第39話:『「代理人」——ずいぶん、お行儀のよろしい脅し方ですこと』
ジラール警吏長が当店に現れたのは、面会の二日後だった。四角い顔が、いつにも増して四角い。この方は、腹を立てると輪郭が硬くなるらしい。
「調べた」
警吏長殿は、帳場に一枚の紙を置いた。
「あの日、面会を打ち切らせた『上』だ。……お嬢さん。誰だと思う」
「法務局?」
「違う」
「貴族院?」
「違う」
警吏長殿は、指で紙を叩いた。
「会計だ」
……はい?
「監獄の、会計課だ。前日付で、通達が回っていた。『被収容者の面会立会に伴う看守の超過勤務手当について、本年度の予算費目に計上なし。よって立会時間は一件あたり四半刻の半分を上限とする』——以上」
私は、その通達を読んだ。
三度、読んだ。
書式は完璧だった。日付も、押印も、費目の番号も。文面には、ドラモンの名も、私の名も、一行も出てこない。ただ、王都監獄の全被収容者の面会が、その日から一律に、半分になった。
誰も、悪いことをしていない。
誰も、命令していない。ただ、予算に、費目がなかっただけ。
「……警吏長殿」
「なんだ」
「この通達を、書いた方は?」
「監獄の会計課長だ。四十年勤めている。真面目な男でな。私も知っている。……そいつは、上から回ってきた予算の枠に従って、事務をしただけだ。枠を作ったのは、財務の役所。財務の役所に枠を出させたのは——」
「王立中央銀行」
「そうだ」
警吏長殿は、腕を組んだ。
「立件できるか、これで」
「できませんわね」
「できん。犯罪が、どこにもない」
私は、通達の紙を指先で撫でた。上等な紙だ。今年の漉きたてではなく、きちんと寝かせた、役所の紙。
五ヶ月前。ドラモンは、私の店に盗品の銀食器を押しつけた。官憲を呼んだ。組合を動かして、鑑札を止めた。——全部、私に殴り返せた。殴り返せる形をしていたから。
この通達は、殴れない。
「『代理人』」
私は、その紙を灯りに透かした。
「——ずいぶん、お行儀のよろしい脅し方ですこと」
*
その日の夕暮れ、鈴が鳴った。黒い外套。いつもの刻限。ただ、その手が、空だった。
「……殿下?」
「ああ」
ルシアン殿下は、帳場の前に立って、少しだけ決まりの悪い顔をなさった。
「本日は、品を持ってこなかった」
私は、片眼鏡に伸ばしかけた手を止めた。
「あら。では」
なんと申し上げればよろしいのかしら。
「お客様では、ございませんわね」
「……ああ」
殿下は、そう仰って、それきり黙ってしまわれた。
私も、黙っていた。
この方は、五ヶ月、この店に通ってこられた。古い懐中時計を持って。銀の匙を持って。硝子の文鎮を持って。お母上様の香水瓶を持って。
いつも、手に何かがあった。あれは、この帳場に立つための口実だったのだろう。
口実が、なくなった。
テオが、奥から顔を出して、私と殿下を見比べて——それから、何も言わずに引っ込んだ。この弟子の目は、本当によく利く。
「……殿下。お茶を、お淹れいたしますわ」
「頼む」
*
私は、ドラモンの言葉をそのまま殿下にお伝えした。
第一四四七号は、十二年前まで、ドラモンの口座だったこと。ある年、通知一枚で、銀行の管理へ移されたこと。名義を移した男は、当時まだ頭取ではなかったこと。
殿下は、茶に口をつけないまま聞いておいでだった。
「……十二年前」
それから、静かに仰った。
「王立中央銀行の検査役に、モーリス・グランヴィルがいた」
私は、湯呑みを置いた。
「確かか、と問うな。確かだ。私は宝物院の総裁だが、その前に、王家の会計を通される側の人間だ。あの男の名は、十二年前から、財務のどの部屋にもあった。……ヴィオレッタ殿。あの男は」
「はい」
「一度も、不正を疑われたことがない」
