第43話:『目方は、同じですわ。——薄めておいでですもの』
久しぶりに、鈴が鳴った。
からん、と。
私は、その音で、自分がどれだけこの音を待っていたかを知った。
入ってきたのは、若い男性だった。二十四、五。上等な、けれど、袖口の擦り切れた上着。顔色が悪い。手に、小さな桐の箱を両手で捧げるように持っている。
あの持ち方ですわ。
「あの……こちら、質屋の」
「三日月堂でございます。お品物を、拝見いたしますわ」
その方は、ほっとしたような顔をして、それから崩れるように椅子に座った。
「ジュリアン・ボヌフォワと申します。南街の、香具屋の……三代目です」
「南風堂さんですわね」
その方が、目を見開いた。
「ご存じで?」
「祖母の帳面に、ございますわ。八十年前から、王都で一番良い伽羅を扱っておいでのお店。……祖母は、こう書いておりますのよ。『南風堂の香は、値切ってはいけない』」
ジュリアンさんは、うつむいた。しばらくして、その方は掠れた声で言った。
「うちの香が」
「はい」
「匂わないんです」
桐の箱の中には、灰色の塊が入っていた。拳ほど。表面は、蝋のような、脂のような、不思議な照りをしている。
「竜涎香ですわね」
「……ご存じで」
「拝見するのは、二度目ですわ。祖母の蔵に、一片だけございましたの」
私は片眼鏡を着けた。
「これで、匂いませんの?」
「匂います。匂うんです。でも——」
ジュリアンさんは、両手で顔をこすった。
「薄いんです。半分も匂わない。うちの調合は、八十年、目方で決まってるんです。竜涎香を三匁、伽羅を五匁、そこに——それで、あの香が立つ。それが、立たない。二匁足しても、三匁足しても、立たない」
「お客様は?」
「先月、十二軒、離れました」
その方の指が、震えていた。
「侯爵夫人が、うちの香を四十年、使ってくださってた。先月、返品されました。……『南風堂も、代が替わって落ちたわね』と」
「ジュリアンさん。これ、おいくらでお仕入れに?」
「金貨百八十枚です。三十匁で」
「どちらから」
「カルヴェという仲買です。……先代からの付き合いじゃありません。うちの仕入れ筋は、去年、潰れました。南洋の船が、二年、来なくなって。そこへカルヴェが来たんです。『上物がある』と」
「証しは、ございまして?」
「あります。それは、しっかりしてるんです」
ジュリアンさんは、懐から紙を出した。私は、その紙を見て、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
『王立中央質庫 査定済
品目 香料(竜涎香)/目方 三十匁/年代 ——/状態 良
分類 甲種担保
評価額 金貨百八十枚
右、当庫の査定表に基づき算定せるものなり』
またお目にかかりましたわね。
「カルヴェは、処分の市で落としたと言ってました。『国が査定した品だ、間違いない』と。……間違って、ないんですよね? 国が、見てるんだから」
「ええ」
私は、その紙を静かに卓に置いた。
「国は、ご覧になっておりますわ。——目方を」
「査定を、始めますわ」
テオを、呼んだ。
「テオ。水を一杯と、それから、火鉢の炭を熾して、針を一本、焼いてくださいまし」
「うい」
「第一に、目方ですわ」
塊を秤に載せた。
「三十匁。……ええ、きっちり三十匁ですわ。ジュリアンさん、ここは、正しいんですのよ。誰も、目方は誤魔化しておりませんの」
「じゃあ——」
「第二に、水ですわ」
水を張った鉢に塊をそっと落とした。
ぷかり、と浮いた。
「まあ。浮きましたわね」
「浮きます。竜涎香は、浮くものです」
「ええ。浮きますわ。……ジュリアンさん。どのくらい、浮いておりますかしら」
その方が、鉢を覗き込んだ。塊は、水面にほとんど身体を出していた。半分以上、出ていた。
「祖母の蔵の一片は、こう浮きませんでしたのよ。頭を、ちょんと出すだけ。……本物の竜涎香は、水より、ほんの少し軽いだけですの。こんなに元気には、浮きませんわ」
「……なら、これは」
