第40話:『金貨九千枚の行方——「設立準備基金」という、ご立派なお名前で』
封を二つ同時に切った。私が左を、テオが右を。この弟子は、こういうとき余計なことを訊かない。左は、王立中央銀行の回答だった。
『照会に対する回答
一、貴院照会に係る第一四四七号口座の名義は、左記のとおり。
名義 王立中央質庫 設立準備基金
管理 王立中央銀行 総裁室直轄
改称 三年前 三月
旧名義 (当行管理口座・名義なし) 十二年前 九月より
二、口座の入出金明細については、銀行秘密の規定により開示せず。
王立中央銀行 総裁室』
私は、その一行を長いこと見ていた。
『名義 王立中央質庫 設立準備基金』
あの取り調べのあと。私は、当店の台帳に赤い付箋を貼った。
ユディト・メルローズが、十年かけてメルローズ公爵家の家宝を写しとすり替え、ドラモン男爵の手で換金した、金貨九千枚。取り調べで、あの方は最後まで、その行方だけを語らなかった。凍結された口座の、その先。番号は分かっていた。判決文にも、そう書いてある。
『第一四四七号口座宛 金貨九千枚』
番号だけは、はじめから分かっていた。空いていたのは、名義の欄だけだった。
「……姐さん。こっち、なんて書いてあんの」
テオが、右の封書を両手で持っていた。読めないのではない。読みたくないのだ。この子は、字は読める。私は受け取って、読んだ。
『通知
一、王立中央質庫設置法案は、本日、貴族院第一読会を通過せり。
二、右に伴い、貴店「三日月堂」に対する王立宝物院指定鑑定所の指定につき、公正性の観点から再検討を要するものと認む。
三、理由。貴店は、中央質庫と同一の業を営む私店なり。国の蔵と競合する私店が、国の鑑定の名を帯びることは、国民の信を損なう。
四、よって、指定の返上を求む。期限、七日以内。
王立中央質庫 設立準備委員会』
正しゅうございますわね。
三の理由を、私は三度読んだけれど、どこにも、間違いがない。当店は私店だ。質庫と同じ商いだ。国の鑑定の名を帯びた店が、国の蔵と客を奪い合うのは、確かに、行儀が悪い。
五ヶ月前、ドラモン男爵は、組合を金で買って、当店の鑑札を止めた。
あれは、剥がせた。金で買った動議には、金の匂いが残る。
この通知には、匂いが、ない。
*
鈴が、鳴った。
からん、と。いつもの、良い音である。祖母がこの鈴を選んだのは、たぶんこの音が客の肩を下ろさせるからだ。灰色の髪の方が、当店の敷居をまたいだ。
従者も連れず。ひとりで。
「——ごめんください」
その方は、下町の質屋の暖簾のくぐり方をご存じだった。頭を下げ、外套の雨粒を外で払ってから入る。ずいぶん、慣れておいでだ。
「頭取閣下」
「モーリス・グランヴィルです。……客ではありません。今日は、使いです」
「あら。当店、使いの方でも、お茶はお出ししておりますのよ」
「頂きます」
その方は、素直に座った。三日月堂の帳場は、暗い。この五ヶ月で初めて、私はこの暗さをありがたいと思った。
「閣下。先に、こちらを」
私は、銀行の回答を卓に置いた。グランヴィル氏は、それを読んだ。読んで、顔色を一つも変えなかった。
「それが?」
「五ヶ月前、メルローズ公爵家から、金貨九千枚が流れましたの。十年かけて、家宝の本物を写しとすり替えて、換金したお金ですわ。判決文をご覧になって? 送金先は、第一四四七号口座」
片眼鏡を、着けた。
「金貨九千枚の行方——『設立準備基金』という、ご立派なお名前で」
沈黙は、長くなかった。その方は、湯呑みを静かに置いた。
「知っています」
……はい?