「二十年、あの男の名が載った帳面で、一度も、金が合わなかったことがない。私は、それを、この国で一番清潔な男の証だと思っていた。……昨日まではな」
殿下は、そこで初めて茶を飲んだ。
「今は、こう思う。二十年、一度も合わなかったことがない帳面など、あるものか、と」
「殿下。お願いがございますの」
「言え」
「第一四四七号口座の、名義を照会していただけますかしら」
殿下は、湯呑みを置いた。
「……ヴィオレッタ殿。私は王弟だが、他人の口座は覗けん。銀行の秘密は、王家より古い」
「ええ。存じておりますわ」
私は、帳場から一枚の紙を出した。ソレルの帳場の裏板の隙間から出てきた、あの送金票である。
「口座を覗いてほしいのではございませんの。名義を、一つ、教えていただきたいだけですわ」
「同じことだろう」
「違いますのよ」
片眼鏡を着けた。
「宝物院には、権限がございますわね。王家の蔵から流出した品を追う権限。品そのものだけでなく、その品が売れたお金の行方も。——第九〇三番の兜は、王家の品ではございませんわ。ですけれど」
裏台帳を開いた。
「祖母の帳面によれば、この兜と同じ手の写しが、三十年前から、王都に流れておりますの。そして殿下。二十年前の秋に、四十七点、まとめて『破損につき処分』になったお品がございましたわね」
殿下の目が、細くなった。
「……その四十七点の写しが、市場に出ていたなら」
「ええ。宝物院は、その代金の行方を照会できますわ。合法に」
殿下は、しばらく、私を見ておいでだった。それから——笑った。声を出して笑うのを、私は初めて見た。
「あなたは、恐ろしい人だな」
「あら。褒め言葉と、頂戴しておきますわ」
「褒めている。……ヴィオレッタ殿。一つだけ、言っておく」
殿下は、外套を取った。
「この照会を出せば、向こうは、こちらが見ていることを知る。書面は、そういうものだ。……あなたの店の、宝物院指定の看板。あれは、私が出した。だが、あれを外せる筋は、私の他にもある」
「存じておりますわ」
「それでも、出すか」
私は、算盤を引き寄せた。
ぱちん、と一つ弾いた。
「殿下。当店の暖簾は、売り物ではございませんの。——看板は、売り物ですわ」
*
照会状は、その夜のうちに、宝物院の印を捺されて出た。三日、何も起こらなかった。
その三日のあいだに、当店の客は、二人だった。ドニさんが毎朝パンを持ってきてくださるのは、商いに入れていないので、二人だ。
四日目の朝。
鈴が鳴る前に、テオが飛び込んできた。両手に、封書を二つ抱えている。
「姐さん! また役所からでっけえの! ……二通も!」
私は、帳場で、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。一通は、王立中央銀行の封蝋。照会の回答である。
もう一通の封蝋は——見覚えがなかった。真新しい蝋に、天秤と、王冠。
『王立中央質庫 設立準備委員会』
同じ日に、二通。
偶然というものは、当店の帳場では、たいてい、偶然ではございませんのよ。
「テオ。どちらから、開けましょうかしら」
「え? そんなの……こっちだろ、銀行の。ずっと待ってたじゃん」
「ええ。そう思いますでしょう」
私は、二通を、並べて置いた。
人は、待っていたほうの封を、先に切る。そして、切ったところで、心が、もう一通に向かなくなる。
——お行儀の、よろしいこと。
「テオ。両方、一度に開けますわ。……手伝ってくださいまし」
灰色の男は、殴りませんの。怒鳴りませんの。ただ、予算の費目を一つ、削るだけ。当店、こういうお品の値のつけ方を、まだ存じ上げませんわ。
次回、第40話『金貨九千枚の行方——「設立準備基金」という、ご立派なお名前で』——
赤い付箋を、剥がしますわ。
殴らず、怒鳴らず、費目を一つ削る——その気味の悪さが伝わった方は、ブックマークを。




