第24話:『この三日月の継ぎ目は、職人の「署名」ですわ』
宝物院の資料室は、紙とインクと古い革の匂いがした。
卓の上には、二組の記録。北の工房の押収品三十一点の調書と、メルローズ家の贋作三十七点の鑑定書。
「——同一の手だ。間違いなく」
検分を終えた殿下が、断じた。
「鏨の運び、銀蝋の流し、古色の重ね方。何より、この三日月の刻印。位置も深さも、定規で測ったように揃っている。……これほどの腕は、王都広しといえど、そうはいない。いないはずなのに、名前が出てこない」
「ええ。それが、ずっと引っかかっておりますの」
これほどの仕事をする職人なら、表の世界で名声を取れたはずだ。なのに三十年、闇で写しを作り続けた。なぜ。
「殿下。宝物院の名簿で、調べていただきたい名前の条件がございますわ。三十年以上前に宮廷工房に在籍し、その後、記録から消えた金工師。特に——メルローズ公爵家にお抱えの職人がいたか」
「公爵家? なぜそこに絞る」
「贋作三十七点は、十年かけて少しずつ蔵に納められましたわ。家人の誰にも気取られずに、です。それには本歌を熟知している必要がございますの。寸法、傷、癖——かつて、その品々を自分の手で手入れした者なら、誰よりも正確な写しが作れますわ」
半刻後、書記官殿が、埃を被った古い名簿を抱えてきた。
「……ありました。三十二年前の宮廷工房名簿。金工部、首席職人——ジョスラン・ミレー。経歴の欄に『メルローズ公爵家出入り』。そして三十年前の名簿から、名前が消えています。除籍理由は——」
書記官殿は、そこで言い淀んだ。
「『贋作の制作に関与した咎により、職人鑑札を永久剥奪』」
贋作の咎で、職を追われた職人が。その後三十年、贋作だけを作り続けている。
「……除籍記録の詳細は?」
「それが、妙なのです。剥奪の根拠となった品も、訴えた者の名も、綴りから抜き取られています。残っているのは処分の結論だけ。それと——当時の調書の隅に、参考人として聴取された者の名が一人」
書記官殿は、その行を私に向けた。
『参考人 ラトン街質商 エルマ・クロッシュ』
*
帰りの馬車の中で、私はずっと、裏台帳の文字を思い出していた。
『例の職人の手』。『例の職人』。——三十年間、祖母は彼の仕事を追い続けながら、一度も名前を書かなかった。
そして三十二年前、彼が職を失った裁きの場に、祖母は参考人として立っていた。
「……姐さん」
向かいの席で、テオがぽつりと言った。
「ばあちゃんがさ、贋物の判定で、誰かの人生を終わらせたことがあるんだとしたら……それって、どんな気持ちだったんだろうな」
まったく、この弟子の目は、よく利く。品物ではないものまで、見えてしまうらしい。
「……お祖母様の備考欄は、いつも素っ気ないんですのよ」
貸付台帳も、裏台帳も、淡々と数字と事実だけ。ただ一箇所、ボナール氏への頁にだけ『困った時はお互い様』と書いた人だ。書かない、ということが、あの人の一番雄弁な備考欄だったのかもしれない。
「テオ。ひとつだけ、確かなことがございますわ。お祖母様は彼の写しを三十年、追い続けました。警吏に売るためなら、三十年も要りませんの。記録だけして、売らなかった。それは——」
「……待ってた、とか?」
「さあ。それを確かめられる方は、もう、お一人しかおりませんわね」
ジョスラン・ミレー。
北の工房は押さえられたが、職人本人は、臨検の網にかかっていない。鴉のジェスパーも、男爵の捕縛と前後して、塒を畳んで消えた。
*
店に戻ると、ジラール警吏長が、四角い顔をいっそう四角くして待っていた。
「動きがあった。収監中のドラモンが、取り調べで取引を持ちかけてきた。『贋作の注文主の名を吐く。代わりに、罪一等の減刑を』とな」
「あら。それで、注文主の名は」
「それが……検事局が取引に乗る寸前で、横槍が入った。さる筋から『公爵家の醜聞に関わる供述は、貴族院の予審を通せ』と。手続きが、ひと月は止まる」
さる筋。
夫の名で、貴族院の旧知を動かしたのだろう。あの完璧な絹の微笑の下で、川の水位は、堤を越える寸前まで来ている。
「……時間稼ぎ、ですわね。その、ひと月の間に」
「ああ。証拠と証人を、消す気だろう」
証拠は、宝物院の金庫の中。手は出せまい。
ならば、消される側の筆頭は——
私は、帳場の台帳を開いた。四月前の、あの夜の頁。
名義人、アンナ・モロー。
「警吏長殿。人手をお借りしますわ。急ぎ、守りたい証人がおりますの」
写し師の名前に、たどり着きました。祖母の沈黙の意味は、まだ、これからですわ。
職人の署名は、お名前ではございませんのよ。手の癖ですわ。
次回、第25話『横流しの記録は、十年前から始まっておりましたのね』——
川が、堤を越える前に。




