不安
玄関が開き、大きな銅製の鈴がカランと鳴った。
今日の相談者がやってきた。
歳は5歳、6歳くらいだろうか。
入って来るなり、周りをきょろきょろ見渡して、落ち着かないようだ。
部屋の中心までくると、その子は足を止めて天井のほうをじっと見ている。
その目には、みるみる内に涙がたまっていく。
今すぐにでも零れ落ちそうな涙だ。
オーナーがその子の視線の先を見ると
天井に映像が浮かびはじめた。
天井まで続く階段の先、最上段には
お腹の大きな女性が、彼女を心配そうに見つめながら
手を振っていた。
「いってらっしゃい」
その子の瞳から、とうとう涙があふれでた。
「ママぁ…」
抑え込んだような涙声が、静かな案内所に響いた。
オーナーは見守っていた。
急かすことはせず、泣き止まそうともしなかった。
ただ、蜂蜜色のランプの灯りを少しだけ近くに寄せた。
「ここでは、どんな話をしても大丈夫ですよ。」
その子は、オーナーの言葉でふと我に返ったのか
両手の袖で涙を拭い、目を見開いた。
「…ほんと?」
「はい」
「…ほんとにほんと?」
「はい。ほんとにほんとですよ。」
「怖いって言ってもいいの?」
オーナーはゆっくり、大きくうなづいた。
天井の映像が動きはじめた。
身重の女性が立つ階段が少しずつ遠くなり、見えなくなった。
「ママ、大丈夫かな?
ママ、元気かな?」
みるみるうちに、再びその子の目に涙がたまった。
「ママが心配なんですね。」
オーナーが静かに優しく口を開いた。
「…ママに会いたいんですね。」
大丈夫かどうかなんて、本人にしかわからない。
だから、変わりにそう訪ねた。
その子は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で
しゃくりあげながら、こくりと頷いた。
「ママがね、ヒック…ヒック…赤ちゃんを産むの。」
小さな手は、服の袖をぎゅっと握っている。
「だから、お姉ちゃんたちと一緒に
おばちゃんのおうちにいくの。」
ぽつり、ぽつりと言葉がこぼれ落ちる。
オーナーがその子の横に目を向けると
明るい映像が映りだした。
映像の中で、その子は電車に乗っていた。
スタンションポールを握りながら
涙をためてじーっと足元を見ていた。
涙をためていることを、誰にも気づかれないようにしているようだ。
隣では、姉たちがおばさんの娘と楽しそうに笑っていた。
「ねぇねぇ、次どこ行く?」
「わかんない~!」
はしゃぐ声だけが、その子の耳に届く。
その子の目から涙がこぼれ落ちた。
電車の床が濡れると、零れた涙を靴で擦って消している。
やっぱり、泣いていることを誰にも気づかれたくないんだ。
姉や、おばちゃんとその娘は、その子が見えていないかのように
夢中でおしゃべりして笑っている。
姉たちは、おでかけするのが楽しくてたまらないように見える。
「ママぁ…」
その子の心の声がオーナーに聞こえた。
「泣かないようにしていたのですね。」
その子は驚いたように顔をあげた。
「…だって。」
「だって?」
「ママのお腹には赤ちゃんがいるから。」
小さな消えそうな声だった。
「だから、いい子にしなきゃいけないの。」
映像が変った。
8畳ほどの居間に、姉たちとお姉さん、おばさん、そして
その子がいる。
「ママがいなくて寂しい?」
おばさんは悪気なく笑っていた。
二人のお姉ちゃんとおばさんの子供のお姉さんは
ニヤニヤしながら近づいてきた。
一番上の姉がその子に言った。
「赤ちゃんみたい」
その子はハッとして、慌てて俯いた。
みるみるうちに、顔が真っ赤になっていく。
その瞳には、涙がたまっていく。
「もうお姉ちゃんになるんだから、
いつまでも赤ちゃんしてたら駄目よ~」
おばさんが笑いなから、その子の背中をポンポンと二回たたいた。
一番上の姉は
「ほらね。私が言った通りでしょ。」
そう言いたそうに、鼻で笑った。
その子は顔も全身も熱く火照り、消えたくなっていた。
「ねぇねぇ、じゃんけんしようよ~」
おばさんの子供が言った。
「わ~♡やろうやろう」
姉二人が喜んだ。
「じゃあ、勝った人は負けた人にしっぺしていいのね。
わかった?」
「うん、わかった。」
「じゃんけんポン!!!」
「きゃ~負けた~」
「いい?いくよ~」
ビシっ!!!!
