第35話:『お返しいたしますわ。——質庫の値札は、剥がしておきましてよ』
ロラン・ピケは、賢い男だった。
賢い男というのは、負ける場所を選べる男のことである。彼は、絵の前では粘らなかった。粘ったのは、由緒書きの出所についてだった。
「言えば、俺は明日から仕入れができなくなる」
ジラール警吏長は、四角い顔をいっそう四角くして、腕を組んでいた。
「文書偽造は五年だ、ピケ。仕入れができなくなるのと、五年、どちらが長い」
私は、その後ろで黙って絵を見ていた。金の額縁の中で、パン屋の女房が、粉だらけの手で笑っていた。
「……ジェルヴェ、っていう筆耕屋だ」
ピケが、絞り出した。
「南の路地の。羊皮紙は本物の古物を使う。三百年前の紙を、どこからか、いくらでも仕入れてきやがる。俺は注文しただけだ。『三百年前の旧家、三代相続』ってな。三日で、あれが出てきた」
「古い紙を、どこから」
「知るかよ。……ただ、あいつ、こう言ってた。『紙には困らねえ。処分帳の余白は、いくらでもある』」
処分帳。
私は、額縁の縁を指先で撫でた。
——二十年前の秋。四十七点。『破損につき処分』。
あの分厚い革表紙の帳面にも、余白は、たっぷりございましたわね。
「警吏長殿。ジェルヴェの筆耕屋、押さえられまして?」
「令状を取る。……お嬢さん、今、何を考えた」
「まだ、三行揃っておりませんの」
ジラール警吏長は、ふん、と鼻を鳴らした。
「他意はないが。——あんたが『三行揃ってない』と言うときは、たいてい、二行までは揃っている」
「絵は、持っていけ」
ピケは、投げ出すように言った。
「くれてやる。ただでいい。その代わり、由緒書きのことは——」
「頂けませんわ」
「……あ?」
「ただでは、頂きませんの」
私は、片眼鏡を着けた。
「査定、確定いたしましたわ。この絵、金貨四枚」
ピケが、目を剥いた。
「四枚? 六十枚の値をつけた絵だぞ! せめて——」
「六十枚は、ヴァレンヌ様のお値段ですわ。この絵には、ヴァレンヌ様は一筆も入っておりませんもの。四枚は、名もない絵師の値ですの」
私は、帳場から持ってきた革袋を卓に置いた。じゃらり、と鳴った。
「粉の描き方に、四枚。祖母の帳面に、この筆の癖を買う方が六人、名前を残しておりますわ。無名でも、値はつきますのよ。つく値を、つけずに済ませるのは——」
金の額縁を見上げた。
「あなた方のなさっていることと、同じですわ」
ピケは、しばらく、革袋を見ていた。それから、力なく笑った。
「……あんた、ただでもらったほうが、得だろうが」
「ええ」
私は、絵を額から外した。留め具を一つずつ外していく。
「けれど、ただで頂きましたら、この絵はもう一度、『値のないお品』になってしまいますでしょう。それは、質庫が三十数えるうちにしたことと、同じですのよ。……当店、同じことは、いたしませんの」
板になった彼女を、私は布に包んだ。金の額縁は、店に置いてきた。
*
その日の夕方。
ドニさんは、粉だらけの前掛けのまま、店に飛び込んできた。テオが呼びに行ったのである。私は、帳場の絹布の上に、板を置いていた。
ドニさんは、動かなかった。長いこと、そのままだった。
それから、粉だらけの手をそっと伸ばして——途中で止めた。手を前掛けで拭いて、それから、もう一度伸ばした。
粉の手で、粉の手に、触れた。
「……かかあ」
私は、湯呑みを片付けるふりをして、少し奥へ引いた。
「お嬢」
ドニさんの声は、掠れていた。
「いくらだ」
「はい?」
「いくら払った。四枚か、五枚か。俺は、耳が良いんだ。テオ坊が喋ってた」
あら。この弟子は、口も軽うございますこと。
「言えよ、お嬢。もらえねえ。ただでもらったら、俺は——」
ドニさんは、そこで、言葉に詰まった。
