63. ラキュスはポーカーフェイスに感謝した(挿絵有)
「それじゃあお願いします!」
そう告げた宿屋の主人はぺこりと頭を下げ、足早に遠ざかっていく。
ラキュスはチェラシュカと共にその背を見送ると、振り返って倉庫の扉を開けた。
「思ったより多いわね」
「……だな」
堆く積まれた布の山を見上げる。その山は複数あり、壁に沿って置かれた棚にある木箱からも布がはみ出しているのが見えた。
倉庫の中は埃っぽい空気に満ちており、かなり長い間まともに手入れをされていないことが窺える。
板張りの床も埃で白っぽくなっており、足を踏み入れればギイ……と軋む音がした。
何故二人が布だらけの倉庫の前に居るか。
それは、ボレアードまでの道中に訪れた町で、ちょっとした頼まれごとを引き受けることとなったからだ。
『予備で置いていたリネン類を使いたいから、虫食いやシミが無いものを仕分けしてほしい』とのことだったが――。
「この作業量は割に合わないんじゃないか」
宿代をタダにするから、と言われたものの、この量を相手にするくらいなら普通に支払った方が良かったのではないか。
まだ懐に余裕はあるのだし、とラキュスはつい不服を口にしてしまう。
すると彼女は小さく笑みを浮かべた。
「たまにはいいじゃない。これもきっといい思い出になるもの」
「……ならいい」
「それに、レオニクスたちの方がもっと大変かもしれないわ」
「それは構わない」
「ラキュスったら」
レオニクス、ストラメル、ティンナトールは別の頼まれごとを引き受けており別行動だ。確か引っ越しの荷運びの人員が足りないんだったか……あまり詳しく覚えていない。
多少大変かもしれないが、危険はないのだから気にかける必要もない。
それはさておき、やると決まればさっさとやってしまおう。一つずつ布の状態を確認するとなると、時間もかかるし場所も取る。
奥行も幅も五、六歩程度しかない狭い倉庫内で行うには、それなりに考えて行動しなければならない。
チェラシュカには一度倉庫の外で待機してもらい、倉庫内を一気に魔法で洗浄する。
瞬く間に埃が消え、床も本来の木の色が見えるようになった。棚の奥の方までは届いていないだろうが、これでかなり作業がしやすくなったはずだ。
「流石ラキュス! 一瞬でピカピカになったわ、ありがとう!」
「大したことじゃない」
満面の笑みで近寄ってきた彼女と共に、改めて倉庫内に足を踏み入れた。
◇◇◇
ひたすら手を動かし、それなりに仕分けにも慣れてきた頃。
ラキュスが棚の奥からタオルがたくさん入った箱を出そうとしたとき、後ろからチェラシュカに呼び掛けられた。
振り向くと、彼女はこちらに足を踏み出したところだった。
その一歩は床に置いていた虫食いのある布を踏み、足を滑らせた彼女の身体が大きく傾ぐ。
チェリ! と咄嗟に彼女の腕を引いて助け出そうとした。が、ラキュス自身の足元も疎かになっていた。
「いっ……!」
倒れ込んだ勢いで肘と膝を強打してしまった。背中の上には大量の布。どうやら仕分けたリネン類の山を蹴飛ばしてしまったらしい。
一つ一つは軽いものなので、羽にダメージを負わなかったことが不幸中の幸いか。
ただ、困ったことに足がリネン類に引っかかってしまったようだ。
頭上から垂れ下がるシーツの両端も自分の手で押さえてしまったため、布にまみれて簡単には動けなくなってしまった。
「いたた……。ってラキュス!? 大丈夫!?」
「……俺は大丈夫」
目の前のチェラシュカが心配そうに眉を寄せている。
ラキュスは真顔を保ちつつ、彼女の両脇についた腕に改めて力を込めた。もし今自分が腕の力を緩めると、彼女を押し潰してしまう。
「チェリは大丈夫か」
「私はちょっと腰を打っただけだから問題ないわ」
「……間に合わなくてすまない」
「ラキュスのせいじゃないわ! 私がうっかりしていたのよ」
ニコ、と笑う彼女を見て口を噤んだ。それ以上謝るな、という圧を感じる。
「とりあえず私が抜け出して、ラキュスの上の布を退ければいいわよね」
「ああ……」
「ちょっと待っていてね」
キリッとした顔でそう告げた彼女に、嫌な予感がした。ラキュスたちが倒れ込んだのは部屋の隅の方であり、彼女が自分の下から抜け出すということは――。
「チェリ、動くな、」
ラキュスが即座に上げた声も空しく、ゴンッ! と大きな音が部屋に響いた。
