第2章:曇るレンズ
あの日から、優菜は毎朝、同じ車両を少しだけ意識するようになりました。
名前も知らない。
声も、まだ知らない。
それでも、キャメル色の背中を見つけるだけで、冷たい朝が少しだけ違って見えるようになります。
今回は、そんな二人が初めて言葉を交わすお話です。
一月中旬、藤沢。雨の朝。
桐生拓也、四十六歳。大手ゼネコンの本社に勤めるエンジニアの朝は、決まった手順でできている。
庭のレモンの実を見る。キャメル色のカシミヤコートを羽織る。藤沢から東海道線に乗り、横浜駅では、いつもの車両の、いつものドア位置に立つ。
十年前から、この静かな家で同じ作法を繰り返してきた。変わらない手順は、今の拓也にとって平穏そのものだった。
乗り換えの階段に近い位置。現場時代からの癖で、立ち位置はいちど決めたら変えない。そういう小さな規律が、今の拓也には何より落ち着いた。
コートの襟に残る冷たい雨の匂いを感じながら、いつもの仕切り板に背を預ける。
ふと視線の先、ホームの柱のそばにいる「銀縁眼鏡の彼女」が目に入った。十二月のあの遅延の日、殺気立った車内で、自分の腕の中に不時着してしまった小柄な女性だ。
彼女の名前も、職業も知らない。
ただ、あの日、折れそうなほど細い背中で眼鏡を必死に守っていた姿だけが、妙に記憶に焼きついている。放っておけない、という感覚が先に立った。
(……今日も、いるな)
数日前、彼女はパニック寸前の顔で、こくりと小さく会釈をしてきた。
拓也は表情を変えず、ただ静かに頷き返した。それだけで耳の端まで林檎みたいに赤くなるのを見て、理由の分からない可笑しさに、ほんの少し目を細めた。
*
……いた。本当におった……! って、喜んでどうするの私!
大手町に着いた瞬間、今朝の動揺は強制パージだ。
ここは外資系証券会社。秒単位で数億が動く、感情を殺した者だけが生き残れる世界。
私は銀縁眼鏡を指先で整え、背筋を伸ばして役員会議室のドアを開けた。
「……以上が、東南アジア圏における半導体市場の予測です。リスクヘッジとして、サプライチェーンの多角化を推奨します」
淀みのない英語、冷徹なまでに正確なデータ。上司からは「朝比奈さんは、時々人間であることを忘れてるんじゃないか」と冗談半分に言われる。
(……鉄の女ね。今朝、会釈ひとつで心拍数が運動部並みに跳ね上がってた女が、どの口で市場リスクを語ってんだか)
昼休み。同期の由紀が私の向かいに座るなり、意地悪く目を細めてにやりとした。
「優菜、あんた今日、コーヒーに砂糖二個入れてたよ。あの、ブラックしか勝たんって言ってた朝比奈さんが。何かあった?」
「……脳が急激に糖分を欲しただけ。……あと、今日、会釈しちゃった。例の『らくださん』に。向こうも、頷いてくれた気がする」
「は? 江戸時代の武士か何か? 進捗が室町幕府なんだけど」
由紀が吹き出した。私はそれを無視して、窓の外を見る。
冬の空は、大手町のビルの隙間で、ひどく冷たく、どこか澄んで見えた。
(……あの人は、どこから来てるんだろう。明日も、会えるかしら)
*
その日も、雨は容赦なかった。
湿った空気がホームに停滞し、電光掲示板には「遅延」の二文字が出ている。
「……くっ」
ドアが開いた瞬間、背後から殺人的な圧力がかかった。
(……ちょっと待って。そっちはダメ。そっちは聖域!)
私の計算では、今日は三メートルほど離れた位置から「らくださん」を安全に遠隔観測する予定だったのに。
物理法則は、私の乙女心より乗車率を優先した。人の波に押し流され、抗う間もなく私は「そこ」に不時着していた。キャメル色のコート、あの仕切り板のすぐ目の前。
見上げると、あの人の静かな瞳が、驚いたように私を見下ろしていた。
至近距離で、あの匂いがした。柑橘の皮を潰したような、不器用で、でも優しい匂い。雨の日の湿った空気の中で、その香りはより鮮明に鼻を掠めた。
(……ち、近い)
彼の腕が、私を守るように両サイドの手すりを掴んでいる。
殺伐とした満員電車の中に現れた、二人分だけのエアポケット。カシミヤのコートの繊維まで見えるほど近いのに、不思議と怖いだけじゃない。安堵と緊張がいっぺんに押し寄せて、私は思わず深く熱い息を吐き出してしまった。
「……ふぅ」
その瞬間だった。
外気でキンキンに冷えていた銀縁が、自分の呼気と車内の湿気に敏感に反応した。
モワッ。
ホワイトアウト。
一寸先はキャメル。世界が消えた。
(……最悪)
眼鏡の奥で、視線が泳ぎまくる。
真っ白なレンズの向こうで、彼がどんな顔をしているのかまったく分からない。沈黙が、永遠みたいに重かった。
(……何とか言わなきゃ。この白い沈黙を、どうにかしないと)
脳内CPUが熱暴走を起こした。私は真っ白な視界のまま、虚空に向かって声を絞り出した。
「……っ、お、おはようございます……! あ、朝、お騒がせしてます……!」
裏返った、情けない声。
絶望しかけた、その時。頭の上から、冬の陽光みたいな温かい音が降ってきた。
「……おはよう」
一呼吸置いて、さらに低く、囁くような声が続く。
「……眼鏡、曇ってる」
(……知ってる)
「……拭ける?」
真っ白なレンズ越しに、彼が肩で押し返さず、ほんの半歩だけ身を引いて空気を作ってくれた気配がした。急かさない、静かな時間。
私は顔から火が出るのを感じながら、震える指先で眼鏡を少しだけずらした。
レンズの隙間から見えた彼の口元は、確かに優しく緩んでいた。大人の男の、余裕と慈愛。
(……だめだ)
私の“年齢の証明書”は、たぶん、さっきの会釈のときからもう、役に立たなくなっていたのだ。
*
あの子、今日は眼鏡が曇って困っていたな。
拓也は帰宅後、一人静かなキッチンで口角を上げた。
裏返った「おはようございます」の響きを思い出し、庭先で冷えたレモンの実に指先を触れる。微かな苦味のある香りが、皮膚に残る。
(……不器用な挨拶だったな)
名前も知らない彼女が、なぜあんなに必死に眼鏡を死守しているのか。理由はわからない。
ただ、今日起きた小さなトラブルさえ、どこか微笑ましく感じている自分がいた。
明日もまた、あの車両に乗る自分の姿だけは容易に想像できた。
レモンの枝に触れた指先が、今夜は少しだけ、春をひとつ覚えた。
「……眼鏡、曇りませんように」
呟いてから、拓也は少しだけ眉を寄せた。
(……祈る先、間違ってないか)
部屋の明かりを消す。
静まり返った家の中に、雨の音だけが残っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
勇気を出して挨拶をした優菜と、静かにそれを受け止めた彼。
ほんの短い「おはよう」でしたが、名前も知らなかった二人の距離は、確かに少しだけ縮まりました。
そして、優菜の大切な“年齢の証明書”である銀縁眼鏡も、彼の前では少しずつ役目を失い始めています。
次話「懐の聖域」では、二人のあいだに生まれた小さな安心感が、さらに深まっていきます。




