旅館ではアレに気を付けろ!
夜巳の部屋でしばしチェスに興じた漆紀は十時を過ぎると、自分の部屋に戻っていく。
部屋に戻ると、テレビを点けて適当に番組を見る。そうして暇を潰すこと一時間。
十一時になると、漆紀はテレビを消して布団に入り目を閉じる。
「ふう……明日も温泉を堪能するとしよう……おやすみ……」
漆紀は目を閉じて、脱力するが、不意に彼の耳に雑音が入る。
「ん?」
それは明らかに雑音であり騒音であった。
隣の部屋にも客が居る、当然だ。しかし、この事態は漆紀にとって想定外であった。
ホテルはある程度壁の厚さが保たれていた。そして昨日や一昨日のコテージでは共同空間のために皆寝静まる時間には音を出さないよう気を配っていた。
しかし、なまじこの旅館はホテルと同じく部屋が分かれており、なおかつ壁が薄いようだ。
音が丸聞こえである。
漆紀の部屋の左隣からは、アメリカっぽいドゥクドゥク言っているヒップホップが流れていた。そしてなにより、乗り気でそのリズムに合わせてラップを口ずさむ声が聞こえていた。その声は間違いなく、ブライアンのものであった。
(ブライアンのやつ、毎日こんな調子なのか? うるせえ……ん?)
漆紀は耳が冴えているせいか、部屋の右隣からも声が聞こえる。
漆紀は耳を澄ませて右隣の部屋の声をよく聞くと。
『あっ、あっ……あん……か、会長……会長っ』
(完全にアレの声じゃねえかあああああぁぁぁぁぁぁぁ!!)
それはどう聞いても喘ぎ声であった。漆紀は嫌でも右隣の部屋の人間が自慰行為の最中であると悟ってしまう。そしてその声色から誰かまでわかってしまう。
(月守先輩……おいおい勘弁してくれ、うるせえ。眠れねえ……!)
左隣からはブライアンのヒップホップ、右隣からは舞香の喘ぎ声。
どうしろというのだと漆紀は困り果てる。
(かといって直接うるさいって言いにいくのもなんかな……片方は致してる最中だし……うわぁ、どうすりゃいいんだよ、こんなんじゃ眠れねえ)
漆紀は眠れず、何度か寝返りを打って考える。
「ダメだ、思いつかねえ。クソっ、こんなんで寝られるかよ……」
漆紀はなんとか目を瞑って脱力して眠ろうとするが、一向に左右の部屋から聞こえる騒音は止まらない。
「クッソ~……どうすりゃ……あっ」
漆紀は名案を思い付く。
(ネットでよく言われてる壁殴りをやればいいじゃないか。どうせ寝れないならドンって一発壁殴りすれば黙るはず……)
そう思い立つと漆紀は布団から起き上がり、立ち上がる。しかし壁殴りに大して懸念がある。
(待てよ? 音が聞こえるくらい壁が薄いなら、殴ったら穴が空くんじゃないか? まずいな……そうなると……ああ、そうだ!)
壁殴りの代案を漆紀は即座に思いつく。
それを実行すべく部屋から出ると、ブライアンがいる左隣の部屋の扉の前に立つ。
(壁は薄いが、扉はある程度厚いし殴っても大丈夫そうだ。よし、これで行こう)
漆紀は構えを取ると。
「オラっ!」
軽く右拳を突き出して部屋の扉をゴンっと叩く。これには流石にブライアンも何事だと思ったからか、歌声が止み静かになる。
漆紀はすぐさま自分の部屋に逃げ込む。すると左隣の部屋の扉が開く音が聞こえた後、再び扉が閉まる音が聞こえる。数分するが、ブライアンはもう音楽を流す事はなく、歌も歌わなかった。
「……よし、成功だな。あとは月守先輩だな」
舞香は相変わらず喘ぎ声を漏らして快楽という直球な悦に浸っている。
「んじゃ男女平等壁殴り……いや、扉殴りといこうか」
漆紀は再び部屋から出て、右隣の舞香の居る部屋の扉の前に立つ。
「すうぅぅ……はああぁぁ……」
漆紀は構えを取り、そして。
「ふんっ!」
ブライアンの時よりも強めに扉をぶん殴る。ゴンっという音が鳴り響き、舞香の喘ぎ声はぴたりと止まる。
そして漆紀は部屋に即行で逃げ込み、静かにする。
すると右隣の部屋から扉が「ガチャ」っと開く音が聞こえる。数秒して再び扉が閉まる音が聞こえ、それから一分後には再び舞香の喘ぎ声が聞こえてくる。
「おいおい扉殴ったのにやめねえのかよ……クソっ、発情変態お嬢様がよぉ……あっ」
漆紀はいつぞやネットで見たスレを思い出した。今の状況に似たスレ民が、喘ぎ声を出すお隣さんを揶揄うというネタスレである。
「よし、タイミングだ。タイミングが大事だ……」
そうして漆紀はタイミングを伺う。そうして待つこと十分。
舞香の喘ぎ声は激しくなっていく。絶頂が近いのだろう。
絶頂まで漆紀は壁際に立って待つ。
「あっ、いや……すき、すきっ、あん、会長……」
(ふへへ、やり返してやるぜ。眠りを妨げた罰だ)
そして舞香は絶頂に向け高まっていく。
