第33話:『査定表四十一番——その数式、未亡人の十年を銅貨五枚と申しますわ』
王都西、六番通り。
白い漆喰の、大きな建物ができていた。看板は出ていない。看板の代わりに、彫りの深い文字が、石の壁そのものに刻まれている。
『王立中央質庫 西六番出張所』
その前に、人が並んでいた。
ざっと、七十人。下町の質屋の朝の客が、七十人並ぶことは、ない。
「……姐さん。すげえ列」
「ええ」
私とテオは、外套の襟を立てて、その最後尾に並んだ。付け襟も外し、片眼鏡も懐にしまってある。本日は、ただの客ですわ。列は、驚くほど速く進んだ。
*
中は、明るかった。
窓が大きく、灯りが惜しみなく点いていて、床は磨いた石。壁際に長椅子。番号札を渡され、番号を呼ばれたら窓口へ行く。そういう仕組みらしい。
質屋の店先の、あの薄暗さがない。私は、あの薄暗さを、客の恥を隠すためのものだと思ってきた。品物を手放しに来る人の顔が、よく見えないほうがいい。祖母の店が暗いのは、そういう暗さだ。
ここは、明るい。恥じることなど何もない、という顔で、明るい。
……上手ですこと。
窓口には、若い役人が三人。品物を受け取り、秤に載せ、綴じた表を繰り、算盤を弾く。三十を数えるうちに、値が出た。
速い。
速さというものが、これほど人の顔をほどけさせるとは、私は知らなかった。値を告げられた男が、へえ、と間の抜けた声を出して、その場で金を受け取り、五十を数えるうちに扉から出ていく。恥をかく暇も、迷う暇もない。
「四十七番の方」
私の前に並んでいた老女が、立ち上がった。
小さな布包みを、大事そうに両手で持っている。あの持ち方には、覚えがあった。この五ヶ月、当店の帳場で、幾度も見た持ち方だ。
包みが解かれた。銀の指輪が一つ。細い。石はない。彫りが、少し潰れている。長く嵌めていた指輪の潰れ方だった。
「亭主の、形見でして」
と、老女は言った。誰も聞いていないのに、言った。皆さん、そうなさるのだ。品物の値打ちが足りないぶんを、言葉で足そうとなさる。
若い役人は、感じの良い声で答えた。
「拝見します。——銀、無石、四匁。年代、五十年ほど。状態、可。……分類は、乙種担保。査定表四十一番ですね」
算盤が、ぱちり、と鳴った。一度だけ。
「銅貨五枚です」
私は、動かなかった。
腹は、立たなかった。ただ、この算式が、この方の十年を——いいえ。亭主が生きていた歳月まで数えれば、四十年を、銅貨五枚と査定したことを、私は帳面に書き留めた。
五ヶ月前。ガロ商会の、あの金ぴかの帳場で。
私は、これによく似た指輪に、これによく似た値がつくのを見た。
あのときの値札は、違法だった。書式を偽り、利率を書き換え、期限を早めて、老いた女から形見を取り上げる、真っ黒な値札。私はそれを剥がした。剥がして、指輪を返して、算盤を一つ弾いた。
今日の値札は、合法だ。
書式は完璧。利率は零。期限もない。買い取りだもの。
——数字は、同じ。
「……あの」
老女が、口を開いた。
私は、息を止めた。テオが、私の袖を掴んだ。テオの手は、震えていた。この子は、下町の子だもの。この先に何が起きるか、知っている。老女が、泣くか、怒るか、縋るか。三日月堂の帳場なら、そこから商いが始まる。
老女は、言った。
「そんなに、早く出るんですか」
「はい。当庫は即金です。お待たせしません」
「……ああ。助かるねえ」
老女は、銅貨五枚を受け取った。
布に包み、懐に入れ、指輪の載った盆に向かって、ちょっとだけ頭を下げた。それから、明るい床を、まっすぐ歩いて出ていった。
泣かなかった。
振り返りもしなかった。
「今日中に、薬代が要ったんだろうな」
テオが、掠れた声で言った。
