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第14話 火照った体

「我慢できません……もう、いいですか?」


 ユユは俺のことを押し倒しながら、そう呟いた。


 柔らかく、色白い肌。

 俺の周りに充満し、頭がクラクラしてしまう彼女の甘い香り。

 そして、じっと見つめてくるその眼差し。


 深夜十二時五分。


 ユユから溢れ出るそれらから、俺は一斉攻撃を食らっていた。


 どうして……。どうして、こんなことに……。


   ◇◆


 更衣室に入り、エプロンを脱ぐ。

 ハンガーに通し、『芹沢』というネームプレートが貼られたロッカーの中にかけた。


 日曜日の映画館のアルバイトは、家族連れが多くなり、とても忙しくなった。


 ロッカーの中に畳んでおいたオープンカラーシャツを手に取り、羽織る。

 シャツから家で使っている柔軟剤の匂いが香る。


 ――ふと、脳裏に蘇る。


 二か月ほど前に開いたケーキパーティーでの、ユユの笑顔。

 優しくつり上がった口元。

 ほんの少しだけ赤みを帯びた頬。

 俺を見つめる、大きな瞳。


 ユユが醸し出す冷たい清楚さがほんの少し崩れ、彼女の中にある宝石のような何かが漏れ出たような気がした。


 本当に、素敵な笑顔だった。


 トートバッグを肩から下げ、更衣室から出て事務所に入る。

 パソコンに繋がれた読み取り機にカードを押し当て、打刻をする。


「お疲れ様です」


 気持ち大きめの声でそう社員たちに挨拶し、事務所を後にしようとしたその時、「あれ、芹沢君」と、パソコンで作業していた男性の職員が話しかけてきた。


「今日は随分ご機嫌だね。何かいいこと、あった?」


「え?」


「口元、緩んでたよ。良い笑顔だったから、そんな感じで明後日もお願いね」


「……はい。失礼します」


 そう言い、俺はそそくさと事務所を後にする。


 扉を開け、外に出る。

 生ぬるくなった風が髪をなびかせる。

 今日は昼までだったので、太陽はちょうど真上にいた。


 歩き出し、自宅であるアパートを目指す。

 心なしか、足が軽い。

 腰の痛みもすぐに忘れてしまった。


 最近、ふとした瞬間にユユのあの笑顔を思い出す。

 そのたびに体の奥底から暖かくなり、つい口元が緩む。


 彼女を笑顔にできて、嬉しかった。

 もう、彼女の笑顔を見ることはできないと思っていた。


 それでもあの焦げたケーキは、彼女を笑顔にしてくれた。


 ユユと暮らし始め、しばらく経った。

 ユユは徐々に自分のしたいことを言うようになった。

 俺はそのたび、ご褒美としてユユのために動いた。

 再会したときに感じた、体の中に何も入っていない空虚さはユユからすっかり消え失せていた。


 あの年頃の少女が持ち合わせているもの、そして彼女自身が持ち合わせていたものが積み重なり、ユユ自身を形成していく。


 俺も俺で、心なしか少しだけ自信がついた。

 バイトで褒められることも増え、テストの点数も上がった。


 生きていくだけで息苦しかった以前とは、違っていた。

 全てが平穏に、順調に進んでいるようだった。


「――だからこそ、なんだよな」


 誰に聞かれるわけでもなく、小さく呟く。


 ユユと一緒に暮らしていき、日々実感する。

 やっぱり俺は、彼女のことがどうしようもなく好きなんだ。


 ユユの笑顔が好きだ。

 ユユの穏やかな声が好きだ。

 ユユの綺麗な黒髪が好きだ。

 ユユの優しさが好きだ。


 そんな思いが、俺の体の中に積もり積もっていく。

 そしてそれは決して消化されず、絶え間なく俺の感情を大きく揺さぶっていく。


 つい、ユユの一挙一動を目で追ってしまう。

 彼女が話したことを心の中で反芻し、悶えてしまう。


 俺は歩きながら大きく息を吸い、気持ちを落ち着かせる。


 ……でも、ダメなんだ。


 ユユを幸せにすることと、邪な気持ちを混ぜてはいけないんだ。

 そうしてしまったら、あのユユの笑顔を汚してしまうような気がする。


 だから、俺はただの保護者として、ユユを幸せにする。


 頭の中で薄れていき、やがて消え失せてしまうと思っていた初恋の思い出。

 でも、今はそんな相手と暮らしている。

 それだけで、俺のご褒美は十分だ。


 俺はそれだけでいいんだ。


 住宅街に入り、アパートの目の前までやって来る。

 今日の昼ご飯、ユユに何を作ってやろうか。

 そんなことを呑気に考えながら階段を上り、鍵を開けて玄関の扉を開けた。


「ただいま」


「あっ――」


 短く、声が聞こえる。

 見ると、室内に風呂上がり姿のユユが立っていた。


 服を身につけておらず、バスタオルを体に巻きつけただけ。

 小柄で細い体のラインがぼんやりとだが、見えてしまった。


「ッ、すまん!」


 俺はすぐに目を逸らし、外に出て玄関を閉めた。


 目を閉じ、なんとか冷静になろうとする。

 心臓の鼓動が痛いほど高鳴っている。

 すぐに先ほど目撃してしまったユユの体が瞼の裏に映ってしまった。


 ……いや、そんなこと許されない!

 忘れろ!

 俺は頭を振り、なんとか記憶を抹消しようとする。


 ――濡れた髪に、水滴が流れていく肩、少し火照って赤くなった頬。


 ダメだ。

 どうあがいても、ユユのあの体が俺の頭の中で何度も再生されてしまう。


 ユユには悪いことをしたな。

 やっぱり、もう一つくらい部屋があればよかった。

 小さなアパートの部屋で共同生活をすると、こういうことが起きてしまう。


「――虎太郎さん」


 扉の向こう側から、ユユの小さな声が聞こえる。


「ごめんなさい。虎太郎さんが帰ってくる時間、もう少し遅いものだと思っていまして……ユユ、リビングで涼んでから着替えようと……」


「いや……、こちらこそすまん」


 俺は扉に向かって、頭を下げた。


「今度からもう少し気を付ける」


「お気遣い、ありがとうございます。でも、ユユは大丈夫ですから。中に入って下さい」


「もう着替え終わったのか?」


「いえ、まだです」


「はぁ⁉」


「でも、ユユは裸を見られても何も感じませんから。だから、中に入って大丈夫です」


「おまっ……こちとら、そういうワケにもいかねぇんだよ!」


「どうしてですか?」


「……なんでもだ!」


 つい、声がうわずってしまった。


 服を褒められるのは恥ずかしくて、裸を見られるのは恥ずかしくないのか。

 ユユの貞操観念、どうなってんだよ……。


「とりあえず、着替えくれ! そうすれば入れるから!」


「……わかりました」


 ユユは納得いっていないような返事をする。

 パタパタとした足音が遠のいていった。


「はぁ……」


 俺は緊張を解くように、息を吐いた。


 中で着替えているユユを意識しないように、ひたすら頭の中で両親の顔を浮かべ続けた。

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