第49話:『市が立つ町へ参りますわ。写しの匂いが、いたしますの』
鈴が、鳴った。
閉店の刻限に。黒い外套で。手が、空だった。二度目だ。
「ヴィオレッタ殿」
「殿下。お茶を——」
「その前に、言わせてくれ」
殿下は、帳場の前に立ったまま、仰った。
「宝物院に、来ないか」
私は、湯呑みに伸ばした手を止めた。
「首席鑑定官の席を、作る。……いや、正直に言おう。作るのではない。空けるのだ。今の首席は、四十年、王家の目をやってきた男だが、あなたの燭台の話を聞いて、自分から言った。『あの娘に譲りたい』と」
「まあ」
「俸給は、質屋の十倍出る。宝物院の資料室は、いつでも開く。担保庫にも入れる。……ヴィオレッタ殿。あなたが今、欲しいものは、全部、あそこにある」
殿下は、そこで少し言葉を切った。
「あの男の蔵と、正面から殴り合うには、看板が要る。私は、あなたから看板を取り上げられた。……返させてくれ。もっと大きいのを」
私は、片眼鏡の鎖に指をかけた。
鳴らせなかった。
嬉しかった。
この方は、開店の頃から、この店に通ってこられた。古い懐中時計を持って。銀の匙を持って。硝子の文鎮を持って。お母上様の香水瓶を持って。
そして、今日、手ぶらで来て、席を差し出しておいでだ。この方にとって、それは、たぶん、品物よりずっと私的なものだ。
「殿下」
「……ああ」
「お断りいたしますわ」
店の中が、静かだった。
「理由を、聞いても?」
「わたくし、質屋ですもの」
私は、帳場から動かなかった。動く理由が、なかった。
「二月前、父が沙汰書を持ってまいりましたわ。復籍の。……あのとき、わたくし、こう申し上げましたのよ。『書面は本物ですわ。けれど、人の帳簿では、一度流れた質草は、沙汰書一枚では戻りませんの』と」
「あれとは、話が違う」
「同じですわ」
卓の木目を手のひらで撫でた。祖母が四十年、肘をついていた場所だ。
「あそこの首席鑑定官は、王家の品を査定いたしますわね。……殿下。パン屋のご主人は、宝物院に来ますこと?」
「……」
「未亡人が、銅貨五枚の指輪を持って、宝物院の門を叩きますかしら」
殿下は、答えなかった。
「わたくしが査定したいのは、そちらですのよ。……三十年前の、名もない絵師の絵。五十年前の、南街の親方の指輪。八十年、頭痛を止めてきた香。あれは、宝物院の卓には、載りませんの。載せていただけませんわ。値打ちがございませんもの」
私は片眼鏡を着けた。
「値打ちのないお品に値をつけるのが、当店の商いですわ。……三日月堂は、下町にございませんと、意味がございませんの」
殿下は、しばらく私を見ておいでだった。それから、ふ、と息を吐いて——笑った。
「……ああ。そうだった。あなたは、そういう人だ」
その笑い方が、少し痛かった。
「では、せめて、これだけは言わせろ。困ったら、来い。看板ではなく、私に。……客としてではなく」
「殿下」
「言った。以上だ」
この方、逃げ足だけは、お速いこと。私は、そこで、伺うべきではなかった。伺わずに、お茶をお出しして、明日の朝、黙って発てばよかった。けれど、私は、質屋だ。
訊いてしまった。
「殿下。ひとつ、伺ってもよろしくて?」
「なんだ」
「宝物院の帳面を綴じる紐は、何色ですの?」
殿下は、不思議そうな顔をなさった。
「青だ。濃い青に、金の縒りが一本入る。……王家の色だ。宝物院の綴りは、二百年、それしか使っていない。役所ごとに紐の色が決まっているのだ。財務は緑、法務は茶。子供でも見分けられる」
……ええ。
子供でも、見分けられますのね。二十年、筆耕屋に古い紙を届けてきた方の、綴じ紐の色を。
「なぜ、そんなことを訊く」
私は。
微笑んだ。
「いいえ。なんでも」
殿下は、動かなくなった。ずいぶん長いこと、動かなかった。
「ヴィオレッタ殿」
「はい」
「あなたは、査定のときに、嘘をつかない」
「ええ」
殿下は、静かに仰った。
「……今、ついたな」
申し上げられない。
二十年、ジェルヴェの棚に古い羊皮紙を届けてきた「お役所の方」の、綴じ紐は、王家の色だった。
宝物院の、あの分厚い出納帳。二十年前の秋の頁。四十七点、『破損につき処分』。鋳潰しの受領書が、四十七点ぶん、ない。抜き取られている。
抜き取られた紙が、南の路地の棚に束で並んでいた。この方は、あの蔵の総裁だ。この方の母上様の香水瓶が、二十年前に「壊れた」ことになっていた蔵の。
……申し上げたら、どうなるかしら。