「いた~い!!!」
しっぺされた姉はゲラゲラ転がりながら笑っていた。
「この子も仲間に入れてあげなさい。」
おばさんが、その子も一緒に遊ぶように促した。
「いいよ。じゃあ、じゃんけんね。
じゃんけんわかるでしょ?」
その子はコクンと頷いた。
「じゃあやるよ。早く!!!じゃんけんポン!!!!」
その子はやりたくなかったけれど、やりたくないとは言えず
リズムに乗って、慌てて手を出した。
出した手はグー。
姉はパーだった。
「はい、手を出して」
小さな手を出した。
「手の平を上にして」
姉がその子の手首をつかんで、手のひらを上に向けて固定した。
「いい?いくよ~」
姉の顔は笑っていた。
手を大きく振り上げて、人差し指と中指を振り下げた。
その子には、姉の動作がスローモーションに見えた。
「こ、こわい」
オーナーには、彼女の声が聞こえた。
その子の手首がビシッとなった。
「いたい…」
声も出なかった。
目に涙がたまる。
手首を見ると真っ赤だ。
「大丈夫?」
姉たちとおばさんの子供がその子を見た。
「も~すぐ泣くんだから!
そんなんだから、お姉さんになれないよ!」
「そうだよ! すぐに泣くんだから」
「泣いたら遊べないじゃん。」
姉たちが不満を口にしていた。
その子が涙をためているのに気づくと、
くるっと向きを変えた。
「よし、あっちで続きやろう~」
姉たちが離れていった。
その子は一人で真っ赤になった手首を見ていた。
涙で潤んで絵の具が滲んだように見えた。
落ちそうな涙を服の袖でふきとった。
真っ赤な顔は、もっと真っ赤になった。
「…泣いちゃだめなの。」
不意にその子が言った。
「どうして?」
オーナーが訪ねた。
「だって、ママが大変だから。」
「そうですか。」
オーナーは否定しなかった。
「だから、いい子にしようってがんばっていたのですね。」
「…うん。泣かない。」
「そうですか。」
「…うん。おばちゃんちも楽しくすごさないといけないの」
その瞬間、張り詰めていた小さな肩が、かすかに震えた。
「…ほんとはね。」
「はい。」
「ママと離れたくなかったの。」
「一緒にいたかったの。」
「じゃんけんも、怖かったの。」
「やりたくなかったの。」
「おばちゃんちなんて楽しくないよ。」
涙がポタポタと床に落ちる。
「でも…。でも…。」
「いい子じゃなきゃダメなんだって。」
「お姉ちゃんになるんだから。」
「ママを困らせちゃいけないから」
オーナーは静かに頷いた。
「そうですか。」
「たくさん、たくさん、がんばったのですね。」
その子は顔をくしゃりと歪めた。
そして、はじめて声をあげて泣いた。
「おばちゃんちに行きたくなかったぁ」
「しっぺが怖かったぁ」
「やりたくなかったぁ」
「ママに会いたいぃ」
「お姉ちゃんたちも、一緒にいてほしかったぁ」
「お姉ちゃんたちから『大丈夫だよ』って言って欲しかったぁ」
小さな身体から、押し込められていた気持ちがあふれ出していく。
オーナーはその子の側にいた。
泣きやまらせることも、励ますこともしない。
ただそこにいた。
やがて。
その子の涙は少しずつ落ち着いていった。
「…言っちゃった。」
「…泣いちゃった。」
「…ごめんなさい。」
かすれた声だった。
「謝らなくていいのですよ。
言えましたね?」
「…言えた。」
「泣けましたね?」
「…泣けた。」
「よかったですね。」
「うん。」
その子は、涙の後が残る顔で、小さく笑った。
「ママが大好き。」
「お姉ちゃんたちも好き。」
「だけど…味方でないお姉ちゃんは怖いの。」
「一人だけは怖いよぅ」
「そうなのですね。聞かせてくれて、ありがとうございます。」
「…うん。」
その子は鼻をすすりながら、照れ笑いをした。
心の扉が開いたようだ。
蜂蜜色のランプの灯りが、ふわりと揺れた。
その子の輪郭が淡く光りはじめる。
蜂蜜色の中で光っている。
その子は驚いて、自分の手を見つめる。
「…あれ?」
「大丈夫ですよ。」
「ここにいますから。」
オーナーの声は穏やかだった。
「あなたは、ちゃんとがんばってきましたから。」
「もう一人でがんばらなくても大丈夫です。」
その子は少し考えるように目を瞬いた。
そして
「…ママ、赤ちゃん産まれたかな。」
そう呟いて、はにかむように笑った。
その笑顔は、案内所へやって来た時より、少しだけ柔らかくなっていた。
「はい。きっと。」
オーナーがそう答えると、
小さな蜂蜜色の光は、ほっとしたように一瞬だけ大きく揺れた。
そして、蜂蜜色の灯りに解けるように
すーっとオーナーの胸の中へと吸い込まれていった。
翌日。
オーナーは、ふと自分の胸に手を当てた。
昨日、誰かが訪ねてきたような気がする。
でも、思い出せない。
胸の奥が少しざわついている。
心の中に虫が這うようなざわざわした感じがした。
落ち着かない。
この感覚は昨日までは、感じていなかった感覚だ。
「…落ち着かない」
蜂蜜色のランプが、小さく揺れる。
「これが…。」
「『不安』というものなのでしょうか。」




