第41話:『看板が一枚減っただけですわ。帳場は、ここにございます』
看板を下ろした翌日、当店には誰も来なかった。
五ヶ月前、組合に除名されて鑑札を止められたとき、私は、悔しかった。悔しがるだけの余裕が、あったのだ。あのときは、下町の人々が、次から次へと暖簾をくぐってくださったから。鍋を持って、外套を持って、「うちの品を預かってくれ」と言いに来てくださったから。あの日、この店は、店を開けられないのにいっぱいだった。
今日は、静かだ。
誰も、怒っていない。誰も、心配していない。
誰も——気づいていない。
「……テオ」
「うい」
「昨日、当店から真鍮の板が一枚なくなりましたことを、この街で、何人がご存じかしら」
テオは、答えなかった。
答えられるわけがない。知っている人が、いないのだから。三日月堂に宝物院の指定があったことを、ラトン街の人々はたぶん、最初から気にしていない。あの板は、貴族と役所に効く板だ。パンを焼く方には、なんの関係もない。
殴られて倒れるのは、まだ良い。倒れたことに、誰も気づかないのが——
私は、湯呑みに手を伸ばして、やめた。
これは、悔しさだ。悔しがるのは、久しぶりですこと。
その日、ただ一人の客は、ドニさんだった。焼きたてのパンを、一つ。
「お嬢。……なんか、店の壁、白いとこができてねえか?」
「板を、一枚外しましたのよ」
「ふうん。掃除か」
「ええ。掃除ですわ」
ドニさんは、それきり何も訊かなかった。パンを置いて、帰っていった。粉の匂いが、少しだけ店に残った。私は、そのパンをテオと半分こにして食べた。
この街は、私が公爵令嬢だったことも、勘当されたことも、冤罪だったことも、宝物院の指定を受けたことも、失ったことも——たぶん、全部たいして気にしていない。
この街が気にしているのは、私がこの帳場にいるかどうか、それだけだ。
……あら。
私は、今、少し、救われた。
*
三日目に、ボナール氏が来た。
王都質商組合の組合長である。五ヶ月前、ドラモンの借金に首を絞められて、この店の除名動議を可決した方だ。祖母が金貨八十枚を、利息なし期限なしで貸していた方でもある。
その方が、痩せていた。
「……お嬢さん。組合が、もたん」
ボナール氏は、帳場の前で帽子を握り潰していた。
「三百九十七軒だ。先月まで、王都の質商は三百九十七軒あった。今月、三百四十一軒だ」
私は、算盤に手を伸ばしかけて、やめた。
弾かなくても、引ける。
五十六軒。
一月で。
「爺さんたちはな、店を畳んで、質庫の窓口に雇われに行っとる。日当は悪くない。表を繰って算盤を弾くだけだ。目利きは要らん。……四十年やってきた爺さんが、算盤を弾いて、『銅貨五枚です』と言うんだ。言えるんだよ、お嬢さん。表にそう出とるんだから」
ボナール氏は、そこで口を歪めた。
「わしは、あんたに除名動議を出した男だ。こんなこと、頼める義理じゃない」
「ボナールさん」
「頼める義理じゃないんだ。だが、他に行くとこがない。……なあ、お嬢さん。三百四十一軒を、どうしたらいい」
三百四十一軒。
私は、その数を口の中で転がした。
——王都に、質屋は何軒あります?
——三百九十七軒です。では、そのうち、今あなたがなさったことができる店は、何軒です?
