第45話:『祖母の裏台帳は、名簿ではございません。——地図ですわ』
六日、読んだ。
客は、来なかった。だから、時間だけはあった。皮肉なことですこと。五冊。二千三百十一点。三十年。
祖母は、贋作を見つけるたびに、一点ずつ書いていた。品名。寸法。継ぎ目の位置。持ち主。値。日付。見つけた場所。
字が、変わっていく。
一冊目は、若い字だ。まだ勢いがあって、少し跳ねる。三冊目あたりから、落ち着く。五冊目は——手が、震えている。昨年のものだ。この頃、もう痛みがあったのだろう。
それでも、書いておいでだった。最後の記載は、昨年の秋。銀の匙一本。寸法。継ぎ目。値。その二月後に、この方は亡くなった。
最初の頁を開いた。
一冊目の、一行目。
『銀燭台 一対 継ぎ目左寄り 横倒しの月あり 東市にて 金貨六枚』
その、日付。
私は、その日付を三度、確かめた。それから、宝物院の資料室で書き写した綴りの控えを、隣に置いた。
『三十年前 宮廷工房名簿より除籍
ジョスラン・ミレー
除籍理由 贋作の制作に関与した咎により、職人鑑札を永久剥奪
参考人 ラトン街質商 エルマ・クロッシュ』
裁きの、日付。
私は、二つの日付を並べた。
「テオ」
「うい」
「祖母が、この帳面を書き始めたのは」
片眼鏡の鎖に指をかけた。鳴らせなかった。
「あの方が、職人でなくなった日の——翌日ですのよ」
テオが、帳場の向こうから私を見た。
「……姐さん。それって」
「ええ」
「ばあちゃん、その人がクビになった次の日から、その人の作った贋物を、三十年、書いてたってこと?」
「ええ」
「なんで」
私も、それを六日間、考えていた。私は、二冊目を開いた。
「テオ。この帳面、変ですのよ」
「変?」
「悪い人の名前が、書いてございませんの」
私は、頁を繰った。ぱらぱらと、五年ぶんほど。
「ドラモン男爵の名は、出てまいりますわ。ユディトの名も。ですけれど、それは全部、『この品を持っていた人』として出てくるだけですのよ。祖母は、その方たちを、追っておりませんの。書いて、それきり。何もなさらない」
「……じゃあ、なに追ってたんだよ」
「品物ですわ」
二千三百十一点を数え直した紙を卓に置いた。テオが二日かけて数えた紙だ。この弟子は、字より数が得意だ。
「二千三百十一点のうち」
その数を指した。
「千八百四十点が、同じ手ですのよ」
テオが、口笛を吹いた。下手な口笛だった。
「八割じゃん」
「ええ。八割ですわ」
「じゃあ、ばあちゃんの帳面って——」
「王都の贋作の帳面では、ございませんのね」
私は、五冊を並べた。三十年ぶん。革の表紙が、色褪せた順に。
「一人の職人の、お仕事の帳面ですわ」
「テオ。……備考欄を、ご覧になって」
三冊目を開いた。
祖母の備考欄は、素っ気ない。それは、ずっと存じていた。貸付台帳も、裏台帳も、淡々と数字と事実だけ。ただ一箇所、ボナール氏の頁にだけ『困った時はお互い様』と書いた方だ。
書かない、ということが、あの方の一番雄弁な備考欄だった。私は、そう思っていた。六日、読んで分かった。書いて、おいでだった。
『腕、落ちず』
『継ぎの入れ方、変えた。よい』
『これは、急いだな』
『腕、上がる』
私は、頁を繰った。指が、少しうまく動かなかった。
『鏨の運び、前より深い。目が良くなっている』
『銀蝋、薄い。手が寒かったか』
三十年。
祖母は、贋物を見つけるたびに。
継ぎ目の三日月を見つけるたびに。
あの男の腕の批評を、備考欄に書いていた。四冊目に、こういうのがあった。
十二年前の、秋。
『今日のは、雑。何かあったか』
……あら。
私は片眼鏡を外した。少し、目が疲れていた。何かあったか、ですって。
この方は、心配なさっている。
三十年、名前も書かず、会いにも行かず、一度も警吏に売らずに——贋物の継ぎ目を覗いて、その日、その男の手が寒かったかどうかを案じていた。
「姐さん」
テオの声が、掠れていた。
「ばあちゃん、その人のこと——」
「テオ」
