第38話:『獄中のあなたに、査定を一つ差し上げますわ、男爵』
王都監獄の面会室は、石でできていた。床も、壁も、天井も。卓だけが木で、その木も、たぶん百年ぶん、爪で削られている。
「四半刻だ」
ジラール警吏長は、扉の脇に立ったまま、言った。
「規則では、面会には立会人が要る。私が立会人だ。……他意はないが、お嬢さん。この男は、何も吐かん。一度は自分から持ちかけてきた。注文主の名を吐く、とな。それが、代理人の面会があった後で、前言を撤回しおった。あれ以来、一言もだ。検事局が三度、取引を持ちかけ直して、三度とも断られた」
「断られた?」
「断られた。減刑を蹴る男を、私は初めて見た」
商人が、儲け話を蹴りますのね。
*
私は、手袋を外して、鞄の奥へしまった。上等なお品を、こういう場所へ持ってはまいりませんの。
オーギュスト・ドラモンは、痩せていた。
仕立ての良い上着も、指輪も、鎖もない。あるのは、囚人の粗い服と、それでも背筋を伸ばして座る、五十七年ぶんの習慣だけだった。
顔を上げて、私を見て、そして——笑った。顔が笑って、目が笑わない、あの笑い方である。この方の在庫のうち、これだけは、まだ流れていないらしい。
「これはこれは。女主人どの。……お元気そうですなあ」
「おかげさまで。男爵閣下は、お痩せになりまして?」
「ここの飯は、査定額ゼロでしてね」
私は、卓の向かいに腰を下ろした。片眼鏡は、着けなかった。この方に対して、それは礼を欠く。
「男爵。伺いたいことが、二つございますの」
「ほう」
「ギヨーム・ソレルという仲立人を、ご存じ?」
ドラモンの眉が、動かなかった。動かなかったことが、答えだった。人は、知らない名前を聞くと、眉が動く。「はて」の形に。
「もうひとつ。王立中央銀行の、第一四四七号口座を、ご存じ?」
ドラモンは、動かなかった。その代わり、爪で削られた卓の木目をじっと見ていた。ずいぶん長いこと、見ていた。
「……女主人どの。ひとつ、忠告しましょうか」
「まあ。無料で?」
「無料です。私にはもう、値をつけるものがない」
ドラモンは、顔を上げた。
「お帰りなさい。今すぐ。そして、下町で質屋をおやりなさい。あなたは、それがよく似合う」
「男爵。ひと月前、あなたは検事局に取引を持ちかけましたわね」
ドラモンの喉が、わずかに動いた。
「『贋作の注文主の名を吐く。代わりに罪一等の減刑を』。——横槍が入って、話は流れました。入れた筋は、もう牢の中ですわ。ユディト・メルローズは、先月、判決を受けましたの」
「……ほう」
「ですから、あなたを止めるものは、もう何もございませんわ。それなのに、あなたは、あれ以来、一言も仰らない。検事局の取引を、三度、お蹴りになった」
私は、静かに申し上げた。
「男爵。あなたは、商人ですわ。儲け話を蹴る商人は、二種類しかおりませんの。——もっと良い話を持っている方か、怖い方か」
ドラモンは、笑わなかった。
「怖い、と思われますかな」
「いいえ」
私は、首を振った。
「あなたは、怖がる方ではございませんわ。あなたは、五年かけて由緒書きをこしらえる方ですもの。怖い方は、そんなに気の長いことはなさいませんの」
「では?」
「もっと良い話を、お持ちなのでしょう」
ドラモンの、目が。
初めて、笑いを解いた。
*
「……面会が、ありましてね」
ずいぶん経ってから、その方は言った。
「ひと月ほど前です。名乗らなかった。代理人だ、と。それだけ」
「まあ。どんなお姿の方でしたの?」
「灰色でしたなあ。髪も、上着も、声も。……いや、顔は覚えていない。ここは暗い。それに、その男は、私の顔をまっすぐ見なかった。手元の紙を見ていた」
「紙」
「私の名前の書かれた、紙です」
ドラモンは、削れた卓に指を這わせた。
「その男は言いました。『男爵。あなたの罪は、六年です。六年は長い。あなたは五十七だ。出たとき、六十三。市場は、あなたを覚えていない』——正確でしたなあ。実に、正確だ」
「そして?」
「『二年に、できます』と」
「……根拠は?」
「言いませんでした」
ドラモンは、顔を上げて、私を見た。