「三年前、基金の名義を整えたのは私です。当時、あの口座には、由来のはっきりしない入金が積み上がっていた。銀行管理の匿名口座というのは、そういうものです。十二年前に、私が凍結して以来、誰も引き出せなくなっていた。……凍結した金は、腐ります。ヴィオレッタ殿。金は、使われないと、価値を失うのですよ」
「ですから、名前をおつけになりましたの」
「ええ。国の基金にした。使途を公にした。監査を通した。——王都に四十の質庫を建て、庶民が形見を叩き売らずに済む蔵にする。それが、あの死んだ金の、一番良い使い道です」
私は、答えられなかった。
「閣下。そのお金は、盗まれたお金ですのよ」
「ええ」
「メルローズ家の蔵から、本物が三十七点、消えましたの。その代わりに、写しが三十七点、並びましたわ。……そして、その本物を盗まれた家の娘が、家宝泥棒と呼ばれて、勘当されましたのよ」
湯呑みを両手で包んだ。祖母の、欠けた湯呑みである。
「その娘の値打ちは、金貨九千枚と一緒に、番号だけの口座に沈んでおりましたの。それが今、蔵の礎になろうとしておりますわ」
グランヴィル氏は、初めて目を伏せた。伏せて、それから上げた。
「お気の毒です」
その声には、嘘の匂いがしなかった。
「本当に、お気の毒だ。それは、私が今日、この店で聞いた話の中で、一番痛い話です。……ですが、ヴィオレッタ殿」
その方は、姿勢を正した。
「金に、出自はありません」
石を、置かれたようだった。
「盗まれた金貨も、稼いだ金貨も、同じ目方です。同じ含みです。同じ数だけ、パンが買える。……あの九千枚を、私が今、火に投げ入れたとして、あなたの冤罪の五ヶ月は、戻りますか。戻りません。ならば、あの九千枚は、四十の蔵になるべきだ。庶民が七万人、形見を叩き売らずに済む蔵に」
「閣下——」
「これは、詭弁ではありません。私は、二十年、この理屈で仕事をしてきた。私の帳面が二十年合っているのは、私が清潔だからではない。私が、金の出自を数えないからです。数えないから、間違えない」
この方は、灰色の目で私を見た。
「あなたは、それを汚いと思う。私は、それを、公平と呼びます」
私は、片眼鏡を外した。外して、しばらく鎖を指に絡めていた。ちり、とも鳴らさなかった。鳴らす気に、なりませんでしたの。それから、申し上げた。
「閣下。当店の看板を、ご覧になって?」
「三日月ですね」
「ええ。祖母が四十年、掛けておりましたわ。……閣下。当店の商いは、たった一つの理屈で立っておりますの。よろしければ、聞いてくださいまし」
「伺いましょう」
「お品物は、持ち主の嘘を知っておりますわ」
卓の上に片眼鏡を置いた。
「兜は、被られなかったことを覚えておりますの。絵は、額に入れられなかった三十年を覚えておりますの。香水瓶は、蓋を落とした子供のことを覚えておりますのよ。……閣下。物は、通ってきた道を、身体に持っておりますわ。だから、物には、出自がございますの」
銀行の回答を指先でそっと押し返した。
「お金も、お品物ですのよ、閣下」
グランヴィル氏の指が、湯呑みの縁で止まった。
「あの九千枚は、蔵の礎になったら、礎の顔をいたしますわ。ええ。誰にも見えませんでしょう。四十の蔵が建って、七万人がお喜びになって、閣下の帳面は、二十一年目も合いますわね」
私は、その方の灰色の目をまっすぐ見た。
「ただ、その蔵は、一生、真贋を見ませんのよ」
「…………」
「見ないのではございませんわ。見られませんの。出自を数えない方がお建てになった蔵ですもの。出自を数えない蔵に、真贋の欄は、書けませんわ。——閣下の査定表に、あの欄がないのは、閣下がうっかりなさったからではございませんのね」
沈黙が、あった。
グランヴィル氏は、立ち上がった。そして、懐から一枚の書面を出して、帳場に置いた。
指定返上の、通告書である。封書のものより正式な、貴族院の副署がついたものだった。この方は、最初からこれを持って来ておいでだったのだ。
「頭取閣下」
「……ヴィオレッタ殿」
その方は、少しだけ言葉を探した。この方が言葉を探すのを、私は初めて見た。
「私は、今日、この店で、負けたかもしれません」
「あら」
「言葉では。……ただ、法案は通りました」
その方は、通告書を指でこちらへ滑らせた。
「看板を、下ろしていただきます」
*
その方が出ていったあと、鈴が、からん、と鳴った。良い音だった。腹の立つほど、良い音だった。テオが、奥から出てきた。目が、赤かった。
「……姐さん。俺、外すよ」
「テオ」
「いいから。姐さんが外すの、見たくねえ」
この子は、脚立を持ってきた。まだ、脚立の一番上には届かない背丈である。それでも、上った。
『王立宝物院 指定鑑定所』
五ヶ月前、殿下がこの店を救ったあの真鍮の板を。テオは、両手で抱えて下ろした。下ろしたあとの壁には、四角い跡が残った。日に焼けていない、白い、四角。
……あら。
ドニさんの絵の裏の糊の跡と、同じ形だ。テオが、板を抱えたまま私を見た。
「姐さん。次、どうすんの」
私は、三日月の看板を見上げた。祖母が四十年、掛けていた看板を。あれは、誰にも下ろされていない。あれを下ろせる方は、王都に一人もおいでにならない。
算盤を引き寄せて、ぱちん、と一つ弾いた。
「テオ。祖母の裏台帳を、お出しになって」
「え?」
「三十年ぶん、ぜんぶですわ。——読み直しますのよ」
お読みいただき、ありがとうございます。
赤い付箋が、一枚剥がれました。剥がしてみたら、その下にあったのは、四十の蔵の礎でございました。……当店の帳尻は、本日、真っ黒ですわ。黒すぎて、何も見えませんの。
看板は、下ろしました。暖簾は、下ろしておりませんのよ。
次回、第41話『看板が一枚減っただけですわ。帳場は、ここにございます』——
第5章、開幕でございます。