この方は、お調べになる。ご自分の蔵を。ご自分の役所を。二十年前、この方は七つだった。何も、なさっていない。けれど、この方は、総裁だ。
総裁が調べれば、蔵は、知る。知った蔵は、紙を燃やすだろう。
「……殿下」
「いい」
殿下は、外套を取った。
「いいのだ、ヴィオレッタ殿。あなたが黙るときは、黙る理由がある。ずっと、それを見てきた」
その方は、扉に手をかけた。
「ただ、一つだけ」
「はい」
「その嘘の期限は、いつまでだ」
私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「……当店、期限のないお預かりは、いたしませんの」
「そうか」
殿下は、振り返らなかった。
「では、待とう。——利息は、つけてくれ」
鈴が、からん、と鳴った。良い音だった。腹の立つほど、良い音だった。
*
翌朝。
マルゴさんが、煙管を咥えて、当店の帳場に座った。
「留守は、任せときな。あたしとボナールで、店を開けとくよ。……といっても、客なんか来やしないけどね」
「マルゴさん。ひとつ、伺いたいことがございますの」
「なんだい」
「祖母は、月に一度、出かけておりまして?」
マルゴさんは、煙を吐かなかった。
「……お嬢。誰から聞いた」
「どなたからも」
私は、五冊の帳面を鞄に納めた。
「祖母の字が、そう申しておりますのよ。……三十年ぶんの記載に、月に一度、王都で見つけられないはずのお品が、混じっておりますの。同じ月の、同じ頃に」
マルゴさんは、長いこと黙っていた。それから、煙管を、灰吹きに、こつん、と当てた。
「三十年だよ」
「はい」
「三十年、月に一度、朝早くに出てって、三日、帰らない。……あたしが訊いても、教えちゃくれなかった。『商売だよ』の一点張りさ。四十年の付き合いで、あの人が教えてくれなかったのは、それだけだ」
マルゴさんは、私を見た。
「お嬢。どこに行くんだい」
私は、壁の地図を見上げた。王都の地図だ。三十年ぶんの点が、東から北へ、北から西へ、西から南へ、螺旋を描いて、そして——紙の縁で、終わっている。
「クレール市ですわ」
マルゴさんの顔色が、変わった。
「……クレール? 王都から、馬車で三日じゃないか。あんた、店はどうすんだい」
「ですから、お願いしておりますのよ」
「そうじゃない! お嬢、あんた、公爵令嬢だったんだよ。いや、今は質屋だけどさ。……女の足で、三日だよ。市の町だ。何が転がってるか——」
「マルゴさん」
私は、にっこりと微笑んだ。
「祖母は、三十年、お一人で通っておいででしたのよ」
マルゴさんが、口を閉じた。
*
テオが、鞄を二つ抱えて、店先に立っていた。
「姐さん、俺の分も詰めた」
「あら。あなたも?」
「当たり前じゃん」
この弟子は、生意気そうな顔をして、指が、少し白くなっていた。鞄の紐を、握りすぎだ。この子は、王都から出たことがないのだ。
「テオ。市の町は、王都より、行儀が悪うございますわよ」
「知ってるよ。……俺、そういうとこで育ったし」
それは、頼もしいこと。
*
馬車が、動き出した。
窓から、三日月堂の看板が、遠ざかっていった。祖母が四十年、掛けていた看板だ。あれを下ろせる方は、王都に一人もおいでにならない。
「姐さん」
「なあに」
「なんで、クレール市なんだよ。三十年前から、あいつ、王都で贋物作ってたんだろ。なんで、最後の五年だけ、外に出たの」
それが、分からない。
三十年、王都の中を、逃げ回った男が。東から、北へ、西へ、南へ。螺旋を描いて。五年前に、王都を出た。
誰から、逃げたのかしら。
……逃げたのかしら?
「テオ」
私は、窓の外を見た。王都の壁が、遠ざかっていく。その先には、麦の畑と、街道と、私の知らない王国が、あった。
「市が立つ町へ参りますわ」
私は片眼鏡を着けた。
「写しの匂いが、いたしますの」
馬車が、揺れた。鞄の底で、革の手袋が、かたりと鳴った。
いつぞや、帳場に置いていかれたお品だ。開店祝い、と仰って。……いえ、開戦祝い、でしたかしら。
利息は、つけてくれ、と。
当店の女主人、生まれて初めて、王都の壁の外へ出ました。ええ、ご安心を。王国の中でございますわ。当店の暖簾は、そこまでしか届きませんもの。
殿下には、嘘をつきました。期限つきの、お預かりでございます。利息は、必ず。
次回、第50話『顧客名簿の筆頭に——「王立宝物院」と』——
クレール市の、外れの工房。煙が、上がっておりますわ。