「あっ、あっ、い、いっ、くッ……いく……いく、イク!」
その瞬間、漆紀は今だ! と思い舞香の部屋に向かって大声で叫ぶ。
「ぼくもーっ!!」
その瞬間、舞香の喘ぎ声はパタリと止まった。
直後、部屋の中で荒い足音が聞こえる。
バタンという音と共に右隣の部屋の扉が開く音が聞こえたと思った途端、漆紀の部屋の扉が激しくノックされる。
「たーつーがーみー君? 開けてもらえるかしらぁ?」
(やばいやばい、絶対開けたらヤバいヤツだ)
漆紀は直感で分かる。開けたら男女平等パンチが飛んでくるだろうと。
「いいから開けなさい? 開けないと無理矢理鍵を開けるわよ? 知ってるわよね、私の能力……私なら鍵を開けるくらい出来るのわかるわよね?」
そう言われ、漆紀は舞香の能力を思い出す。彼女は温度操作や形状変化が出来る能力だ。
そして舞香はいつもアルミニウムオブジェクトを持っている。
つまり、形状変化で鍵の形を合わせる事も可能なのだ。
「やばっ!」
漆紀は扉に近付き、ドアノブを押さえる。しかし時すでに遅し。
舞香はアルミニウムオブジェクトを形状変化させて鍵を開け、扉を開けようとする。
「やめろ、入ってこないでくださいよ! 元はと言えば隣の部屋の人間への騒音を気にせず股を擦ってたのが悪いだろうがよ!」
「何がぼくもー、よ! 彦根での事やキャンプでは見直したってのに、あなたときたらなんなの!? 無粋にもほどがあるんじゃない!」
「もう寝る時間ですよ! 喘ぐな、うるせえ!」
「寝る時間だから致してるんじゃない! よくも邪魔したわね! さっき扉を殴ったのもあなたでしょう!?」
漆紀と舞香の力は拮抗し、扉は半開きくらいの開度になっていた。
「ああそうだよ、直接言いにいくのもなんだから黙らせる方法を俺なりに考えたんだよ!」
「直接言ってくれれば良かったじゃない!」
「自慰行為中のヤツに喘ぎ声がうるさいですなんて言えるかぁ! 扉殴りで察しろタコ!」
漆紀は舞香を部屋に入れまいと必死に抵抗する。この女、思いのほか力が強くてパワー系だと漆紀は焦り始める。
「誰がタコですってええぇぇぇ!」
「ああもう、こうして言い合ってるのだって騒音だぞ! そんなに俺にやり返したいかよ! なら引き込んでやらぁ!」
舞香の押す力に漆紀の扉を引く力が加わり、舞香はバランスを崩して漆紀の方に倒れ込み、漆紀も後ろに倒れてしまう。
浴衣姿の舞香が漆紀に全体重を乗せている。漆紀は少し息苦しさを感じるが、そんな場合ではない。うまく避けるつもりが押し倒されてしまった。
「このぉ!」
舞香が漆紀へと拳を振り下ろそうとしたとき、漆紀が右手を上げようとするが。
「ひゃっ!?」
舞香は力が抜け、驚いた猫みたいな表情を浮かべる。
漆紀の右手には湿ったような感覚がする。
漆紀が自身の右手の行き先を見ると、舞香の股ぐらに右手があった。そしてその位置は明らかに陰部である。
「ち、違うぞ月守先輩! あんたが倒れ込んで来ただけで」
「このおおおぉぉぉ!」
「ふざけんな!」
舞香が振るって来る拳に、漆紀は頭突きをぶつけた。
「痛ったっ……ああもう、どきなさいよ!」
「逆だ逆! あんたがどけ!」
「あぁ、それもそうね……」
舞香は漆紀からどくと、漆紀は立ち上がって頭を軽く振ってから舞香の方を見る。
「あんた会長にも同じ事する気ですか?」
「まさかそんなこと……」
「今時、ツンデレも暴力系も流行らないぜ。その調子じゃやっぱりヤクザの娘ってのは納得」
漆紀がヤクザと口にすると、舞香は目の色を変えて漆紀の胸倉を掴む。
「やめなさい、私がヤクザの娘だなんて言うの」
「事実でしょ、予知夢で見た。確か、里見組だっけ?」
「っ!? あなた本当に予知夢を……ッ!? 半信半疑でこの前の話は聞いてたけど……本当に?」
「ヤクザの娘がなんで学徒会会長に惚れてんだよ、まったく属性が違うぜ」
「……話すつもりはないから」
「というか、なんで浴衣の下ノーパンなんだよ。痴女? 変態?」
漆紀がそう口にした途端、舞香は顔を真っ赤にして首を横にブンブン振って「違うわよ!」と否定する。
「とにかく、喘ぎ声はやめてくださいよ。寝れない」
漆紀が騒音被害を伝えると、舞香は渋々頷く。
「わかったわよ……もう致したし、いいわ。まあ、あなたのせいで最悪の絶頂だったけど」
「うるせえ、隣のことを考えないあんたが悪いですよ」
舞香は顔を真っ赤にしたまま「じゃあ、戻るから……おやすみ」とだけ言い残して部屋へと戻っていく。
漆紀は扉を閉め、湿った手を洗面所で洗ってから布団に入る。
「……よし、これでやっと眠れる」
漆紀は脱力し、そのまま目を閉じて意識を手放した。




