第31話:『この香水瓶、王宮の帳面では二十年前に「処分済み」ですわ』
三日月堂、本日も開店しております。
第2部「王都贋作網編」、開店の鈴でございますわ。
本日のお品物は——先王妃様の、銀の香水瓶。
銀は、正直な金属である。
曇るときは曇り、痩せるときは痩せる。嘘をつくとしたら、それは銀ではなく、銀に触れた人間のほうだ。
閉店の札を下ろした帳場で、私は片眼鏡を着け、絹布の上の小さな瓶を三度、角度を変えて眺めた。
黒い外套の主は、卓の向こうで、身じろぎもしない。
「——査定、確定いたしましたわ」
「聞こう」
ルシアン殿下の声は、低かった。母君の形見が写しであってほしくない気持ちと、写しであってほしい気持ちが、たぶん、半分ずつある。写しなら、王宮の蔵はまだ浅い。本物なら、この方の調べはここで終わってしまう。
どちらであっても、私の申し上げることは変わりませんけれど。
「第一に、目方ですわ。銀の含みが九割二分。王家御用達の銀は、この含みですの。写しは、必ずここを落としますわ。落とさなければ、儲けが出ませんもの」
「第二に、肩の摩耗。三十年ぶん使われたお品の擦れが、指の当たる場所にだけ、正しく出ておりますわ。写しは擦れも写しますけれど、擦れていない場所まで均して薄くしてしまいますの。使わない場所は、擦れない。当たり前のことが、写しには写せませんのよ」
「第三に、蓋ですわ。——殿下。開けても?」
「……ああ」
小さな音がした。ちり、と。
「噛み合わせが、ここだけ半分ずれて止まりますわ。落として、直した跡ですの。直したのは、王宮の御用職人ではございませんわね。手が、優しすぎますもの。……たぶん、御自分でお直しになった方がいらっしゃいますのよ。落として、慌てて、蓋だけそっと」
殿下が、息を吸う気配がした。
「本物ですわ。先王妃様の、御手元にあったお品。——お母上様の形見に、間違いございません」
しばらく、店の中には、外の風の音しかなかった。
「……そうか」
それだけだった。それだけ言って、殿下は香水瓶に手を伸ばし、蓋の合わせ目を、指の腹でそっと撫でた。
私は帳場の算盤を引き寄せ、ぱちん、と一つ弾いた。査定の終わりの音である。それ以上のことは、この店では申し上げない。値段をつけないお品というものが、世の中には確かにございますので。
「良い目だ」
殿下は、いつもの言葉を言った。ただ、いつもより少し、掠れていた。
——そこで終われば、良い夜でございましたのに。
「殿下。ひとつだけ、伺ってもよろしくて?」
私は、香水瓶を裏返し、底を灯りに近づけた。剣と星の略紋。その脇に、私の小指の爪より小さな、打刻の数字。
「これ、宝物院の棚番ですわね。お品物が、王宮の蔵の棚に載っていた証ですの。——この棚番のお品が、宝物院の出納帳に、どう書かれているか。お調べになれますかしら」
「造作もない。だが、なぜだ。本物と確かめたばかりだろう」
「ええ。お品物のほうは、確かめましたわ」
私は片眼鏡を外した。
「まだ、帳面を確かめておりませんの」
*
三日後。宝物院の資料室は、相変わらず紙とインクと古い革の匂いがした。
書記官殿が抱えてきたのは、革表紙の分厚い出納帳である。頁を繰る指が、途中で止まった。止まったまま、動かなくなった。
「……如何なさいまして?」
「いえ、あの……棚番は、確かにございました。ございましたが」
書記官殿は、卓の上に帳面を開いて、私たちのほうへ向けた。その行に、こう書かれていた。
『銀製香水瓶 一点 破損につき処分』
日付は、二十年前の秋である。
「殿下」
声が、少し低くなった。
「先王妃様が身罷られましたのは、十二年前と伺っておりますわ」
「……ああ」
「では、このお品は、処分されてから八年のあいだ、亡くなった方の御手元で、香水を入れていたことになりますわね。ずいぶん、働き者の破片ですこと」