「~~~つ」
強かに頭頂部を壁に打ち付けてしまった彼女。ぎゅっと閉じられた目の端に、うっすらと涙が滲んでいる。あんな音がするくらいだ、相当痛かったに違いない。
彼女の行動を読んでもっと早く注意しておくべきだった、とラキュスは反省する。
「……すまない」
「い、いいえ、私が急ぎすぎたのよ」
ラキュスの身体の下で動きにくそうに手を持ち上げた彼女は、ぽんと作り出したさくらんぼを一粒食べ、流れるようにラキュスの口にも一つ放り込む。
「とりあえずこのまま動かせるだけ動かすわ」
「頼む」
彼女は身を捩ってラキュスの上に乗った布類を確認している。浮遊魔法で少しずつ動かしてくれており、背中が少しずつ軽くなっていくのがわかる。
「見えない部分の布は動かせないわね……どうしようかしら」
彼女はどうやってこの状況を脱するかを考えてくれている。自分も同じく考えるべきだが、もう少しこの時間が続けば、とも思ってしまう。
誰の邪魔も入らない、二人きりの時間。
不意に彼女の視線がこちらを向いた。
「こうしていると、まるで世界に私たち二人だけになったみたいね」
ごく、と鳴ったのが自分の喉の音だと遅れて理解する。
――もし本当にそうなら、どれだけ良かったか。
悪戯っぽく笑いつつも無邪気にそう話す彼女を見て、ついそんなことを思う。
本当は自分だけを頼ってほしい。彼女を守るのもその笑顔を向けられるのも、自分だけがいい。彼女が居ないと生きられない自分のように、ラキュスが居ないと生きられないと思ってほしい、なんて。
もしそう告げれば、彼女はどんな反応をするだろう。嫌がられないのはわかっている。でも、困った顔はするかもしれない。
それでも、できるだけ互いの意に添う結論になるように、たくさん言葉を交わしてくれるに違いない。
自分だけを見ていてほしい。けれども、そんな願いをそのまま受け入れるのは彼女らしくない。
彼女らしさの中心には自由がある。それを自分の矮小な欲で奪いたくない。
彼女は彼女のまま、好きなように過ごしてほしい。決してその羽が手折られることのないように。
彼女が幸せならそれで十分だ。例え周りに誰が居ようと、彼女のためになるのなら構わない。
そう、言い聞かせていたのに。
「チェリ」
間近で向けられる笑みが、もっと欲しくなる。言うはずの無かった言葉が、心の奥底へと厳重に沈めていた想いが顔を出す。
「俺だけじゃ、ダメか」
「……ラキュス?」
「俺だけじゃ、不安か。頼りないか」
口から零れ出た言葉。
一瞬見開かれた彼女の金色の目は、すぐに真剣さを帯びる。
「いいえ。私はラキュスを頼りないなんて思ったことは無いわ」
きっぱりと彼女は否定してくれた。
だが、ほんの少し。時間にして数秒程。
彼女が口を開くまでのそんな瞬く程の間でも、長く付き合いのあるラキュスにとっては十分だった。
「……そうか、わかった」
彼女の言葉に嘘が無いのはわかっている。けれども、彼女自身の自覚が無いだけで本当はどこかで不安を感じているようだ、とラキュスは気付いていた。
メディオンで不埒な輩に出会ったときから、それが顕著になった。
妖精狩りや魔人、迷宮攻略と色々なことがあったが、彼女はふとしたときにラキュスの腕や服の裾を掴むことが増えている。
否、ラキュスだけではなく……レオニクスやストラメルに対しても。
そんな彼女を見て思った。
自分一人じゃ足りないのだ、と。
彼女の真っ直ぐな眼差しを見返すのが空しくなり、じわじわと視線が下がる。
目の前に居るのに、これ以上ないほど近いのに。自分だけが、彼女のそばに居たはずだったのに。
焦がれれば焦がれる程、離れていくように感じる。自分一人がぽつんと、仲間たちに囲まれる彼女を遠くから見ているようだ。
数日前には、ティンナトールに聞かれたからとペルシュカの話を皆にしていた。
彼女の支えとなる人物が増えるのはいいことだ。だけど、本当はあの過去を共有している相手は自分だけが良かった。
自分だけが知っていることが無くなってしまえば、自分は彼女にとって替えのきく存在になってしまうのではないか。いつか彼女の視界にさえ入らなくなる日が来るのではないか、とさえ思ってしまう。
そこで視界の端の彼女の瞳が微かに揺れ――。
「っラキュス!」
ぐいっ、と。
