第46話:『その系図、三代前のご先祖様が紙より新しゅうございますわ』
クレール市へ発つ支度を、していたところだった。
鈴が、鳴った。
入ってきたのは、娘さんだった。十七ほど。喪服である。まだ新しい喪服だ。折り目が、立っている。
手に、筒を一つ。
「三日月堂の、女主人さまでしょうか」
「ヴィオレッタと申しますわ。お品物を、拝見いたしますわ」
「あの、わたし……お金は、ないんです」
娘さんは、そう言ってうつむいた。
「でも、他に、行くところがなくて」
クロエ・ダルジャンさん、と仰った。
「父が、先月、死にました。ダルジャン紙店といって……王都の南で、三代、紙と墨を商っております。大きな店ではありません。写字生さんと、印刷屋さんが、お客さまです」
「まあ。良いお店ですこと」
「ご存じで?」
「祖母の帳面に、ございますわ。『ダルジャンの墨は、五十年経っても浮かない』」
クロエさんの目が、潤んだ。
……あら。祖母の帳面は、今日もよく効く。
「その、お店が」
「はい。……先週、遠縁のロベール・ダルジャンという人が来まして」
娘さんは、筒を卓に置いた。
「『本家の系図が見つかった。ダルジャン家の正統は、自分の家系だ。店と地所は、本家に返してもらう』と」
筒から出てきたのは、羊皮紙だった。一枚。大きい。広げると、卓の半分を占めた。系図である。十代。三百年ぶん。一番下に、ロベール・ダルジャンの名。
私は片眼鏡を着けた。
「……クロエさん。これ、お父様の系図には」
「ありません。うちの系図は、三代です。祖父の代に、地方から出てきましたから。父も、そう言ってました。『うちは、たかだか三代の紙屋だ』と。……誇りにしてたんです、それを」
「ええ」
「でも、貴族院の書記官さまが、こうおっしゃって。『この系図は、三百年前の羊皮紙に書かれている。鑑定に出したが、紙は本物だ』と」
私は、その紙に指を触れた。
……ええ。本物だ。
三百年前の羊皮紙だ。この、しっとりした厚み。羊の毛穴の残り方。裏の、削りの目。手が覚えている。祖母の蔵に、これと同じ紙が何枚もあった。
「クロエさん。この紙は、本物ですわ」
娘さんの肩が、落ちた。
「……そう、ですか」
「ええ。ですから」
私は片眼鏡を着けた。
「余計に、いけませんのよ」
「査定を、始めますわ」
「第一に、綴じ穴ですわ」
私は、紙の左の縁を灯りに近づけた。
「ご覧になって。穴が、五つ。等間隔に。……糸の跡が、残っておりますわ。茶色く」
「あ……本当だ」
「クロエさん。系図というものは、家に一枚、掛けておくものですわね。額に入れるか、筒に納めるか。——綴じるものでは、ございませんわ」
指で穴の並びをなぞった。
「この紙は、もともと、帳面の一頁でしたのよ。綴じてあった紙を、剥がして、系図に使いましたの」
「第二に、罫線ですわ」
紙を斜めに傾けた。光の角度が変わると、うっすらと平行な線が浮かぶ。
「ほら。細い罫線が、引いてございますわ。ずっと。……クロエさん、あなたのお店は、紙屋ですわね。系図を書くための紙に、罫線を引きますこと?」
クロエさんは、首を振った。それから、はっとした顔をした。
「……引きません。系図の紙は、無地です。線があったら、代の高さが揃わなくなるから」
「ええ。ですから、ご覧になって」
私は、系図の縦線を指で追った。
「この系図の線、罫線を、無視して跨いでおりますわ。三本目の代のところ。ずれておりますでしょう? 罫線に合わせようとして、途中で諦めておりますの」
「第三に、墨ですわ」
片眼鏡を紙面すれすれまで下げた。
「クロエさん。あなた、お店の子ですわね。墨を、ご覧になって」
娘さんが、身を乗り出した。それから——動かなくなった。墨から、目を離さないまま。
「……全部、同じです」
その声は、震えていた。
「十代ぶん、全部、同じ墨です。同じ濃さ。同じ艶。同じ……にじみ方。墨って、壺が変われば、変わるんです。同じ壺でも、季節が変われば変わるんです。父が、そう教えてくれました。……三百年、同じ墨なんて」
「ええ」
私は片眼鏡を外した。
