第6話 学院まで来なさい
第6話 学院まで来なさい
学院まで来なさい。
そう言い残して歩き出したセリアの背中を、レイはしばらく呆然と見ていた。
銀色の髪が、森を抜ける風に揺れている。
制服は土と枝葉で汚れ、袖口には薄く血が滲んでいた。それでも背筋は伸びていて、振り返る気配すらない。
さっきまで上位個体の魔物に追い詰められていたとは思えないほど、その足取りに迷いはなかった。
「……今から?」
ようやく出た声は、情けないほど間の抜けたものだった。
セリアは足を止め、振り返らずに答える。
「当然でしょう」
「俺、さっき倒れたばかりなんだけど」
「歩けないの?」
「歩けるけど」
「なら来なさい」
「厳しいな」
「あなたに優しくする理由がある?」
セリアはそこで、ちらりとレイを見た。
まだ顔が赤い。
怒りもある。
恥ずかしさもある。
その視線が一瞬だけ自分の胸元へ向かったのを見て、レイは慌てて両手を上げた。
「本当に事故だった」
「今その話を続ける気?」
「いいえ。黙ります」
「よろしい」
レイは小さく息を吐き、ゆっくりと立ち上がった。
左腕に力を入れた瞬間、皮膚の下を針で刺されたような痛みが走る。
「っ……」
声を飲み込んだつもりだった。
けれど、セリアの耳はそれを拾っていた。
「……本当に歩けるの?」
「歩ける」
「無理してない?」
「少しだけ」
「少し?」
「結構」
「最初からそう言いなさい」
セリアは呆れたように言って、歩く速度を落とした。
きつい言葉とは裏腹に、歩幅は明らかにレイへ合わせられていた。
それに気づいてしまうと、少しだけ居心地が悪かった。
二人は森の中を歩き出した。
さっきまで戦いの音で満ちていた訓練区域は、今は妙に静かだった。
折れた木々。
焦げた土。
砕けた岩。
そこかしこに、戦闘の痕が残っている。
セリアは何度か振り返りそうになり、そのたびに前を向いた。
聞きたいことは山ほどある。
だが、今問い詰めても、この少年はきっとはぐらかす。
それに。
セリアは横目でレイの左腕を見た。
赤黒い線は、さっきより薄くなっている。
けれど完全には消えていない。
あの紋様は、何だ。
普通の魔法文字ではない。
学院で教わる属性紋でも、契約紋でも、強化術式でもない。
雷のようで、呪いのようで、命そのものを無理やり縫い止めているような不気味さがあった。
「ねえ」
「何?」
「その腕」
「見なかったことにしてくれると助かる」
「無理ね」
「だよな」
レイは困ったように笑った。
その笑い方が、セリアには少し腹立たしかった。
痛いなら痛いと言えばいい。
苦しいなら苦しいと言えばいい。
なのにこの少年は、何でもないような顔で隠そうとする。
それが余計に気になる。
「あなた、二年前に消えた神童よね」
レイの足が、わずかに止まった。
ほんの一瞬。
だが、セリアは見逃さなかった。
「……誰から聞いた?」
「誰からも何も、有名な話よ。二年前の上位魔獣襲撃事件。学院に特例で在籍していた少年が、騎士団でも抑えられなかった魔物を退けて、そのまま姿を消した」
「噂は尾ひれがつくな」
「違うの?」
「全部が違うわけじゃない」
「では、あなたがその少年なのね」
レイは答えなかった。
沈黙。
それが、ほとんど答えだった。
セリアは少しだけ眉を寄せる。
「どうして消えたの?」
「面白い話じゃない」
「私は面白い話を聞きたいわけじゃないわ」
「じゃあ、今は聞かない方がいい」
レイの声は静かだった。
突き放すような冷たさではない。
けれど、そこから先には入るなという線があった。
セリアは唇を結ぶ。
強引に踏み込むことはできる。
命令することもできる。
けれど、今それをすれば、この少年はきっと心を閉ざす。
それは嫌だった。
理由は分からない。
ただ、嫌だった。
「……分かったわ。今は聞かない」
「助かる」
「ただし、いつか聞くから」
「予約制なのか」
「ええ。逃げても無駄よ」
レイは小さく笑った。
「君、思っていたよりしつこいな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてない」
「知ってる」
二人の間に、少しだけ空気が戻った。
森を抜けると、学院へ続く石畳の道が見えた。
その奥には、白い石造りの校舎と青い屋根が並んでいる。
空へ伸びる尖塔には、魔法文字の刻まれた鐘が吊るされていた。
王立セレスティア詠紋学院。
王国中から魔法士の卵が集められる場所。
属性を学び、詠唱を磨き、魔法文字を刻む者たちの学び舎。
レイはその姿を見た瞬間、ほんの少しだけ目を細めた。
懐かしい。
そう思ってしまった自分に、内心で苦笑する。
二度と戻るつもりはなかった。
戻っていい場所だとも思っていなかった。
それなのに今、自分は王族の少女に連れられる形で、その門へ向かっている。
人生は雷より読めない。
セリアは正門へ向かって歩き出す。
だがその途中で、レイの視線が横へ流れた。
木立の奥に、細い石道がある。
今はほとんど使われていないのか、端には草が伸びていた。
「……今、そっちを見たわね」
セリアが言うと、レイはわずかに目を逸らした。
「見ただけだ」
「そこは旧訓練棟へ続く裏道よ。今は封鎖されているはずだけど」
「君は知ってるんだな」
「王族として、学院内の構造は一通り頭に入れているもの」
「なるほど。真面目だ」
「あなたはどうして知っているの?」
レイは少しだけ黙った。
「昔、よく使ってた」
「何に?」
「逃げるのに」
「授業から?」
「主に治療室から」
セリアは呆れたように目を細めた。
「あなた、思ったより問題児ね」
「神童って呼ばれるよりは気が楽だ」
軽く返した声の奥に、ほんの少しだけ苦いものが混じっていた。
セリアはそれに気づいた。
けれど、あえて何も言わなかった。
治療室から逃げる。
その一言だけで、レイの過去がただの栄光ではなかったことだけは分かったからだ。
木立の向こうに、学院の正門が見えてくる。
二年前に消えた神童。
そして今、自分の隣を歩く少年。
その二つが、まだセリアの中でうまく重ならなかった。




