第47話:『捏造なさるなら、せめて紙屋をお替えになるべきでしたわね』
南の路地の筆耕屋は、看板が出ていなかった。
扉を開けると、紙の匂いがした。良い匂いだ。埃と、膠と、墨。
こういう匂いのする場所に、悪い職人はいない。それが私の困るところだ。
老人が、一人。
窓際の卓に向かって、背を丸めて、字を書いていた。灯りを目の高さまで引き寄せて。六十を、いくつか過ぎているだろう。ジラール警吏長が、令状を掲げた。
「王都警吏隊だ。文書偽造の疑いで、この帳場を検める」
老人は、顔を上げなかった。
書いている一行を、最後まで書いた。ゆっくり、丁寧に。それから、ペンを置いて、インクの蓋を閉めて、それから、ようやくこちらを向いた。
「……はい。ジェルヴェでございます」
棚には、紙が束で並んでいた。全部、古い。三百年前の羊皮紙。二百年前の楮紙。百五十年前の亜麻紙。私は、一番手前の束を灯りに掲げた。
左の縁に、綴じ穴が、五つ。
……ええ。
次の束も。その次も。全部、五つ。
「ジェルヴェさん。この紙、綴じてございましたのね」
「はい」
「どちらの帳面から?」
「余白でございます」
その方は、静かに仰った。
「役所の帳面には、余白がございます。使われずに残った頁が。……帳面というものは、いつか、綴じ直すものでございましょう。綴じ直すときに、白い頁は、外します。外した頁は、捨てるものでございます」
「捨てる紙を、拾っておいでですのね」
「拾ったのではございません。頂いたのでございます」
「どなたから」
「お役所の方でございます」
「どちらの」
「存じません」
ジェルヴェは、ゆっくり首を振った。
「二十年、お顔は存じません。いつも、使いの方が、束で置いていかれます。……ただ」
「ただ?」
「綴じ紐が」
その方は、棚の一番下から、紐の切れ端を一本、つまみ上げた。濃い、青。金の縒りが、一本。私は、その紐を片眼鏡で見た。
……あら。
この色を、私は存じている。宝物院の資料室の、あの分厚い革表紙の帳面。あれを綴じていた紐と同じ色だ。
「いつも、王家の色でございました」
ジェルヴェは、そう仰って、その紐をそっと棚に戻した。
「わたくしは、字を書くだけの者でございます。紐の色まで、詮索いたしません」
「ジェルヴェさん。この系図は、あなたのお仕事ですわね」
私は、クロエさんの筒から出た一枚を広げた。老人は、それを見た。
見て——目を細めた。老人が、自分の仕事を見るときの、あの目だ。祖母が、四十年前の質札を見るときの目と同じだ。
「はい。三月前の、仕事でございます」
「認めますのね」
「隠す理由が、ございません」
ジェルヴェは、両手を膝に置いた。
「わたくしは、字を書いただけでございます。嘘は、書いておりません。……お嬢さま。そこに書いてある名前は、全部、本当にある名前でございます。ダルジャン。アンリ。ギヨーム。どれも、王都の名簿にある名でございます。わたくしは、ある名前を、ある紙に、書いた。それだけでございます」
私は、答えなかった。
嘘は、一文字もございませんのね。いったい、何度この言葉を聞いたかしら。
「ジェルヴェさん。今日は、連れがおりますの」
私は、扉のほうへ振り向いた。クロエさんが、立っていた。喪服のまま、扉の陰に。テオが、その隣にいた。娘さんは、震えていた。震えながら、それでも入ってきた。
そして、老人の卓の上の小さな壺を——指した。
墨壺である。
「……それ」
クロエさんの声が、掠れた。
「それ、うちの墨です」
ジェルヴェの手が、止まった。初めて、その方の顔から、静けさが剥がれた。
「うちの、五番の墨です。松煙に、膠を三分。父が、調合してました。……蓋の縁が欠けてるのは、それ、四十年前の壺だからです。祖父の代の。もう、その形の壺は作ってません」
クロエさんは、一歩前に出た。
「うちの墨は、五十年経っても浮かないんです。だから、写字生さんが使うんです。……あなた、うちのお客さんですか」
