↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された公爵令嬢は、下町で質屋を継ぎました 〜ところでその婚約指輪、贋物ですわよ?〜  作者: 朝比奈ミナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/75

第34話:『その絵の「来歴」、額縁のほうが余程お若いですわよ』

 ラトン街のパン屋の親父、ドニさんが当店の暖簾をくぐったのは、雨上がりの朝だった。


 手ぶらだった。質屋に手ぶらで来る客は、たいてい、二種類しかいない。金を借りに来た方か、謝りに来た方である。ドニさんは、後者の顔をしていた。


「……お嬢。すまねえ」


「あら。何を謝られますの」


「絵を、質庫に持ってっちまった」


 私は、帳場の湯呑みに手を伸ばしかけて、やめた。


「竈が割れてよ。修理に、どうしても今日中に金貨三枚が要った。パンが焼けなきゃ、明日から商売が止まる。……お嬢んとこに持ってきゃ、ちゃんと見てくれるのは分かってた。分かってたけどよ、お嬢は、ちゃんと見るじゃねえか」


 ちゃんと、見ますわ。三日か、五日か、かけて。


「銀の燭台と、匙の一揃いと——壁の絵と。ありったけ、荷車に積んでった。西の質庫はな、三十数えるうちに、まとめて値をつけやがった。金貨三枚と、銅貨八枚」


 ドニさんは、そこで一度、言葉を切った。


「明細に、こう書いてあった。『絵画一点 乙種担保 銅貨八枚』。……八枚だぜ、お嬢。あの絵に。おまけみてえに、八枚。それでも、今日、竈は直った」


「ドニさん。お顔をお上げになって」


 私は、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。


「それで——あの絵、と仰いますと。店の壁の?」


 ドニさんの顔が、くしゃりと崩れた。


「うちの、かかあの絵だ」


 私は、あの絵を知っている。五ヶ月前、この街に来た日の翌朝、私はパンを買いに行った。銅貨二枚のパンである。店の奥の壁に、額もない板絵が掛かっていた。


 女の人が、ひとり。前掛けをして、粉だらけの手で、笑っている。上手な絵ではなかった。手が大きすぎるし、遠近もおかしい。


 ただ、粉の描き方だけが、異様に良かった。指の背に載った粉が、光っていた。あんなふうに粉を見た人でなければ、あんなふうには描けない。


「三十年前だ。うちの二階に、絵描きが下宿しててな。家賃の代わりに描いてった。あいつも、もう死んだ。名もねえ絵描きだ。値なんかつくもんかと思ってたが……八枚は、まあ、そんなもんだろ」


