第18話:『テオ。あなたの目は、盗むためでなく見抜くためにありますのよ』
テオが市場の使いから戻らない。
いつもなら半刻の道のりを、一刻半。胸騒ぎがして店を出ようとしたとき、路地の奥から、聞き慣れた足音が——二人分の、知らない足音を連れて、戻ってきた。
「……姐さん。ごめん。ついてきちまった」
テオの顔は、紙のように白かった。
後ろに立つのは、鳥のように痩せた老人と、用心棒風の大男。老人は山高帽を上げ、欠けた歯で笑った。
「これはこれは、噂の女主人さん。あっしは古物の仲買をしております、しがない年寄りで。ジェスパーと申しやす」
鴉のジェスパー。
テオの、元・元締め。
「本日はね、貸金の取り立てに参りました。そこのテオ坊は、あっしの組の備品でしてね。育て賃、飯代、寝床代——しめて金貨三十枚。坊が黙って消えたんで、利息が膨れて、今じゃ五十枚。払えねえなら、体で返してもらうのが筋ってもんで」
「あら。債権のお話でしたら、当店の得意分野ですわ」
私は帳場に着き、台帳を開いた。
「では手続きを。証文を拝見いたしますわ」
「……しょうもん?」
「貸金の取り立てには、貸付の証文が必要ですの。金額、日付、利率、借り主の署名。王国債権法の基本ですわ。まさか金貨五十枚もの債権を、口約束でお持ちのはずございませんわよね?」
ジェスパーの笑みが、いやらしく深くなった。
「へっへ。お貴族様の出は、これだから。下町の貸し借りに紙なんざありゃしません。あるのは義理と、拳と、年月でさあ。なあ、テオ坊。お前の口から言ってやんな。誰に飯を食わせてもらった?」
テオの拳が、固く固く、握られた。
言い返せないのだ。事実、食わせてもらったのだろう。盗みを教えられ、盗ませられ、その上前を撥ねられながら——それでも、飢えた日に飯をくれた手を、この子は「恩」の側に綴じてしまっている。
だから、ここは雇い主の出番ですの。
「証文が無い、と。結構ですわ。ではこちらの証文のお話をいたしましょうね」
私は、祖母の貸付台帳を開いた。
昨夜のうちに、見つけてあった頁を。
「読み上げますわ。『四年前、霜月。ジェスパーへ。テオの身請け金として、金貨四十枚。受領の証として、本人の爪印。備考——以後、この子に指一本、債権一文、残さぬこと。違えた場合、過去十二年分の故買の記録を、警吏に開示する』」
店の空気が、凍りついた。
ジェスパーの欠けた歯の間から、ひゅう、と息が漏れる。
「……ば、馬鹿な。あの婆あ、死んだはずだ。死んだら、紙も死ぬんだ……」
「あら、ご存じありませんの? 帳面は、相続されますのよ」
私は頁を、彼によく見えるように向けた。隅には、煤けた小さな爪印。
「あなたはこの爪印と引き換えに、金貨四十枚をお受け取りになった。つまりテオの『育て賃』とやらは、四年前に完済済み。その上で本日、存在しない債権を口実に当店の従業員を連れ回した。これは取り立てではなく人攫いの未遂と申しますの。——ジラール警吏長に文を出すのと、お引き取りいただくのと、どちらがお好みかしら」
ジェスパーは、台帳と私とテオを順に睨み、最後に、ぺっと唾を吐いた。
「……けっ。婆あといい孫といい、紙ばっかり貯めこみやがって。紙が、北の工房を守ってくれるといいがなあ?」
捨て台詞だけ残して、鴉は路地に消えた。
最後のひと言は、忘れずに帳面へ記録しておく。『北の工房』への関与を、ご本人がお認めになった瞬間として。
*
「————ごめん」
店じまいの後、テオは床を見たまま、絞り出した。
「俺、四年前に身請けされてたなんて、知らなかった。ばあちゃん、何も言わねえから……俺、ずっと、自分は逃げた『借りのある奴』だと思ってて。だから、今日もあいつに何も言い返せなくて……姐さんに、また守られて……っ、俺、いっつも、守られてばっかで……!」
「テオ」
私はしゃがんで、俯いた顔を覗き込んだ。
「お祖母様が、なぜ身請けのことを黙っていたか、分かりまして?」
「……わかんねえよ」
「あなたに、借りを背負わせないためですわ。『身請けされた』と知れば、あなたはお祖母様に四十枚の借りを感じて生きることになる。盗みの元締めへの偽の借りから外して、本物の恩という借りに付け替えるだけでは、あの方の帳簿は釣り合いませんの。——だから、黙って、ただの見張り番の少年として置いてくださった。あなたが、誰の借りも背負わず、自分の足で立てるように」
テオの目から、ぼろりと大粒の涙が落ちた。
「それでもまだ、借りた気がして眠れないのでしたら——いい返し方がございましてよ」
私は、彼の頭に手を置いた。
「あなたの目は、盗むためでなく、見抜くためにありますのよ。北の工房の倉庫、あなたが運ばされた品を、あなたの目と記憶で特定なさい。盗ませた連中の悪事を、盗まされた子の目が暴く。——これ以上の返済が、この世にございまして?」
テオは、洟を盛大にすすって、顔を上げた。
猫のような目に、もう怯えはなかった。
「……ある分、全部、思い出す。木箱の数も、焼き印も、運んだ日付も。全部だ」
お読みいただき、ありがとうございます。
当店の見習い、本日づけで「証人」を兼務いたします。
次回、第19話『競売の壇上ほど、査定に向いた舞台はございませんわ』——
決戦前夜。仕込みの総仕上げですわ。
ブックマークと評価(☆☆☆☆☆)は、当店の暖簾への何よりの『出資』ですわ。
利息は次話で、必ずお返しいたします。