「軽いものが、混ざっておりますわね。蝋ですわ、たぶん」
「で、でも、目方は三十匁で——」
「ええ。目方は、合わせてございますわ」
私は、塊を鉢から拾い上げた。
「三十匁ぶん、蝋を混ぜて、三十匁にしてございますの。……目方は、同じですわ。——薄めておいでですもの」
「第三に、針ですわ」
テオが、真っ赤に焼けた針を火箸で持ってきた。
「ジュリアンさん。よく、ご覧になって」
私は、針を塊の端にそっと刺した。
しゅう、と音がした。
白い煙が、まっすぐ、細く立ち上った。
「……白い」
ジュリアンさんの声が、震えた。
「白いです。……本物は、黒いんです。黒っぽい煙が、絡みつくみたいに」
「ええ。白い煙は、蝋ですわ」
私は、針を抜いた。抜いた穴から、透明な滴が、一粒。
「そして——ご覧になって。断面ですわ」
針の穴を片眼鏡で覗いた。
「本物の竜涎香は、年輪のような層になっておりますの。長い年月、海を漂って、少しずつ育ちますもの。この断面は、つるりとしておりますわ。一度、溶かして、混ぜて、固め直したお品ですのよ」
片眼鏡を外した。
「査定、確定いたしましたわ」
「竜涎香、本物。ただし、五分。残る五分は、蝋。……ジュリアンさん。あなたが仕入れた三十匁のうち、匂うのは、十五匁ですわ」
ジュリアンさんは、動かなかった。それから、いきなり立ち上がった。
「じゃ、じゃあ、この査定票は!」
その方は、あの紙を掴んだ。
「国が! 甲種担保、金貨百八十枚と! 国が、書いてるんですよ! 嘘じゃないですか! これは、詐欺じゃないですか!」
「ジュリアンさん。落ち着いて、その紙をお読みになって」
「読みましたよ! 何度も——」
「品目、香料。目方、三十匁。状態、良」
私は、札から目を上げた。
「どこに、嘘がございますの?」
ジュリアンさんの手が、止まった。
「香料ですわ。ええ、香料ですのよ。竜涎香が五分、入っておりますもの。目方、三十匁。合っておりますわ。状態、良。……割れても欠けてもおりませんもの。良ですわね」
私は、その紙を指先で示した。
「この紙に、嘘は、一文字もございませんの」
「そんな——」
「ないんですのよ、ジュリアンさん」
頁を、繰った。
「この査定表には、『濃さ』の欄が、ございませんの」
*
ジュリアンさんが帰ったあと。私は、帳場に、あの査定票を並べた。
三枚。
兜の査定票。『年代 二百年/状態 良』——被られたことがない、とは書いていない。
絵の処分札。『乙種担保 整理番号一八七四』——誰が描いたか、とは書いていない。
竜涎香の査定票。『目方 三十匁』——中身が何か、とは書いていない。
三枚とも、嘘が一文字もない。三枚とも、本当のことしか、書いていない。
「……テオ」
「うい」
「あの方の査定表は、間違っておりませんのよ」
「え? だって姐さん、今——」
「間違って、いないんですの」
私は、三枚をそっと重ねた。
「足りないだけですわ」
*
その夜、私は、白い紙を一枚出した。そして、上に、こう書いた。
『王立中央質庫 査定表 ——ない欄の一覧』
一、真贋
一、濃さ
一、使用の痕
一、来歴
一、
私は、そこでペンを止めた。
……あら。
まだ、ある。きっと、たくさん。テオが、帳場の向こうから、覗き込んだ。
「姐さん、それ、なんの表?」
「校正ですわ」
「こうせい?」
「ええ」
私は、ペンをインクに浸した。
「あの方が、仰いましたのよ。『あなたは、私の査定表の最良の校正者だ』と」
テオが、目を丸くした。
「……姐さん。それ、ほんとにやるの?」
「ええ」
私は、微笑んだ。
「頼まれましたもの。当店、ご依頼は、お断りしない主義ですのよ」
本日、久しぶりにお客様がおいででした。匂わない香を抱えて。
目方は、正直でございましたのよ。正直すぎて、何も教えてくださいませんでしたけれど。
次回、第44話『「効く」と「効いたことにする」は、別のお品ですわ』——
仲買のカルヴェさんに、お目にかかりますわ。
「目方は、正直ですわ」が小気味よかった方へ。☆をひとつ。




