わなかった。ただ、歩いて、見ていた。祖母が三十年、月に一度、三日かけてなさっていたことを、真似ていた。
三日目の昼。
古物の並ぶ一角の、隅の隅。婆さんが一人、布を敷いて、銀器を五点、並べていた。
その、真ん中。
銀の水差し。
私は足を止めた。
「婆さん。これ、いくら?」
「金貨三枚だよ」
「まあ。お高いこと」
「銀だよ。目方で、それくらいさ」
私は、それを手に取った。
……重い。
いいえ。正しい重さだ。銀の含みが、九割はあるだろう。胴の張り。注ぎ口の返り。取っ手の付け根の、蝋の流し。私は片眼鏡を着けた。
継ぎ目は、底寄り。
その、一番奥に。
横倒しの細い月が、彫ってあった。
「……姐さん」
テオが、息を呑んだ。
「あった」
「ええ」
私は、その水差しを、灯りに——いいえ、日に、透かした。市の日は、明るい。王都の帳場の灯りより、ずっと。明るいところで見ても、良いお品だった。
金貨三枚を婆さんに渡した。値切らなかった。値切る気に、なりませんでしたの。
「婆さん。これ、どちらで?」
「うちの人が、拾ってきたのさ。三年前だったかね。町外れの、焼けた家からね」
宿に戻って、私は、その水差しを卓に置いた。
二刻、見ていた。
それから、テオに、こう申し上げた。
「テオ。困りましたわ」
「なんで? 三日月、あったじゃん。写しだろ?」
「ええ。そう思いましたのよ。……ですけれど」
私は片眼鏡を外した。
「本歌が、分かりませんの」
「ほんか?」
「本物ですわ。……テオ。写しには、必ず、本物がございますでしょう。写すんですもの。兜には、二百年前の騎士団の兜という本物がございましたわ。竜涎香にも、本物がございましたの。絵にも、ヴァレンヌという、着せられた名前がございましたわ」
私は、その水差しを指先で撫でた。
「この水差しの本物を、わたくし、存じませんのよ」
テオが、眉を寄せた。
「姐さんが知らないだけじゃね?」
「そうですわね。そうかもしれませんわ」
私は、鞄から祖母の帳面を五冊、出した。三十年。二千三百十一点。
三刻、探した。
「……ございませんの」
この形の水差しは、祖母の帳面のどこにもなかった。王都のどの蔵の目録にも、記憶がない。
誰の、写しでもない。
「じゃあ、なんで、三日月が彫ってあんの」
テオが、当たり前のことを訊いた。この弟子は、時々、恐ろしいことを当たり前の顔で訊く。
「……さあ」
私は、その水差しを、そっと布に包んだ。
包んで、鞄に納めた。
まだ、査定できない。
*
町外れの、焼けた家。
婆さんの言った場所は、すぐに分かった。町の南の、丘の裾。畑の切れたところに、黒い四角が、ぽつんと。三年、経っていた。草が腰まで生えていた。
柱が、四本。石の土台。それと——
「……姐さん。これ、炉じゃね?」
テオが、草をかき分けた。石を積んだ、大きな炉だ。煤が、内側に指の厚みで貼りついている。
その、隣に。
小さな、鉄の台。
「金床ですわね」
私は屈んだ。
鉄の台の表面には、無数の細かい打痕があった。鏨の跡だ。何万回、何十万回、この上で鉄と銀を叩いた跡。
……この方は、ここに、いらしたのですわ。
テオが、炉の中を覗き込んだ。
「姐さん。灰、めっちゃある」
「三年ぶんの雨が入っておりますわ。固まっておりましょう」
「……なんか、白いのある」
私は、その方を覗き込んだ。灰の、下。固まった灰の層の、その下に。
白い、角。
私は片眼鏡を着けて、指で、そっと灰を掻いた。
紙。
束だった。
燃やしかけの、紙束。
外側は、真っ黒。中ほどまで、炭になっていた。けれど、束というものは、きつく重ねると、燃えない。真ん中が、残る。
空気が、入らない。
