第14話:『値札のない棚の品は、どなたにも売りませんの』
明朝、店を開けずにお待ちいただきたい。
言付けどおり、暖簾は出さなかった。出さなかったのに——夜明けから、店の前に人が並び始めた。
「マルゴさん。これは、どういう人だかりですの」
「見りゃ分かるだろ」女将は煙管をふかして、にやりと笑った。「お客だよ」
ポレットさんは、繕い終えた半纏を三枚。油問屋のご隠居は、土産だと言って胡桃の袋。指物師は「直すところはないか」と道具箱ごと。若い母親は、芋の煮っころがしの鍋。
誰も彼も、質草でもないものを抱えて、閉まった店の前に立っている。
「あのね、お嬢。下町じゃ、鑑札ってのはお上の紙のことでね。店ってのは、人が集まる場所のことを言うんだ。あんたの店は、紙は失くしたが、場所は失くしちゃいないよ」
……まったく。
この街の人々は、査定泣かせだ。値段のつけられないものばかり、抱えてくるのだから。
*
精算の準備は、午前のうちに大半が片づいた。預かり質草は、台帳と突き合わせて一点ずつ磨き、返却の包みにする。
その途中で、テオが蔵の奥から声を上げた。
「姐さーん、この棚のやつも精算すんの? 値札、ついてないけど」
北側の壁、裏台帳の棚の隣。
古い飾り棚に、品物が十数点、静かに並んでいた。欠けた湯呑み。子供用の木靴。色褪せた組紐。古い指輪の空箱に——小さな絹張りの小箱がひとつ。
値札は、ひとつもない。
代わりに、品物の下に小さな紙片が敷かれ、祖母の字で名前だけが書いてある。
「それは、精算いたしませんわ。売らない棚ですもの」
「売らない棚?」
「質屋の蔵にはね、テオ、ふた種類の品がありますの。値段で預かった品と——約束で預かった品。これは後のほう。流質の期限が切れても、お祖母様が流さずに取っておいた品々ですわ。いつか持ち主が、あるいは持ち主の子や孫が、買い戻しに来る日のために」
欠けた湯呑みの下の紙片には、私の母の名前があった。
母が娘時代に使っていた湯呑みだろう。公爵家に嫁ぐ日、置いていったのだろうか。祖母はそれを、捨てずに、売らずに、棚に置き続けた。
「……これも、いつか誰かが買い戻しに来るの?」
「いいえ。これはもう、買い戻されましたわ」
私は湯呑みを、そっと棚の奥へ押し込んだ。
「わたくしが帰ってきましたもの。お代は、暖簾の続きで払いますの」
絹張りの小箱には、触れなかった。
中を検めるのは簡単だ。けれど、紙片の名前が——『ヴィオレッタへ。まだ早い』とあったのだ。まだ早い、と書く以上、開くべき日があるのだろう。お祖母様のなさることに、雑な伏線はない。それが質屋の台帳というものだ。
*
午後。
人だかりがふいに、左右に割れた。
石畳を鳴らして、馬車が一台、店の前に停まる。
黒塗りの車体。飾り気はない。けれど扉に刻まれた紋章を見て、ご隠居が腰を抜かし、マルゴさんの煙管が口から落ちた。
剣と、星。
——王家の略紋。
「な、なあ姐さん……あれって、あれって……」
「ええ。最近、別の場所で見た意匠ですわね」
彫り消される前の姿で、ですけれど。
馬車の扉が開く。
降り立ったのは、見慣れた黒い外套——ではなかった。深い青の正装に、銀の飾緒。胸には剣と星と天秤を組み合わせた、見たこともない徽章。
けれど、その所作を、私の目が忘れるはずもない。
敷居をまたぐときの、磨かれた足の運び。
「……開店前に押しかける無礼を、まずお詫びしよう」
常連客の声で、その人は言った。
下町じゅうの視線が集まる中、彼は私の前に立ち、これまでで一番ていねいに、頭を下げた。
「名乗りが遅れたことも、合わせて」
お読みいただき、ありがとうございます。
売らない棚の絹の小箱は……ええ、わたくしも気になっておりますの。ですが「まだ早い」そうですわ。
次回、第15話『王立宝物院総裁・ルシアン・ド・アルディス。——この店の目は、本物だ』——
黒外套のお客様の、正札が明かされます。
ブックマークと評価(☆☆☆☆☆)は、当店の暖簾への何よりの『出資』ですわ。
利息は次話で、必ずお返しいたします。