「言わなかった。ただ、こう言った。『貴族院の予審が、動いたでしょう?』と。——動いていました。あの横槍です。あれは、公爵夫人の手だと、私は思っていた。……その男は、それを、自分の手柄のように言った」
私は、息をゆっくり吸った。
「ですから、私は待っているのですよ、女主人どの。口を閉じて、待っている。二年で出れば、五十九だ。五十九なら、まだ、店が出せる」
ドラモンは、そこで少しだけ笑った。今度は、目も笑っていた。それが、いけなかった。
「もう一度、由緒を売れる」
私は、卓の上で指を組んだ。
「男爵」
「なんです」
「その二年、書面はございまして?」
「……は?」
「証文ですわ。減刑の約定書。ご署名は。ご印章は。期限は。不履行のときの違約は」
ドラモンの目が、止まった。
「口約束ですのね」
石の部屋が、静かだった。
「先だって、当店の帳場に、口約束を持ってきた方がおりましたわ。復縁してやろう、と仰いましたの。わたくし、こう申し上げましたのよ。——その口約束、査定額ゼロですわ、と」
「…………」
「男爵。獄中のあなたに、査定を一つ差し上げますわ。無料で」
私は、片眼鏡を着けた。この方に対して、それは礼だ、と思い直したのだ。
「品目、減刑の約束。差出人、不明。書面、なし。担保、なし。期限、なし。不履行の違約、なし。——査定、確定いたしましたわ」
「よ、よさんか」
「査定額、ゼロですわ」
ドラモンの手が、卓の縁を掴んだ。
「あなたは、三十年、王都の美術市場を支配なさいましたわね。没落貴族の本物を二束三文で買い叩いて、贋物に由緒を着せてお売りになった。あなたは、書面の恐ろしさを、王都の誰よりもご存じですわ。だからこそ、五年かけて羊皮紙を古びさせたのでしょう」
私は、卓に身を乗り出した。
「その、あなたが」
「……」
「名も名乗らない男の、口約束を——無担保で、質草にお取りになりましたのね」
ドラモンは、動かなかった。それから、ゆっくりと両手で顔を覆った。石の部屋に、掠れた音が響いた。笑い声だった。しばらくして、それは笑い声ではなくなった。
「……ああ。ああ、そうですなあ」
その方は、顔を覆ったまま、言った。
「あれから、私は……信じておったのですなあ。灰色の男の、一言を。……何も、持たずに来た男の。何も、置いていかなかった男の」
「男爵」
「私は、それを、他人にさせてきたのですよ。三十年。『必ず値上がりします』『必ず本物です』——書面なしで、そう言って。信じた者を、私は、心の底から馬鹿だと思っておった」
ドラモンは、手を下ろした。その顔は、私が見た中で、一番、この方らしい顔だった。信用が破産した男の顔だ。
「……女主人どの。私が知っていることを、申し上げましょう」
ジラール警吏長が、扉の脇で身を固くした。
「第一四四七号は、私の口座でした。十二年前まで」
……あら。
「ある年、通知が来た。『当該口座は、当行の管理へ移す』と。理由は書いていなかった。私は、抗議しなかった。抗議できる筋の口座では、なかったのでね」
「では、その口座は、今——」
「知らん。知らんが、名義を移した男の名は、覚えていますよ。当時は、まだ、頭取ではなかった」
息が、詰まった。
「あの男の名は——」
鉄の扉が、鳴った。
「時間だ」
看守が、立っていた。
「……待て」
ジラール警吏長が、扉に手をかけた。
「まだ四半刻には、早い。私が数えている。あと四半刻の、半分は残っているはずだ」
「上からの指示です、警吏長殿。本日の面会は、ここまでと」
「上とは、どこの上だ」
看守は、答えなかった。答えずに、ドラモンの腕を取った。引き立てられながら、その方は、一度だけ、振り返った。
そして、口を動かした。声は、出さなかった。石の部屋に、看守の靴音だけが響いていた。けれど、私には、読めた。
——お気をつけなさい。
と、その唇は、動いた。
——あの男は、嘘をつきません。
ドラモン男爵、久方ぶりのご来店……いえ、こちらから伺いましたのでした。信用が破産しても、あの方の目だけは、まだ、流れておりませんでしたわ。
次回、第39話『「代理人」——ずいぶん、お行儀のよろしい脅し方ですこと』——
灰色の男を、追いますわ。