「ドニさん」


「なんだい」


「あの絵、額に入っておりましたかしら」


「入ってねえよ。板のまんまだ」


 私は、立ち上がった。


「テオ。荷車の行き先、覚えておりまして?」


 テオが、にやりと笑った。この子は、こういうときだけ、元締めのところで育った顔をする。


「王都の南、古物通り。画商だよ。ピケって看板の」


 *


 ロラン・ピケの店は、上等だった。絨毯が厚く、灯りが低く、絵が一点ずつ、ずいぶん離して掛けてある。品数を絞る店は、一点あたりの値が高い店だ。


 その、一番奥。一番良い灯りの下に、彼女はいた。


 金の額縁に入っていた。彫りの深い、立派な額である。

 傍らに、うやうやしく札が立っていた。


『聖女の肖像 ヴァレンヌ工房 三百年前 ——由緒書き添付』

『金貨六十枚』


 パン屋の女房が、聖女様におなりでしたのね。


「お目が高い」


 背後から、油を引いたような声がした。ロラン・ピケ氏。四十がらみの、指輪を四つ嵌めた男である。


「ヴァレンヌ工房の初期作でしてね。長らく地方の旧家に伝わっていたものが、このたび、ようやく市場に出ました。由緒書きもございます。ご覧になりますか」


「拝見いたしますわ」


 由緒書きは、立派だった。羊皮紙。三百年前の伯爵家の名。相続の経緯。三代ぶんの署名。


「立派ですこと」


「でしょう。……失礼ですが、お嬢さん、どちらの?」


「ラトン街の質屋ですわ」


 ピケ氏の顔から、油が引いた。


「下町の。……冷やかしなら、お引き取りを」


「まさか。査定に参りましたのよ」


 私は、鞄から革の手袋を出して、着けた。古い、艶のある革だ。頂き物ですのよ。……お返しは、まだですの。


 私は片眼鏡を着けた。


「査定を、始めますわ」


「第一に、額縁ですわ」


 私は、絵の後ろに手を回した。ピケ氏が「あっ」と言ったが、私はもう、裏を見ていた。


「裏板の釘穴が、一つ。ただの一つですわ。——ピケさん。三百年、旧家に伝わったお品でしたら、額は何度お替えになりまして?」


「そ、それは、家によって」


「三百年ですのよ。虫も食えば、金箔も剥げますわ。三度は替えますわね。替えれば、そのたびに新しい穴が開きますの。この絵には、一つしかございませんわ。——この絵、生まれて初めて額に入りましたのよ。つい先日、この店で」


 額の角を指先で撫でた。


「それに、この額。彫りの底に、まだ粉が残っておりますわ。彫りたてですのよ。絵の来歴が三百年で、額縁が今年の漉きたて。……その『来歴』、額縁のほうが余程お若いですわよ」


「額を替えて何が悪い!」


「悪くございませんわ。悪いのは、二つ目ですの」


「第二に、板ですわ。この裏板、もみですわね。三百年前のヴァレンヌ工房は、樫を使いますのよ。祖母の帳面に、工房の材の癖が書いてございますわ。……もっとも、これは工房の話。この絵の話ではございませんわね」


「な、なら——」


「ええ。この絵は、三百年前のものではございませんもの。三十年前の絵ですわ」


 ピケ氏が、黙った。


「第三に、署名ですわ」


 私は、絵の右下に、片眼鏡を寄せた。小さな、掠れた文字。『ヴァレンヌ』。


「絵の具というものは、乾いてから、細かいひびが入りますの。三十年も経てば、髪の毛ほどの皹が、全体に走りますわ。ここにも、ちゃんと入っておりますのよ。……ピケさん。この署名の線を、ご覧になって」


 身を引いて、灯りを通した。


「皹の、上を跨いでおりますわ」


 灯りの中で、誰も動かなかった。


「皹は、乾いてから入りますの。署名が皹の上に乗っているということは、皹が入ったあとで書かれた、ということですわ。——三百年前の巨匠が、三十年前の皹を跨いで、ご署名なさいましたのね。ずいぶん、気の長い方ですこと」


「査定、確定いたしましたわ」


 私は、片眼鏡を外した。


「絵、本物。三十年前の、無名の絵師の手。良い絵ですわ。粉の光り方が、他の誰にも描けませんもの」


「由緒書き、贋物。羊皮紙は古うございますけれど、墨が浮いておりますわ。古い紙に新しい墨を載せると、こう沈みませんの。三代ぶんの署名、筆圧の癖が、三つとも同じ。ご先祖様が三代、そっくり同じ握り方をなさいましたのね」


「署名、贋物。以上、三行ですわ」


 札を指した。金貨六十枚の札を。


「この絵の値打ちは、金貨六十枚ではございませんわ。……もっとも、銅貨八枚でも、ございませんけれど」


「な、なんの権利があって——」


「権利?」


 あら。良いところに、お気づきになった。


「ピケさん。あなた、この絵を、どちらでお仕入れになりまして?」


 ピケ氏の目が、泳いだ。泳いで、それから、開き直った。開き直った男の顔ほど、正直なものはございませんの。


「……質庫だ」


 私は、微笑んだままでいた。たぶん、微笑んだままでいたと思う。


「王立中央質庫の、不良担保の処分市さ。乙種の棚から出た品を、まとめてりにかける。俺は札を入れて、正規に落としただけだ。何も悪いことはしちゃいない。国が売った品を、国の許しで買ったんだ」


 ピケ氏は、指輪の光る手を広げた。


「文句があるなら、質庫に言いな。——うちは、質庫から仕入れただけだぜ」

聖女様の正体は、パン屋の女房でございました。三十を数えるうちに銅貨八枚、六十日のうちに金貨六十枚。……ずいぶん、利息のよろしい蔵ですこと。


次回、第35話『お返しいたしますわ。——質庫の値札は、剥がしておきましてよ』——

かかあを、家に帰しますわ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。