ジェルヴェは、答えなかった。答えられなかったのだと思う。ずいぶん長いこと、その方は墨壺を見ていた。それから、掠れた声で、仰った。
「……あんた」
声が、震えていた。
「クロエちゃんかい」
店の中が、静かだった。ジラール警吏長も、テオも動かなかった。
「四十年でございます」
ジェルヴェは、両手で顔を覆った。
「四十年、ダルジャンさんの墨しか、使っておりません。お祖父さまの代から。……先代が、いつも、こう仰った。『ジェルヴェさん、あんたの字は、この墨に一番合う』と。わたくしは、それが、嬉しくて」
その方の肩が、震えた。
「あんたが、この店に、お使いに来たことがある。五つか、六つの頃だ。墨を届けに。……小さい手で、両手で、壺を抱えて。落とすんじゃないかと、はらはらして」
「…………」
「先月、亡くなったと、聞きました。線香を、あげに行けませんでした。……三月前に、あの系図を書いたからでございます」
私は片眼鏡を外した。外して、しばらく何も申し上げなかった。
申し上げることが、なかった。この方は、ロベールの顔しか見ていなかった。注文主の顔を。系図の、一番下に書く名前の顔を。
その系図が、誰の家を取り上げるかは聞いていない。訊かなかった。訊いたら、書けなくなる。
四十年、他人の字を写してきた方だ。自分の字を持たない方。
字に、行き先を訊かない方。
「ジェルヴェさん」
私は、系図をそっと巻いた。
「捏造なさるなら」
巻いて、筒に戻した。
「せめて、紙屋をお替えになるべきでしたわね」
*
ジェルヴェは、その日のうちに供述書へ署名した。自分の字で、だ。四十年ぶりに他人の字でない字を書いた、と仰っていた。
ロベール・ダルジャンの申し立ては、翌週、取り下げられた。貴族院は、紙が本物だと言った。けれど、書いた本人が「わたくしが三月前に書きました」と言えば、紙の話は、もう要らない。
クロエさんは、店を守った。当店には、何も置いていかれなかった。……いいえ。一つだけ。
墨を、一壺。
「うちの、五番です。……お代は、いりません」
「あら。当店、頂き物は」
「じゃあ」
娘さんは、初めて笑った。
「利息にしてください。ずっと、払います」
当店、パンと墨で、ずいぶん豊かになってまいりましたこと。
*
帰り際に、私は一つだけ伺った。ジェルヴェの棚には、まだ束が残っていた。書きかけの、由緒書きが。
「ジェルヴェさん。最近、お仕事は?」
「……ございません」
「あら」
「去年の秋から、ぱったりと」
その方は、棚の古い紙の束を見上げた。
「二十年、紙を届けてくださった方が、来なくなりました。最後に、こう言われまして」
ジェルヴェは、少し笑った。
自嘲だった。
「『もう、紙は要らない。——これからは、国が書く』と」
*
路地を出て、私は、しばらく歩けなかった。
手袋の、指の先が薄くなっていた。よく、使っている。
テオが、袖を引いた。
「姐さん? どうしたの」
「……テオ」
私は、西の空を見上げた。
王都の西に、白い漆喰の建物が建っている。看板のない、石に文字を刻んだ建物が。行列が七十人。三十数えるうちに、値が出て、査定票が出る。
由緒書きが。
無料で。
誰も、悪いことをしないままで。
「筆耕屋さんが、廃業なさいましたのよ」
私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「王都で一番の、由緒書き工房ができましたもの。……石造りの、立派なのが」
四十年、同じ墨壺をお使いの方が、いらっしゃいました。三百年、同じ墨壺のご先祖様は、贋物でございましたのに。
紙屋は、替えるべきでございましたのよ。……いいえ。替えられなかったのでしょうね。あの方は、あの墨が、好きでしたもの。
次回、第48話『担保庫の「不良担保」——ずいぶん、良いお品が並んでおりますこと』——
五百二十九点を、拝見いたしますわ。




