第1章:冷蔵庫のホーム
冬の満員電車で出会った、名前も知らない人。
朝比奈優菜にとって、そのキャメル色の背中は、凍えた朝に突然現れた小さな避難場所でした。
ここから始まる二人の物語を、どうぞ最後まで見守っていただけたら嬉しいです。
十二月の横浜駅は、巨大な冷蔵庫の底だ。
それも、長年手入れを忘れて霜がびっしり張りついた、古い直冷式タイプ。吐き出す息は白く滞留し、ホームを埋め尽くすコートの群れに吸い込まれていく。私はその一角で、今日も「負けない顔」を貼りつけていた。
朝比奈優菜、二十七歳。
外資系証券会社のアナリスト、入社三年目。大手町の高層ビルで、秒単位で動く数字を追い、冷徹な分析をレポートに落とし込むのが私の仕事だ。曖昧さに甘えた人間から先に置いていかれる場所で、私は「若く見える女の子」ではなく、「判断できる人間」として立っていなければならない。
そんな私にとって、この銀縁眼鏡は、ただの視力矯正器具じゃない。
どちらかといえば――年齢の証明書であり、防具だ。
(……よし。角度よし。これで今日も『高校生のインターン?』なんて言わせない)
童顔。昔からずっと、それが私の弱点だった。
つい先月もコンビニで「学生証あります?」と聞かれた。二十七歳、慶応義塾大学院卒。経歴をいくら積み上げても、見た目だけで判断される場では、「可愛げ」なんて武器じゃなくて隙になる。
しかも金融の世界は、思っているより露骨だ。会議室で一瞬だけ向けられる「この子で大丈夫?」という視線。説明を始めて数秒で値踏みするような空気。そういうものを、私は何度も見てきた。
だから私は、この硬質な銀縁で輪郭を切り取る。
弘明寺の部屋にいる私が、大手町で透けないように。少し頼りなく見える素の自分を、そのまま満員電車や会議室に連れていかないために。
カツン、とヒールの音を響かせて東海道線の列に加わる。
ネイビーのセットアップに、ライトグレーのチェスターコート。バッグの中にはノートPCと資料、スマホの画面には朝から未読のメール。全部まとめて、これが平日の私だ。
完璧。
そう自分に言い聞かせた直後、電光掲示板の無慈悲な文字が目に飛び込んできた。
『7時48分発 東京行き 遅延』
(……はぁ!? また? 私の午前中のミーティング、一分でも遅れたら普通に嫌なんだけど!)
心の中の声は、いつだって騒がしい。
仕事中は「承知いたしました、至急確認します」と涼しい顔で答えるくせに、脳内では不満とツッコミがものすごい速度で炸裂している。表に出す顔と、内側で暴れている声。その落差だけで、たぶん私は結構なエネルギーを消耗している。
数分遅れて滑り込んできた車両は、すでに飽和状態だった。
ドアが開いた瞬間、物理法則を無視した密度で人が押し出され、また押し込まれる。私は人の波に飲まれ、辛うじて車両の中央付近まで運ばれた。
「くっ……!」
背後から容赦ない圧力がかかる。
斜め後ろのサラリーマンの肘が、私の肩をえぐった。
(……ちょっと待って、酸素! あと、眼鏡に触らないで! これがずれたら、私の“ちゃんとして見える感じ”まで一緒に吹っ飛ぶんだから!)
視界が揺れ、ヒールが石床を滑る。
眼鏡のブリッジに触れた指先まで冷えていた。押されるたびに、自分が少しずつ薄くなっていくみたいだった。
いよいよ限界だ、と思った、その時だった。
ふっと、殺人的な圧力が消えた。
私の鼻先をかすめたのは、冬の冷たい空気と、それから――
微かに苦味のある、柑橘の皮を潰したような香り。そこに、清潔な石鹸の匂いが重なる。
(……え?)
