第5話 ありがとうございます
ユユはしばらく海岸沿いの道を歩き、やがて砂浜へ入っていった。
俺も後に続き、砂浜に足を踏み入れる。
湿っぽい風が強く吹き、体を押してくる。
歩くたび、砂に足が取られる。
歩みが重い。
ユユは波打ち際に立ち、海を眺めていた。
波は高く、水平線は遥か遠い。
「……ユユ」
俺は恐る恐る、話しかける。
ユユはすぐに俺に気が付き、顔を見るなり、頭を下げてきた。
「申し訳ありません。すぐにお酒を買いに行きますから」
と、言い、その場を行こうとする。
「おい! 待てって!」
俺は後ろからユユの手を取る。
色白く、病的に細い腕だった。
「違うんだ。俺はお前に怒りたいわけじゃない」
「では、なんでしょうか」
「……えっと……」
まずい。
話しかける口実を考えていなかった。
「いや……その……海が好きなのか?」
何だよそれ。
下手なナンパか。
「海、好きです」
そう言い、ユユはじっと沖の方に目を向けた。
「時々、こうやって海を眺めに来ます。この辺の海は波が高くてあまり綺麗じゃないと言う方もいますが、ユユはそんな事は無いと思います」
「どうして?」
「その大きな波に乗れば、遠くに行けるような気がするからです」
「遠くに行きたいのか?」
「わかりません」
本当にわからないのか、少しうつむくユユ。
「ここにいなくちゃいけないと思う気持ちと、どこかへ行きたい気持ちがあります」
「……ジジイは死んだ。これ以上、あんたがここにいる必要はない」
「おじいさんが亡くなったのに、悲しくありません。涙が流れないんです。……あんなに、おじいさんにお世話になったのに」
当たり前だ。
ユユはずっと、祖父母に縛られていた。
死んだから悲しめという方が無理な話だ。
「ユユは悪い子です。だから、どこかへ行く資格はありません。この街の人の役に立って、生きるべきなんです」
そう言い終え、ユユはうつむいた。
彼女自身、どうすればいいのかわからないんだ。
「……俺のこと、覚えてないか?」
俺はユユの手を取りながら、じっと目を合わせる。
ユユはしばらく俺の顔を見ていたが、首を傾げ、「申し訳ありません、ユユにはわかりません。ごめんなさい」と、再び頭を下げられてしまった。
「誰が参列者として来るのか、ユユには知らされていませんでしたから」
「雪の日にマフラーをあげたの、覚えてないか?」
「マフラー……、あっ」
その時、ずっと無表情だったユユの顔が初めて崩れた。
目を見開き、驚いている。
「毛糸のマフラー?」
「そう、そうだよ!」
俺は思わず嬉しくなり、一歩ユユに近寄る。
「あの時のガキが、俺。名前は芹沢虎太郎。……よかった。覚えてくれていて」
ここに来てやっと、再会できた嬉しさが体の中から溢れ出てきた。
俺のこと、覚えてくれていた。
初恋の相手が、俺のことを。
「虎太郎さん、あの時は黙っていなくなってしまい、本当に申し訳ありません。あの時すぐ、おばあさんに呼ばれてしまいましたから」
ユユはまた頭を下げようとする。
俺は彼女のすぐ近くに駆け寄り、両肩を掴んで体を起こしてやる。
不思議そうな顔でユユが俺のことを見てきた。
「……頭はもう、下げなくていい」
「でも、皆さんこれで許してくれますから」
「そんな簡単に頭を下げるものじゃない」
「ユユは、これしか知りません」
彼女は何を言われ、どんなひどいことをさせられたのだろう。
乾いた、空っぽな瞳。
どんなことをすれば、あの少女をここまでにしてしまうのだろう。
「ユユは他人に頼る生き方しか知りません。他人の養分を吸い取って生きる害虫なんです。だからユユは、他の人のためになるような生き方をしないといけないんです」
「そのためだったら、自分が犠牲になってもいいのか?」
「はい」
即答だった。
「ユユは、いつ死んでもいい人間ですから」
「――そんなこと」
そんなこと、ない。とは、言えなかった。
今のユユに何を言っても、気休めにすらならないような気がした。
それなら、なんて言葉をかければいい?
君はいい人間だとでも、励ませばいいのか。
それとも馬鹿なことを言うなと、叱ればいいのか?
どんな言葉を思いついても、どれも薄っぺらで、彼女の心には決して届かないのではないかと思ってしまう。
そもそも、俺に彼女の心を癒すことなんて、できるのだろうか。
何も持っていない俺が?
偉業を達成することもできず、何の才能も無く、ただの大学生でしかない俺が?