私は、それを、両手でそっと抱えた。
……焼かれた家の、炉の中で、燃やしかけて、燃え残った紙。
この家は、三年前に、焼けた。誰かが、燃やそうとして、燃やしきれなかったのだ。
*
宿の卓に、私は、それを広げた。一枚ずつ。息を止めて。触れると、崩れる。テオが、灯りを三つ、持ってきた。
二十七枚、読めた。
……帳面だ。
誰かの、注文帳。
『注文 三十七番 銀燭台 一対 本歌 メルローズ公爵家蔵 納 十年前 春』
『注文 三十八番 蒼玉首飾 本歌 メルローズ公爵家蔵『暁の雫』 納 十年前 夏』
私は、その行で手が止まった。
存じている。この三十七点は、当店の帳場で、二月前に、片付いた。私は、頁を繰った。クレマンの指輪。ロシュフォールの兜。ピケの絵の額。ジェルヴェの紙。
王都で、私が拾ってきた嘘が、全部、この帳面から出ていた。この方は、書いておいでだったのだ。祖母と、同じように。一点ずつ。
最後の三枚に、私は、たどり着いた。束の、一番内側。一番、燃えていない場所。それは、注文の記録ではなかった。
目次だった。
『註文主 控』
名前が、並んでいた。年ごとに。点数つきで。
私は、上から読んだ。
筆頭に。
一番上に。
『王立宝物院 二十年前 四十七点』
私は、動けなかった。
ずいぶん長いこと、動けなかった。
四十七点。
——同じ日付。同じ筆跡。『破損につき処分』——四十七点。
——鋳潰しの受領書が、四十七点ぶん、ございません。
——二十年前、私は、七つだ。母の瓶が『壊れた』ことになっていた頃、母はまだ、それを持っていた。
私は片眼鏡を外した。外して、両手で顔を覆った。少しだけだ。三つ数えるあいだだけ。
二十年前の秋。
王宮の蔵から、四十七点の本物が、消えた。同じ年、この炉で、四十七点の写しが、焼かれて、生まれた。
抜いて、入れた。
そして、帳面には、こう書いた。
『破損につき処分』
嘘は、一文字も、ない。
……ええ。壊れたのだ。本物が、この国の蔵の中で、四十七点、壊れた。
「姐さん」
テオの声が、遠く聞こえた。
「これ……宝物院って、殿下のとこじゃん」
「ええ」
「殿下に、見せんの?」
私は、その三枚を、灯りに透かした。二十年前。あの方は、七つだ。この帳面の、どの行にも、あの方の罪はない。一行も。
ただ——この帳面を、あの方にお見せしたら。あの方は、ご自分の役所をお調べになる。
総裁が調べれば、蔵は、知るだろう。
知った蔵は、紙を燃やす。
三年前に、この炉が、そうしたように。
「……テオ」
私は、三枚を、そっと布に包んだ。
「殿下に、お見せできますかしら」
*
外で、音がした。
宿の、階段だ。
テオが、跳ねるように立ち上がった。この子は、こういうときだけ、元締めのところで育った耳をする。
「姐さん。……三段目、鳴らねえで上がってきた」
「あら」
「あそこ、鳴るんだよ。俺、覚えてる。……鳴らねえで上がれるやつ、堅気じゃねえ」
私は、灯りを一つ、吹き消した。それから、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「テオ。お客様ですわ」
扉の外で、声がした。
懐かしい、下町の声だった。
「……テオ坊。でかくなったなあ」
お読みいただき、ありがとうございます。
灰の中から、名簿が出てまいりました。筆頭に、王立宝物院。二十年前、四十七点。
——殿下の香水瓶が「壊れた」年でございます。
当店、この付箋は、まだ剥がせませんの。剥がすには、まだ、遠すぎますわ。
次回、第51話『お久しぶりね、ジェスパーさん。足抜けの証文は、当店にございましてよ』——
鴉が、一羽。




