第三話 帰りたい
神殿の奥にある部屋へ案内された。
白い壁。
大きな窓。
見たことのない家具。
どこを見ても知らないものばかりだった。
落ち着かない。
全然落ち着かない。
帰りたい。
ただそれだけだった。
扉が開く。
振り返ると、一人の女性が入ってきた。
淡い栗色の髪。
肩までの髪は内側へ柔らかく巻かれている。
同じ色の瞳。
口元には小さなほくろがあった。
綺麗な人だった。
でも。
なぜだろう。
見ていると少しだけ安心する。
女性はテーブルに湯気の立つカップを置いた。
「わたくしはシュルティと申します」
穏やかな声だった。
「お茶、お飲みくださいね」
私はカップを見つめたまま動けなかった。
シュルティさんは小さく微笑む。
「風の神国のお茶は美味しいのですよ」
「風の神国……?」
思わず顔を上げる。
「はい」
シュルティさんは穏やかに頷いた。
「ここは風の神国です」
知らない名前だった。
聞いたこともない。
胸の奥がざわつく。
その時。
再び扉が開いた。
黒髪の男性だった。
石の前にいた人だ。
「失礼いたします」
丁寧な口調。
私の向かいへ腰を下ろす。
そして。
一枚の紙を取り出した。
私は思わず口を開く。
「日本語、上手ですね……」
男性が瞬きをした。
「ニホンゴ、ですか?」
今度は私が瞬きをする番だった。
「え?」
沈黙。
男性は首を傾げる。
「申し訳ありません。ニホンゴとは何でしょうか」
背筋が冷えた。
通じている。
会話はできている。
なのに。
日本語を知らない。
私はゆっくり首を振った。
「なんでもないです……」
男性はそれ以上追及しなかった。
代わりに紙へ視線を落とす。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
名前。
私は少しだけ安心した。
名前なら答えられる。
「高橋ヒカリです」
男性は丁寧に書き留める。
そして顔を上げた。
「タカハシヒカリさん」
「はい」
男性は頷く。
「タカハシヒカリさん」
もう一度言った。
私は少し迷う。
でも。
気になった。
「あの……」
「はい」
「高橋は苗字で」
男性が首を傾げる。
「ミョウジ?」
「家族で同じ名前なんです」
「なるほど」
男性は再び何かを書き込む。
そして。
「ではヒカリさん」
少しだけ肩の力が抜けた。
名前を呼ばれた。
ちゃんと。
それだけのことなのに。
少しだけ安心した。
男性は紙へ視線を落とす。
「私はヴァスキと申します」
そう言って頭を下げた。
「いくつか質問をしてもよろしいでしょうか」
私は頷く。
質問は続いた。
家族のこと。
学校のこと。
住んでいた場所のこと。
でも。
私の頭の中は別のことでいっぱいだった。
そして。
ついに我慢できなくなった。
「あの」
ヴァスキさんが顔を上げる。
「ここ、どこなんですか」
沈黙。
「私、帰れますか」
声が震えた。
ヴァスキさんはすぐには答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
やがて。
静かに口を開く。
「申し訳ありません」
その一言で分かった。
「現時点では、何も分かっておりません」
帰れない。
少なくとも今は。
胸の奥がぎゅっと痛くなる。
視界が滲んだ。
慌てて俯く。
泣きたくない。
でも。
無理だった。
ぽたり。
膝の上に雫が落ちる。
その瞬間。
堪えていたものが一気に溢れ出した。
「っ……」
声にならない。
次から次へと涙が零れる。
止めようとしても止まらない。
家に帰りたい。
お母さんに会いたい。
お父さんに会いたい。
お兄ちゃんに会いたい。
怖い。
怖い。
怖い。
気付けば幼い子どものように泣いていた。