ええ。分かっている。
ただでもらったら、あなたは、明日から、この絵の前でパンを焼けない。
私は、質札の綴りを引き寄せた。ペンを取り、書いた。
『三日月堂 預り証
お品物 絵画 一点
お預け主 ラトン街 ドニ方
査定額 ——』
書いて、そこで、ペンを置いた。ドニさんが、覗き込んだ。
「……お嬢。ここ、空いてるぞ」
「ええ。空欄ですわ」
「書けよ」
「書けませんの」
私は、片眼鏡を外した。
「当店、書けないお品は、書かない主義ですのよ」
ドニさんの喉が、鳴った。
「……お、お嬢。それじゃ、商売にならねえだろ」
「なりますわ。利息を頂きますもの」
私は、微笑んだ。
「毎朝、パンを一つ。焼きたてを、一番良いのを。それで元利合計、耳を揃えて頂いたことにいたしますわ。——ああ、それと」
板の裏を、指先で示した。そこには、まだ、白い紙片が糊で貼りついていた。細かい字で、こう印刷されている。
『乙種担保 処分品 整理番号一八七四』
その紙片を、爪の先で丁寧に剥がした。糊の跡が、少しだけ残った。三十年ぶん粉を浴びた板に、真新しい糊の跡が、四角く。
「お返しいたしますわ。——質庫の値札は、剥がしておきましてよ」
*
ドニさんが、彼女を抱えて帰ったあと。店は、静かだった。
その日、当店の商いは、金貨四枚の支出と、パン一つの収入だった。祖母がご覧になったら、なんと仰るかしら。……たぶん、備考欄に何もお書きにならないだろう。
「姐さん」
テオが、帳場の隅で膝を抱えていた。
「一枚は、帰ってきたな」
「ええ」
「……あのさ。処分市って、何点出るんだ?」
私は、答えなかった。答えられなかった、と言うべきかもしれない。
西六番の出張所だけで、乙種の棚は、ぎっしりだった。テオが見たのは、荷車一台。あの出張所は、王都に四つ建つと聞いた。法案が通れば、四十になる。
一枚を帰すのに、私は五日と、金貨四枚と、警吏長殿の令状を使った。
「姐さん」
「なあに」
「うち、潰れんの?」
私は、湯呑みに湯を注いだ。
祖母の、欠けた湯呑みである。この湯呑みだけは、私は、いまだに査定できない。
「テオ。潰れる店というのは、客が来なくなった店ではございませんの」
「じゃあ、なんだよ」
「値打ちの分かる者が、いなくなった店ですわ」
私は、湯呑みを両手で包んだ。
「わたくしは、まだ、ここにおりますわ。——ですから、まだ、潰れておりませんのよ」
*
夜。
マルゴさんが、煙管を咥えて、暖簾をくぐってきた。手に、綴じた紙束を持っている。
「お嬢。頼まれてた、処分市の目録さ。ぜんぶ、写してきた」
「まあ。ありがとう存じます」
「言っとくけどね、あたしゃ帳面は読めるが、目利きはできないよ。……ただ、一つだけ、素人にも妙なのがあった」
マルゴさんは、煙管の先で一行を指した。私は、その行を読んだ。
『目録 第九〇三番 兜 一領 甲種担保 金貨百二十枚』
……あら。
処分市というのは、乙種の——「不良担保」の市だ。売れないから、捨てるように売る市。
そこに、なぜ。
「甲種のお品が、混じっておりますの?」
私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。金貨百二十枚の兜が、なぜ、銅貨八枚の絵と、同じ荷車に載っているのかしら。
本日も、査定にお立ち会いくださいまして。
一枚、帰ってまいりました。五日と、金貨四枚と、警吏長殿の令状を使って、一枚でございます。当店の帳尻は、本日、真っ赤ですわ。
次回、第36話『戦功のない兜には、戦傷もございませんのよ』——
目録第九〇三番を、拝見いたしますわ。
絵が一枚、家に帰ったことを喜んでくださった方へ。☆を一つ、あの夫婦に。