「三百年、同じ墨壺をお使いのご先祖様がいらっしゃいましたら、それこそ、貴族院にお出しになるべきですわ」
*
ロベール・ダルジャンは、その日の夕方に当店に来た。
クロエさんが、呼んだのではない。マルゴさんの網が、呼んだ。「あの娘が、下町の質屋に系図を持ち込んだ」と、あの方の耳に入れた。
来ないわけには、いかなかったのだろう。四十がらみの、痩せた男だった。悪い顔ではない。ただ、目が落ち着かない。
「……何の権利があって、他人の家の系図を」
「あら。当店、質屋ですのよ」
私は、帳場から動かずに申し上げた。
「クロエさんが、これをお預けになりましたの。質草ですわ。質草を査定するのは、質屋の仕事ですのよ。ご不満でしたら、質商法の条文をお持ちいたしますわ」
「そ、そんな査定に、何の意味が。貴族院は、紙を本物と認めたんだぞ! お前は、指定鑑定所ですらないだろう! 看板を外されたと聞いた!」
……あら。よくご存じですこと。
「ええ。外しましたわ」
私は、素直に頷いた。
「わたくしの鑑定書は、法廷では紙屑ですの。一文の値打ちもございませんわ。……ロベール様。ですから、法廷の話は、いたしませんのよ」
「……は?」
「今から申し上げるのは、あなたにだけ、聞こえればよろしいお話ですわ」
系図を卓の真ん中に広げた。そして、一番下から三つ目の代を指した。
『アンリ・ダルジャン』
「ロベール様。この方は、あなたの三代前のご先祖様ですわね」
「……そうだ。本家の、当主だ」
「いつ、お亡くなりに?」
「百年ほど前だ」
「まあ」
その名を指先で、そっと囲んだ。
「では、この墨は、どういたしましょう」
「墨?」
「墨ですわ。……ロベール様。この紙は、三百年前ですのよ。本物ですわ。貴族院の書記官殿の仰るとおり」
私は片眼鏡を着けた。
「ですけれど、この墨は」
私は、顔を上げて、その方をまっすぐ見た。
「今年ですの」
ロベールの顔から、血が、すうっと引いた。
「その系図、三代前のご先祖様が——紙より、新しゅうございますわ」
「百年前にお亡くなりになったアンリ様が、今年、ご署名なさいましたの。……お忙しい方ですこと。十代前のギヨーム様も、同じ日に、同じ墨壺から、ご署名ですわ。ご一族揃って、今年、一度に」
「ち、違う。私は——」
「ロベール様。あなた、これを、お書きになりまして?」
ロベールは、答えなかった。
「答えなくて、結構ですわ。……あなたの手ではございませんもの。あなたの指、ペンだこがございませんわ。この字は、写字を四十年やった方の字ですのよ。真っ直ぐすぎますもの」
私は、系図を、そっと巻いた。
「ロベール様。おいくら、お払いになりまして?」
「…………金貨、四十枚」
地所と、店と、娘さんの三代ぶんの誇りが、金貨四十枚。
……安うございますこと。
「どちらで、お求めに?」
ロベールは、椅子に崩れるように座った。この方も、そうだ。この頃、当店の帳場に来る方は、みんな、そう。悪人になりきれない方が、悪いことを少しだけなさる。
「……南の路地の、筆耕屋だ」
私は、ゆっくりと訊いた。
「ジェルヴェさん、と仰いまして?」
ロベールが、目を見開いた。
「な、なぜ、それを」
あら。
二枚目ですのよ、と申し上げようかしら。一枚目は、パン屋の女房の絵に添えられた、三百年前の伯爵家の由緒書き。あれも南の路地の筆耕屋の手だった。
『紙には困らねえ。処分帳の余白は、いくらでもある』
ピケが伝えた、あの方の口癖だ。
「ロベール様。ひとつだけ、伺いますわ」
私は、系図の左の縁を指した。綴じ穴。五つ。糸の跡。
「この紙、どちらの帳面から、剥がされたんですのかしら」
三百年前の紙に、今年の墨。ご先祖様が十代、揃って今年ご署名でございました。ずいぶん、仲のよろしいご一族ですこと。
紙は、本物でございました。……本物の紙ほど、質の悪い嘘はございませんのよ。
次回、第47話『捏造なさるなら、せめて紙屋をお替えになるべきでしたわね』——
南の路地へ、参りますわ。
ご先祖様が十代そろって今年ご署名、で笑ってくださった方は、☆を一つ。