恐る恐る顔を上げる。
そこには、しなやかな「壁」があった。
私を囲うように両脇へ伸びた二本の腕。
つり革と手すりを掴むその腕が、押し寄せる人の波をきれいに遮断している。目の前にあるのは、しっとりと上品な艶を湛えた、キャメル色のカシミヤコートだった。
押されるたびに、その人の腕に外側の力が吸収されていくのが分かる。こちら側にだけ、奇跡みたいに静かな空気が残っていた。
(……なに、この安心感)
キャメル色のコートに守られた小さな空間で、私は久しぶりに肺いっぱいの酸素を吸い込んだ。
助けられた、という感覚が、こんなに怖くて温かいなんて知らなかった。
ただスペースができただけなのに、心臓の打ち方まで変わる。世界の圧が、一段だけ遠のく。
見上げれば、端正な横顔があった。
すっと通った鼻筋、短く整えられた清潔な黒髪。彼は私を見ていなかった。嫌味のない沈黙のまま、ただまっすぐ前を見ている。
助けたことを恩に着せるでもなく、こちらの慌てぶりを面白がるでもなく、まるで最初からそこに壁が存在していたみたいな自然さだった。
(……ありがとう)
結局、最後まで、その人の目を見ることはなかった。
けれど大手町へ向かう電車の中で、私の凍えきった心には、その背中の温度だけが静かに残り続けていた。
*
午後十時、弘明寺。
木造アパートの玄関を開け、パンプスを脱ぎ捨てる。銀縁眼鏡を外してデスクに置くと、視界がふわりと軽くなった。これが、私の「素」の世界だ。
壁の薄い部屋、最低限の家具、干しっぱなしのタオル。大手町の高層ビルとはまるで別世界の、誰にも見せない生活の地肌。
冷蔵庫から取り出したレモンサワーのプルタブを引く。
鋭いシトラスの香りが弾けた。
(……はぁー、生き返る)
一口飲み干した瞬間、鼻の奥に、朝の香りがまだ残っていることに気づいた。
柑橘の皮を潰したような、あの静かな匂い。
レモンサワーの人工的な明るさとは少し違う、もっと乾いてやさしい香りだった。
スマホが枕元で震える。親友の由紀からだ。
『遅延地獄、生きてる? で、何分遅れた?』
『生きてる。遅延は15分。あと、パイロンがいた。キャメルのカシミヤ着た、めっちゃいい匂いのパイロン』
『キャメルのカシミヤ? それ反則。今日からその人は「らくださん」です。砂漠の守り神』
『ちょっと待って、勝手に変な名前つけないでよ』
『で、イケメンだった? 運命の出会い?』
『……整ってた。あと、ただのパイロン扱い。外資のアナリストを何だと思ってるの』
『それもう意識してるやつじゃんw』
『あるわけないでしょ。ただの業務外事案だってば。もう寝る!』
スマホを伏せて、残りのサワーを喉に流し込む。
明日もまた、あの冷たいホームに行かなければならない。数字は待ってくれないし、電車もたぶんまた遅れるし、私はまた銀縁眼鏡で武装して、大手町まで出ていく。
でも、少しだけ。
ほんの少しだけ、明日が来るのが怖くない自分がいる。
(……ただの、親切な人なのに)
暗い部屋の中で、私はデスクに置いた眼鏡に手を伸ばした。
明日の朝、私はきっと――今日と同じ車両、同じ場所を選んでしまうだろう。
それは合理的な行動のつもりで、たぶん少しも合理的じゃない。
冬の夜風がアパートを揺らす。
弘明寺の空は、大手町より少しだけ、星が見えた。
(……別に、期待してるわけじゃないけど)
もし明日、またあのキャメル色の背中がいたら。
(その時は――ちょっとくらい、目くらい見てあげてもいい)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
毎朝、銀縁眼鏡で自分を武装して働く優菜。
そんな彼女を、何も言わずに守ってくれたキャメル色のコートの男性。
名前も知らず、言葉さえ交わしていない二人ですが、優菜の中では、もう小さな変化が始まっています。
翌朝、優菜が同じ車両、同じ場所を選んだ先に、あの背中は再び現れるのでしょうか。
次話「曇るレンズ」もお楽しみください。