私は、湯呑みを両手で包んだ。祖母の欠けた湯呑みだ。
「この帳面を、警吏に持っていけば、あの方は、三十年前に捕まっておりましたのよ。一冊目の、十頁もあれば、十分ですわ。……祖母は、なさらなかった」
「なんで」
「まだ、分かりませんの」
湯呑みを置いた。
「ですけれど、ひとつだけ、確かなことがございますわ。——祖母は、三十年、あの方の仕事を、見ておりましたのよ。ずっと。一点も、見逃さずに」
五冊の背表紙を指でなぞった。
「見ていた、ということはね、テオ」
「うん」
「待っていた、ということですわ」
*
七日目に、私は地図を買った。王都で一番大きな地図だ。文房具屋で、金貨一枚。当店の、この月の、二番目に大きな買い物だった。一番は、ドニさんの絵だ。
それを、店の壁に貼った。四角い跡の上にだ。宝物院の板が掛かっていた、あの白い四角の上に、ぴったり。
「テオ。針を、千八百四十本、ご用意できまして?」
「無理」
「では、印で結構ですわ。……この帳面の記載には、必ず『どこで見つけたか』がございますの。東市。北の橋。南街の古物通り。それを、全部、この地図に、打っていただきたいの」
「ぜんぶ!?」
「ええ。三十年ぶん。……年ごとに、色を変えてくださいまし」
テオは、五日かかった。マルゴさんが、二日手伝ってくださった。ボナール氏が、一日。ドニさんが、パンを届けに来て、そのまま半日座り込んでいた。
誰も、何のためか訊かなかった。
*
五日目の、夜。
テオが、最後の印を打って、脚立から降りた。
「姐さん。……できた」
私は、灯りを二つ掲げた。王都が、そこにあった。
三十年ぶんの、点が。
私は、しばらく声が出なかった。
点は、散らばっていなかった。固まっている。年ごとに。一年目の点は、東市のあたりに。二年目も、そのあたり。三年目、少し、北へ。四年目、もっと北へ。
そして——動いている。三十年かけて。王都の中を。東から、北へ。北から、西へ。西から、南へ。ゆっくり、ゆっくり、螺旋を描くように。
まるで。
「……逃げてる」
テオが、呟いた。
「姐さん、これ、逃げてるんだよ。誰かから、ずっと」
「テオ」
私は、地図に手を伸ばした。点の連なりを指でなぞった。三十年を、なぞった。
「祖母の裏台帳は、名簿ではございません」
片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「——地図ですわ」
三十年、一点ずつ、寸法を測って、継ぎ目の位置を書いて、見つけた場所を書いて。
二千三百十一点。八割が、同じ手。
この方は、地図を描いておいでだったのだ。一人の男が、三十年、王都のどこをどう逃げたかの。
誰にも読めない地図を。孫娘が、いつか読めるように。
私は、最後の五年ぶんの点を探した。
二十六年目。南の外れ。
二十七年目。もっと、外れ。
二十八年目。
二十九年目。三十年目。
ない。
「テオ。この五年ぶんの点、どちらに?」
「打てなかった」
テオが、帳面の最後の頁を開いた。
「ここ、見て。見つけた場所が、書いてあんだけどさ」
私は、覗き込んだ。
祖母の、震える字で。
『クレール市にて』
『クレール市にて』
『クレール市にて』
私は、地図を見上げた。
王都の地図だ。
クレール市は、載っていない。窓の外に、細い月が昇っていた。祖母の看板と、同じ形の月が。
「テオ」
「……うい」
「王都の外に、市が立つ町がございますわね」
私は、地図の端に触れた。紙の縁だ。その先は、何も描かれていない。
「地図が、終わっておりますわ。——ですけれど、点は、終わっておりませんのよ」
三十年、祖母は、たった一人の男の腕を見ておりました。名前も書かず、会いにも行かず、一度も売らずに。
備考欄に、『腕、上がる』と。
……当店の先代は、ずいぶん、不器用な方でしたのね。
次回、第46話『その系図、三代前のご先祖様が紙より新しゅうございますわ』——
クレール市へ発つ前に、もう一件だけ。当店、お客様は、お断りしない主義ですのよ。




