第4話 昔の記憶
昔の記憶。確か、俺が小学校二、三年生の頃。その日は朝から雪が降り続け、街はやけに静かだった。
まだこのクソ田舎に住んでいたとき、俺と父は雪かきのために祖父母の家に来ていた。主な雪かきは父が行い、俺は雪だるまを作ったりして遊んでいた。
雪だるまを作るのも飽き、遊び場所を移すために俺は家の裏側へと向かった。長靴で雪の上を歩くのは楽しく、あっという間に家の裏側へとたどり着いた。
まだ雪かきが手つかずで一面真っ白なそこに、花壇があった。祖母の趣味のものなのか、レンガを横に並べてできた簡素な花壇。
そこに、小さな女の子がいた。
歳は同じくらいだが、会ったことが無い。少女はこんな寒い日に上着を着ておらず、長袖Tシャツのまま、花壇の前にうずくまっていた。
花壇には白い花が咲いており、おそらく少女のものである赤い傘がその白い花に開いて被せられていた。白い花に雪は被っておらず、赤い傘と少女の体に積もっていた。少女の体は小刻みに震え、肌は赤みを失い、白い息が吐き出てはすぐに消えていった。雪が音を吸収し、その場所はやけに静かだった。
なぜだかわからないが、俺はその光景から目を離すことができなかった。心が締め付けられるような、今まで感じたことのない気持ちになった。
俺は少女に近寄り、「風邪ひいちゃうよ」と話しかける。少女はこちらを見向きもせず、
「でも、花が枯れちゃう」
と、震えた声で答えた。
「この花は枯らしちゃダメ」
「なんで?」
「言われたの。おばあさんから」
「……ふーん」
半分くらい、少女の言っている意味が理解できなかった。変な奴、と思った。それでも、どこか気になった。このときの虎太郎少年にとって、花なんてそこらへんでいくつも咲いている何の変哲もないものだった。そんなものに自分の傘を被せているこの女の子の存在は珍しく、なぜか無視できないものだった。
俺は首に巻いていた毛糸のマフラーをほどき、少女の目の前に差し出す。
「はい、これ」
少女はマフラーを見て、次に俺の顔を見た。初めて、目が合った。瞳の大きい、宝石みたいに綺麗な目だった。
「お母さんが編んだから、あったかいよ」
赤くなった少女の手はマフラーを掴み、自らの首に巻いた。しかし、うまく巻けておらず、マフラーはすぐに緩んでしまう。
「そうじゃない。こうやってやるの」
俺はそう言ってマフラーを掴んで、少女の首に巻き直した。
巻き直したマフラーに口元をうずめ、少女は息を吐いた。ほんの少しだけ、頬に赤みが戻った。
「……あったかい」
少し微笑んで、少女はそう言った。
その時、恋に落ちた。
初恋だった。
他のどんなものよりも、その笑顔は特別なものに見えた。そのときの虎太郎少年にとっては、世界に一つだけしかない宝物を見つけたような感覚だった。もっとこの子の笑顔が見たい。どうして一人でこんな事をしているのかわからないけど、この女の子にはもっと笑ってほしい。
この子が花にまで優しさを向けるのなら、俺は彼女に優しくしたいと、子供ながらにそう思った。
「もっといっぱい持ってくる!」
俺は意気揚々とそう言い残し、その場を離れた。そして雪かきしている父の元へ行き、カイロをいくつか貰って、少女のところへ戻った。
もうそこには、少女の姿は無かった。あるのは白い花を守っている赤い傘だけ。その後、家の周りを探し回ったが、少女を見つけることはできなかった。
◇◆
十数年ぶりに花壇に向かうと、そこには何も咲いていなかった。白い花も赤い傘も何も無く、あるのは乾いた土と枯れた雑草のみだった。まだ今年は雪が降っていないが、降ったらきっと、この花壇はすぐに埋まってしまうだろう。
炊事場の一件が落ち着いた後、親戚連中に彼女のことを聞いて回った。はじめは渋っていた彼らも、こちらが何度も訊くと、観念したように話し出した。
彼女、橋本ユユは叔父が連れてきた子だという。
叔父が婚約した相手にはすでに子供がおり、それがユユだった。ユユと叔父と母親の三人は穏やかに過ごしていたが、ある日突然、母親が交通事故に遭い、亡くなってしまった。叔父はその後、ユユを引き取り、しばらく二人で暮らしていた。
しかし、出会いというのはいつも突然で無遠慮だ。
叔父はとある女性と恋に落ち、再婚し、その女性との間に子供ができた。そうなると当然、ユユの存在が邪魔になる。叔父にとって、ユユは昔の女が残した荷物なのだ。
だから、叔父がユユを両親に無理やり預けた。そこでユユは一人で祖父母の世話をしながら、今まで過ごしてきたという。おそらく俺とユユが出会ったのは、ユユがこの平屋に住み始めた頃なのだろう。
元教員だった祖父に怒られながらユユは毎食料理を作り、他人に厳しい性格だった祖母になじられながら洗濯や買い物をした。小学生の女の子がやる範疇をとうに超えたことを、祖父母はユユにやらせていたのだ。
そしてそれを知りながら、親戚連中はユユに対して何もしてこなかった。そういう連中なんだ。自分たちが良いなら、他人はどうなってもいい。現に叔父は祖父の葬儀に参列しなかった。連絡も取れず、今もどこで何をしているのか、わからない。
「……ふざけるな」
つい、そんな言葉が漏れ出る。見上げると、空は雲に覆われている。灰色に染まった空は決して破れないコンクリートの壁に見えた。
母に直接訊いたわけじゃない。それでも、東京に引っ越してなかなか地元に帰って来なかったのは、親戚連中に会わせないようにしたからなのかもしれなかった。
炊事場で見た、ユユの手元。謝ることしかしない、あの姿勢。
小中高と進学しても、祖父母はまるで召使いのようにユユを扱っていた。だから彼女は、病的にまで献身的になった。部活や授業などをまともに受けさせていたのかさえ怪しい。
そして祖母が死に、その後に祖父も死んだ。ユユは一人になった。
現在高校一年生のユユはこの先、どうなるのだろう。この平屋に住み続けるのか。それとも、また違う誰かの家へ行くのか。
ガチャッと鍵が回る音がし、見ると家の裏口からユユが出てきた。セーラー服のまま上着を着ず、俺に気が付かない様子で道路に出る。きっと、叔母に言われてビールを追加で買いに行くのだろう。
俺は少し迷い、ユユの後を追いかけた。どうすればいいのか、ユユと何を話せばいいのかわからなかったが、それでも、あの親戚連中と一緒にいるよりも、彼女といるべきだと思った。