背に手を回され、引き寄せられた。いつになく強い力に驚いてされるがままになる。バサバサと布が崩れる音がして、全身が密着する。
気が付いたときには、ぎゅううっと抱き締められていた。
「ちぇ、」
「私、ラキュスが居なくちゃ何にもできないわ!」
「……え」
どうしてそんなことを。
まさか、先程の考えが口から漏れてしまっていたのか。それとも、これは都合の良い夢か。
混乱する頭の中で彼女の言葉が何度も繰り返される中、彼女が再び話し始める。
「私は朝起きるのは苦手だし、髪は自分で乾かすとぐちゃぐちゃになってしまうし、すぐに突っ走ってしまうし、我儘を言ってしまうし、水魔法もラキュスみたいに使えないし淡水だって出せないし、それに、」
「!? チェリ、わかった、わかったから」
「わかっていないわ! ラキュスは凄いのよ! いつも落ち着いて行動できるし、頭もいいし、周りのことをよく見ているし、私が間違っていたら止めてくれるし、強いし、真面目だし、綺麗だし、」
急に耳元で捲し立て始めた彼女に焦る。
褒め殺すような言葉の羅列に面食らうものの、正直その内容の半分以上は彼女にこそ当てはまるように思う。
「もういい、もういいって!」
「だって!」
ぐす、と洟をすする音が聞こえる。微かな震えが全身から伝わってくる。
「ラキュスが、居なくなりそうだったから……! わ、私、絶対、嫌なのに! で、でも、ラキュスが本当にしたいことを止めたくもないし、けれど、やっぱり、寂しいの!」
背に回る腕の力が更に強まった。ぐ、と息が詰まる心地がする。
どうして今自分は彼女を押し潰しているのだろう。床に寝転がってさえいなければ、この背に腕を回して抱き締め返せたのに。
それに、ちゃんと彼女の目を見て話を聞きたかったのに。どうして。
どうして、彼女は。
「置いて、いかないで……」
欲しい言葉をくれるんだろう。
他の仲間たち相手でも同じように言うんじゃないか、なんて野暮なことは聞く気にならなかった。
今の彼女の頭の中は、きっとラキュスのことだけでいっぱいだ。そんな彼女の思考の端にだって、他の誰かをちらつかせたくなかった。
「置いていかない。何があっても」
「……ほんと?」
「ああ。チェリが一人にしてって言っても、してやらない」
「ふふっ。そんなこと言わないわ」
「……知ってる」
耳元でくすくすと笑う彼女の声を聞くのもいいが、その顔が見たい。
ラキュスは起き上がろうと腕にぐっと力を込めた。
彼女の腕の力が緩んだので身体を起こすと、再び最初と同じ姿勢になる。
目が合った彼女は笑みを浮かべていたが、目元が赤みを帯びていた。
「チェリ……」
片腕だけで身体を支えたラキュスは、もう片方の手を彼女の目元に沿わせる。
少し曲げた人差し指の第二関節で濡れたまつ毛に触れれば、彼女は擽ったそうに目を細めた。
「ラキュス」
「……なんだ」
「ラキュスの意思はラキュスのものだし、私もそれを最大限尊重するけれど」
ラキュスは黙って彼女の金の双眸を見つめる。
すると、彼女は目元に触れているラキュスの手を掴み――。
「私は私で激しく主張するから……私から離れられるなんて、思わないでね?」
互いの指を交互に絡め、悪戯っぽく目を細めた。
窓から差し込む光に照らされた彼女の金色は、まるで輝く湖面のようで。
ラキュスの周囲から全ての音が遠ざかり、代わりに自身の早まる鼓動だけを感じる。口を開けば心臓が出てしまうかもしれない。
表情が出にくいこの顔に、今ほど感謝したことはないだろう。
「そっ……、……離れようなんて、思わない」
「うふふ。言わせちゃったわ」
「本心だ」
「……ラキュスも、言いたいことがあるのなら言わなければダメよ?」
「言ってる」
そうかしら、と小首を傾げる彼女。
先程まで涙声だったのが嘘のようだ。もしや計算尽だったのか。
少し気になったが、例えそうだとしても構わない。彼女が辛い気持ちを抱く時間は少ない方がいい。
自分の言葉で悲しませるくらいなら、彼女の手の上で転がされる方が余程いい。
彼女の真っ直ぐな瞳を見ていると、心の中に溜まっていた泥が掬い出されるような心地がした。どんよりと濁っていた視界が晴れてゆく。
――誰がチェリの周りに居ようと構わない。チェリの一番近くに居るのは、俺だから。
そんなラキュスの思いは、作業が終わってレオニクスたちと合流した後も増すばかりだった。