「……あの婆さん、今日中に、金が要ったんだ。三日待てねえんだよ。姐さんとこなら、指輪は残ったかもしれねえけどさ。姐さん、三日はかかるじゃん。調べるから」
言葉が、出なかった。
「なんで止めなかったんだよ、姐さん」
「……あの方は」
喉の奥が、少し、渇いていた。
「お困りでは、ございませんでしたもの」
「五十一番の方」
私の番だった。
私は、卓に、燭台を置いた。昨日、講堂の壇上に置いたのと同じ、写しのほうである。若い役人は、感じの良い顔で受け取り、秤に載せ、表を繰った。
「銀、百二十年、四十八匁、状態良——甲種担保。金貨十二枚です」
「あら。よろしいの?」
「はい?」
「そちら、写しですわ。銅に銀を着せたお品ですの。継ぎ目に、ほら。三日月の——」
若い役人は、燭台を持ち上げ、素直に継ぎ目を覗き込んだ。それから、心底、不思議そうな顔をした。
「……そういう欄が、表にないんです」
「ええ」
「あの、お客様。うちは、表のとおりに出すのが仕事でして。俺の見立てを混ぜたら、それは……勘になっちゃうので」
この方は、悪くない。
この方は、真面目で、丁寧で、明るい床にふさわしい、良い役人だ。
この方の目には、一生、三日月が見えない。見えないほうが、正しい仕事なのだから。
「四十一番」
背後で、声がした。
振り向くと、灰色の髪の方が、柱のそばに立っていた。従者も連れず、ひとりで。いつからそこにいらしたのか、私には分からなかった。
「乙種担保、装身具、無石。掛目一割。——ヴィオレッタ殿。あの指輪に、あなたなら、いくらつけました」
「金貨二枚と、銀貨四枚ですわ」
私は、即答した。
「彫りの潰れ方は五十年ぶん。あれは五十年前の、南街の親方の手ですの。もう工房はございませんわ。あの潰れた彫りを買う方が、王都に六人おいでですのよ。祖母の帳面に、名前がございますもの」
グランヴィル氏は、少し、目を伏せた。
「……見事です」
「では」
「では、その六人を探すのに、何日かかります」
私は、黙った。
「三日ですか。五日ですか。あの方は、今日、薬代が要った。——ヴィオレッタ殿。あなたの査定は、私の査定より正しい。それは認めます。何度でも認めましょう。ただ、あなたの正しさは」
その方は、明るい床を見渡した。七十人の、恥をかかずに済んだ人々を。
「遅い」
*
外に出ると、雨が降りそうな匂いがした。
帰り道、下町の質屋の前を、いくつも通った。どこも、店先に人がいなかった。西六番の列に、七十人並んでいたぶん、どこかの店先から、七十人が消えている。
三日月堂の暖簾も、雨風に、ゆっくり揺れていた。誰も、くぐっていなかった。
「姐さん」
「なあに」
「俺さ、あの婆さんの指輪、あそこの棚に載ってるとこ、見たんだ。窓口の裏。……乙種担保の棚って書いてあった。銅貨五枚のやつが、ぎっしり」
私は、足を止めた。
「テオ。あなた、どこまで見ましたの」
「裏口から、荷車が出てった。乙種の棚から、箱に移して」
テオは、下町の子の目で、私を見上げた。
「不良担保って、捨てるもんなんだろ? なんで、荷車で運ぶんだよ」
*
その夜、王都中に触れ書きが回った。
『王立中央質庫設置法案 貴族院へ上程』
私は、帳場で、その紙を長いこと眺めていた。それから、算盤を引き寄せて——弾かなかった。まだ、三行、揃っておりませんもの。
本日は、当店、一件も商いがございませんでした。
悪い方が悪いことをなさるのは、当店の得手ですのよ。困りましたわ。今度のお相手は、正しくて、速い。
次回、第34話『その絵の「来歴」、額縁のほうが余程お若いですわよ』——
荷車の行き先を、追いかけますわ。
正しくて速いお相手ほど怖い——そう思ってくださった方は、☆をひとつ。