ふと、目の端にユユの姿が映る。
痩せた足で不安定な砂浜を一人立っているユユ。
……それでも。俺は拳をギュッと握る。
それでも俺は確かに彼女のことが好きで、幸せになってほしいと心から願っている。
「ユユ」
「虎太郎さん。それじゃあ、そろそろ行きますね」
「ユユ、東京に来ないか?」
去ろうとしたユユの歩みが、止まった。
「こんなところ、無理して居続ける必要はない。東京に来れば、色々な人に出会える。きっと、色々なことを変えることができる」
「……でも」
「俺だって、バイトくらいしている。学費は無理って情けない話だが、食費とかそこらへんなら、なんとか頑張れる」
「でもそんなご迷惑、ユユには……」
「迷惑なんかじゃない!」
俺はもう一度、ユユの手を握る。
傷を癒すように、優しく肌を撫でた。
「もういいんだ、ユユ。もう、十分頑張っただろ。一人で老人の世話をして、誰も助けてくれなくて、親に甘えることもできなくて……もうそういうのは、終わりにしていいんだ」
風が吹き、波が立つ。
俺が彼女を連れていく船になる。
上手くいくかわからない。
それでも、ここで彼女のことを無視したりすることなんて、絶対にできない。
「無理……です」
泣き出してしまいそうな声で、ユユは首を振りながら言った。
「そんなこと、ユユにふさわしくないです。そういう幸せは、他の人が受けるべきです。ユユは生きているだけで十分ですから」
「じゃあ! なんで海を眺めたりしたんだよ!」
思わず、声を荒げてしまった。
「どうして、そんなさみしそうに海の向こうを眺めるんだよ! 我慢しなくていいんだよ! ここから出たいって! 口に出していいんだよ!」
俺は握っていたユユの手を両手で優しく包み込む。
「ユユはここまで立派に生きてきた。これからは、ご褒美を貰う番だ。……ユユ。頼むから、俺からのご褒美を受け取ってくれ」
最後の一言はほとんど、懇願に近かった。
ユユは視界の行き先を失い、困惑した表情のまま、「……本当に、いいんですか?」 と、訊いてきた。
「ああ。ユユには、その価値がある」
ユユは顔を上げ、俺を見てきた。
目には、大粒の涙が溜まっていた。
「最初のご褒美、ここで貰っていいですか?」
「ああ、いいぞ」
「ご褒美、何でもいいんですね?」
「いやまぁ、破産しない程度には勘弁してもらうが……」
「勘弁、するべきですか?」
「……ああもう! なんでも来い!」
「でしたら、……頭、撫でてください」
「そんな事でいいのか?」
「撫でてもらったこと、ありませんから」
「わかった」
俺は一度ユユの手を離し、改めて向き直る。
俺の胸の高さほどしかない、背の低い彼女。
こんな小さな体で、ユユは頑張って来たんだ。
これからはどんどん、ご褒美を貰う番だ。
俺は手を差し出し、小ぶりなユユの頭を撫でる。
柔らかい髪からサラサラと音がし、ほんの少し温かかった。
なんだか、こっちが妙に恥ずかしくなってくる。
「……ユユ、これでいい――か!?」
突然、ユユは俺の元に飛び込んで、抱き着いてきた。
「ユ、ユユ!?」
「……ごめんなさい」
小刻みに肩を震わせ、涙声でユユは言った。
「少しの間だけ、こうさせてください」
「……ああ、わかった」
「もっと頭を撫でてくれたら、嬉しいです」
「お前、意外と図太いな」
俺は胸元にうずまった頭をもう一度撫でた。
かすかに彼女の泣き声が聞こえたが、すぐに風の音にかき消されてしまった。
これでいい。他の人に聞こえなくていい。
彼女は誰にも甘えることができなかった。
だから、これからはどんどん甘えるべきだ。
しばらく撫でていると、「もう、大丈夫です」と、ユユは俺の体から離れた。
赤くなった目にはまだ少し、涙が溜まっていた。
俺はこの彼女を幸せにしたい。
溺れて死んでしまうくらい大量のご褒美を与え、幸せの絶頂にいてほしい。
「……ごめんなさい。こんなわがままを言って」
「ユユ、ごめんなさいはもう無しだ」
「あっ、ごめんな――いや、えっと……」
わかりやすく、おろおろと言葉を探すユユ。
しょうがない、助け船だ。
「こういうときは、あの言葉を言ってくれると嬉しい。『あ』から始まるあれだ」
「……はい」
すぐにわかったのか、ユユは目の涙を拭い、俺と目を合わせる。
風にかき消されない、確かな声で彼女は言った。
あの時と同じように、少しだけ微笑んで。
「ありがとうございます」