殿下は、答えなかった。ただ、帳面の一点を見ていた。
「お品物は、嘘をつきませんわ、殿下。この香水瓶は、王宮の棚に載って、先王妃様の指で撫でられて、形見分けであなたの手に渡りましたの。全部、本当ですわ。——嘘をついたのは」
私は、革表紙を指先で、軽く叩いた。
「帳面のほうですわね」
その日の「処分」の頁を、私は最後まで読ませていただいた。同じ日付。同じ筆跡。『破損につき処分』——四十七点。
「書記官殿。お尋ねしますわ。お品が本当に壊れましたら、蔵はどう始末なさいますの?」
「は、はい。破損品は鋳潰しに回します。金銀は地金に戻して再登録、宝玉は外して別台帳へ。……その、鋳潰しの受領書が、必ず綴じられるはずでして」
「その受領書は?」
書記官殿は、震える指で、綴じ紐の先を探した。探して、探して、顔を上げた。
「……四十七点ぶん、ございません」
四十七点が、まとめて壊れた日がある。そして、その破片を、誰も受け取っていない。
「二十年前」
殿下が、ようやく口を開いた。
「私は、七つだ。母の瓶が『壊れた』ことになっていた頃……母はまだ、それを持っていた。私が落として、母が直したのだからな」
直したのは、お母上様ではございませんでしたのね。
殿下の指が、香水瓶の蓋の、あの半分ずれた合わせ目に触れた。
「二十年、私は、この蔵の総裁の椅子に座る家の人間として、生きてきた。その二十年、蔵は毎年きちんと『帳尻が合っている』と報告してきた。——合っていたわけだ。四十七点、壊したことにすればな」
「殿下」
「言うな。……いや、言ってくれ。あなたなら、なんと査定する」
私は、少し考えて、申し上げた。
「まだ、いたしませんわ」
「……ほう」
「四十七点の行方も、書いた者の名も、まだ物証がございませんの。三行、揃っておりませんわ。揃わないうちに値をつけるのは、算式でお品を計るのと同じことですもの」
言ってから、私は、自分の言葉に少し引っかかった。
算式。
なぜ今、そんな言葉が出たのかしら。
*
店に戻ると、テオが帳場の前で、大きな封筒を両手で持って待っていた。
「姐さん、なんか役所からでっけえの来てるよ。蝋の判が二つも押してある。俺、悪いことしてないからな」
「あなたの手癖の話は、また今度いたしましょうね」
封を切る。厚い紙。上等な墨。表題に、見慣れない役所の名があった。
『王立中央質庫 設立準備委員会』
中は、調査票だった。王都の質商に、営業の実態を答えさせるものらしい。貸付高、質草の点数、流質の割合。ここまでは、まあ、お役所の好みそうな設問ですわ。
問題は、最後の一問だった。
『問十七 貴店の査定は、いかなる算式に基づくか。算式を記載せよ』
……算式?
「マルゴさんのところにも、同じものが?」
「西の通りの質屋にも、全部来てるってさ。爺さんたち、何書きゃいいんだって頭抱えてた。『長年の勘』じゃ駄目なのかって」
私は、その一行を、もう一度読んだ。算式で、値打ちが出る。品物を見ずに、数字を入れれば、値が出る。便利な蔵が、もう一つ、建とうとしているらしい。
窓の外、下町の屋根の上に、細い月が昇っていた。私は封筒を帳場に置き、片眼鏡の鎖を、ちり、と鳴らした。
「……テオ。明日は、少し良い外套を出してくださいまし」
「なんで?」
「お役所が、算式のご講義をしてくださるそうですのよ。——生徒として、伺いますわ」
第2部、開店でございます。母上様の形見は本物、けれど帳面は贋物。王宮の蔵の話は、まだ静かに寝かせておきますわ。
次回、第32話『庶民の形見を「不良担保」と、そうお呼びになりますのね』——
新しいお客様は、算式を持っておいでですわ。
第2部からも、また一緒に帳場へ座ってくださる方は、ブックマークを一つ。