——一軒です。
あの講堂で、灰色の方はそう仰った。
残る三百九十六軒の客は、どうなります。あなたの目は本物だ。だが、本物が一軒しかないなら、それは制度ではない。奇跡です。
あの方は、三百九十六軒を救うと仰った。
救っておいでだ。今、五十六軒ぶんの爺さんに、日当を払っていらっしゃる。
その爺さんたちが、四十年ぶんの目を、日当と引き換えに閉じておいでなのだ。
「ボナールさん。ひとつ、伺いますわ」
私は片眼鏡を着けた。
「その爺さんたちの目は、どこへ行きましたの?」
「……は?」
「四十年、質草を見てきた目ですわ。表を繰るのに、あの目は要りませんわね。要らないものは、どこへ行きますの? 目玉を、質庫に置いてきましたのかしら」
ボナール氏が、目を見開いた。
「……いや。いや、持っとる。持っとるよ。あいつら、休憩のときにな、そっと品を裏返して見とるらしいんだ。癖でな。癖で、見ちまうんだと。見ても、表には書けんから、黙っとる」
私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「では、まだ、ございますのね」
「お嬢さん。……あんた、店の壁が、白いぞ」
帰り際に、ボナール氏が言った。この方は、組合長ですもの。あの板の意味が、分かる。
「宝物院の指定、返上したのかい」
「ええ」
「……そりゃ、あんた」
「ボナールさん」
私は、帳場から動かなかった。動く必要が、なかったので。
「看板が一枚減っただけですわ」
卓の木目を、手のひらでそっと撫でた。祖母が四十年、肘をついていた場所だ。そこだけ、木が、飴色になっている。
「帳場は、ここにございます」
ボナール氏は、しばらく、私を見ておいでだった。それから、握り潰した帽子を、被り直した。
「……エルマ婆さんが、いつも、そこに座っとった」
「ええ」
「あんた、婆さんに、似てきたな」
当店、本日の最高値は、その一言ですわ。
*
その夜。
私は、帳場に祖母の裏台帳を積み上げた。三十年ぶん。錠前が三つ。革の表紙が、五冊。うち一冊は、背が割れて、麻糸で綴じ直してある。祖母の手で。
テオが、燭台を三つ、持ってきた。
「姐さん。これ、前も読んだじゃん」
「読みましたわね」
「公爵家の頁も、写し師のとこも、ぜんぶ読んだじゃん。まだ、なんかあんの?」
「テオ」
私は、一冊目の表紙に手を置いた。
「わたくし、この帳面を、ずっと『名簿』だと思っておりましたの」
「名簿?」
「ええ。誰が悪いことをしたか、書いてある帳面。……ドラモン男爵の名前を探すために読みましたわ。ユディトの名前を探すために読みましたわ。ジョスラン・ミレーの手を探すために読みましたわ。ぜんぶ、『誰か』を探して読みましたのよ」
表紙を開けなかった。まだ。
「テオ。当店、宝物院の看板を失いましたわ。組合は三百四十一軒。客は、来ませんの。……わたくしには、もう、探せるものが、何もございませんのよ」
「姐さん、それって——」
「ですから、今度は」
私は片眼鏡を着けた。
「探さずに、読みますわ」
夜が更けても、私は読んでいた。テオは、帳場の隅で、猫みたいに丸くなって寝ていた。
三十年。祖母は、この帳面に、王都に流れた贋作を、一点ずつ書いていた。品名。寸法。継ぎ目の位置。持ち主。値。日付。備考欄は、いつもどおり、素っ気ない。
ただ——
私は、頁を繰る手を止めた。
妙だ。
この帳面には、「誰が」の欄が、ほとんど、ない。ドラモンの名は出てくる。ユディトの名も出てくる。ただ、それは、品物の持ち主として出てくるだけ。
祖母は、悪い人を、追っていない。
祖母が三十年、一点ずつ、寸法を測って、継ぎ目の位置を書き留めて、追い続けたのは——
「……品物のほうですわね」
私は、燭台の火を一つ引き寄せた。
なぜ。
なぜ、この方は、三十年も、贋物の寸法を測り続けたのか。
*
朝方、ボナール氏の言葉が、ふと、耳に戻ってきた。
——無利子だぞ、お嬢さん。質庫は、無利子で貸すんだ。銀行が、無利子で貸すか?
私は、顔を上げた。
わたくし、うっかりしていた。利息というものは、消えない。利息が零に見えるときは、誰かが、別の場所で、耳を揃えて払っている。
「無利子の原資は」
私は、帳面を開いた。
「どちらから?」
誰も、当店が看板を失ったことに気づいておりませんでした。……これは、当店の半年で、一番静かな敗け方でございましたわ。
けれど、パンは焼きたてでございました。それで、じゅうぶんですのよ。
次回、第42話『無利子・即金——その親切、利息はどなたがお払いに?』——
帳尻を、逆算いたしますわ。




