第10話 朝ご飯
ずっと、俺の前には誰かがいた。
教卓に立ち、クラスメイトたちから拍手を受けるテスト上位者。
体育館の壇上にて表彰される、大会優勝者。
スマホの液晶に映る、同世代のカリスマたち。
ふと、隣に目を向ける。
誰もいない。
後ろを向く、誰もいない。
俺が最後尾だ。
もう一度前を向く。
数えきれない人たちが前をひた走っていく。
他人には無い、自分だけにしかないものを抱え、彼らは俺の元から離れていく。
俺の腕の中には、何も無い。
生まれながら持っていたもの。
努力を重ね、手に入れたもの。
そのどちらも、俺には無い。
そんな俺で、どう生きていけばいい?
この先続くであろう数十年の間、どう誤魔化して過ごせばいい?
何も見えない。
前も後ろも真っ暗だ。
俺は漆黒の世界に一人立っている。
ふと、目の前の闇に亀裂が入り、光が溢れ出る。
光の中から、誰かが手を差し伸ばしてくる。
俺はその手を掴もうと、腕を伸ばし――
◇◆
そこで、目を覚ました。
瞼を開き、カーテンの隙間から入ってくる暴力的な太陽光に目が眩む。
久しぶりに夢を見た。
不思議な夢。
自分のコンプレックスがここまで直接反映されると、むしろおかしく思えてしまう。
俺はソファーから体を起き上がらせ、両手を上げて背伸びをする。
俺はソファーでいいなんて息巻いたが、やはりちょっと寝づらい。
寝袋でも敷布団でもなんでもいいから、近いうちに買わないとな。
そんな事を呑気に考えながら、俺は徐々に気が付き始める。
何かがおかしい。この室内で何かが起きている。
何か、匂いがする。
美味しそうな、味噌汁の匂い……。
「……うぉ⁉」
ソファーとテレビに挟まれた位置にローテーブルがある。
その机上には、一人分の朝ごはんが並んで置いてあった。
味噌汁に白飯、そしてハムエッグ。
どれも出来立てなのか、湯気が上がっており、美味しそうだ。
ベッドの方に目を向ける。
ユユの姿は無かった。
その時、玄関へ続く廊下の扉が開き、ユユが入ってきた。
新しいブレザーの制服を身に纏いながら、洗濯物が入った籠を手に持って。
「虎太郎さん、おはようございます」
「ゆ、ユユ、これは……」
ユユは不思議そうに顔を傾け、「朝ごはんです」と、答えた。
昨日見たセーラー服とは違い、ブレザーの方もめちゃくちゃ似合っている。
小さな体に大きなリボンとか、少し裾が余ったブレザーの上着とか、愛くるしすぎるだろ。
……いや、今はそれどころじゃない。
「……もしかして、パンの方がよかったですか?」
と、ユユは籠を下ろし、不安げな表情で訊いてきた。
「いや、ご飯で嬉しいけど……な、なんでユユが朝ごはんを? それに、その洗濯物……」
「洗濯機の中見たら溜まっていたので、つい……お風呂の掃除も、ゴミ出しも終わっています。虎太郎さんはゆっくり朝ご飯食べていてください。ユユはその間、洗濯物を干していますから」
そう言い、籠を持ってベランダの方を向かおうとするユユ。
「ちょ、ちょっと待て!」
俺はユユの前に立ちはだかり、洗濯物カゴを奪い取った。
「……虎太郎さん?」
ユユは俺の行動の意味が本当にわからないといったように、困惑した表情でこちらを見てくる。
「ユユ、どうしてこんなことをしている?」
つい、詰問するような訊き方になってしまう。
「……ごめんなさい」
「違う。俺は怒っているわけじゃないんだ」
「では、褒めているのですか?」
「……言い方が悪かったな。俺はただ、どうしてユユがこんなことをしているのか、知りたいだけだ」
ユユは少し迷った末、俺の機嫌を伺うように上目遣いで見てきて、話し出した。
「ユユは、この家に住まわせてもらう身です。……ですから、家事はユユが全てやるものだと思い、やりました」
既に終わった洗濯、掃除、ゴミ捨て。そして用意された、俺一人分の朝食。
――俺は本当に、ダメな奴だ。
自分よりも年下な少女に一人でそんなことをさせて、吞気に寝ていたなんて。
「そうか……、わかった」
と、俺はユユの頭に向かって手を伸ばす。
叩かれると思ったのか、ユユはピクリと身を震わせ、目を瞑った。
「ありがとう」
俺はそう言い、ユユの頭を撫でた。
綺麗な黒髪に優しく触れる。
撫でながら、心臓がバクバクと高鳴る。
再会したときのご褒美に頭を撫でてほしいと言われ、今回も撫でてみたが、ユユは嫌がらないだろうか。
女子の頭を撫でるなんて、イケメンで完璧な男しか許されないような気がして、めちゃくちゃ緊張する。
「……怒らないのですか?」
ユユは撫でられながら、顔を上げる。
「怒らない。ユユが良かれと思ってやったことなんだろ」
そう、向こうの家で召使い同然な扱いをされて育てられたとは言え、ユユはあくまで親切心からやったことだ。
それなら、褒めないでどうする。
「でも、一人で全部やっちまうのは感心しないな。俺とユユはここで一緒に生活するんだ。家事でも何でも、二人でやるべきだ」
「でも、ユユ一人で全部できます。わざわざ、虎太郎さんの手を煩わせることは……」
「アホ」
そう言い、ポンと軽くユユの頭をチョップする。
あうっ、と、ユユは小さく声を上げた。
「言っただろ。俺たちは二人で暮らしているんだ。それなら、協力すべきだ。そうだろ?」
「……はい」
チョップされた脳天を両手で押さえながら、ユユは小さく返事をした。
「これから家事は二人で協力してやる。ユユ、いいな?」
ユユはコクンと頷く。
「わかりました。虎太郎さんが包丁を持ち、ユユが野菜を支え、協力して切っていくということですね」
「……まぁ、その辺のすり合わせはおいおいってことで」
まだ少し、認識のズレがあるみたいだ。
「とりあえず、ユユはこの朝ご飯を食って、高校に行ってこい」
「でも、これは虎太郎さんの食事ですから……」
「どうせ、ユユは何も食っていないんだろ? 俺は後で適当に食うから、さっさと食って高校行って、友達でも作ってこい」
彼氏と言わなかったのは、せめてもの抵抗だ。いや、くだらない嫉妬心か。
「わかりました」
と、ユユは朝ご飯が並んだローテーブルに着こうとせず、まっすぐベランダの方へ向かった。
「ユユ? だから家事は――」
「協力して、やります。しかし、まだ高校に向かう時間には早いですから。それに――」
と、ここで不意に言葉が切れる。
大きな瞳が泳ぎ、何かを探しているようだった。
「――いえ、なんでもありません」
ほんの少しだけ、ユユの顔が曇る。
「何か、言いたいことがあるのか? ユユ」
「いえ、本当に大丈夫です」
そう言い、ユユは大人しくローテーブルの前に着いた。
なんだったんだ?
胸の中に疑問を抱えたまま、俺は窓を開け、ベランダに出た。




