第六話 深谷の聖女
第六話 深谷の聖女
「リーネ」
「はい?」
「妙な臭いがする」
洞窟の外で、アッシュが眉を寄せた。
深谷を吹き抜ける風の中に、かすかな煙の匂いが混じっている。
焦げ臭い。
それに、どこか嫌な空気だった。
リーネも鼻をひくつかせる。
「……ほんとだ」
最近の深谷は平和だった。
アッシュの存在を恐れてか、強力な魔獣も近寄らない。
だから余計に違和感がある。
リーネは谷の上を見上げた。
遠く。
崖の向こう側に、細い煙が立ち昇っている。
「村かな」
「人間の集落だろう」
アッシュが淡々と言う。
その時。
ぐううううう……。
アッシュの腹が鳴った。
リーネは呆れた顔になる。
「緊張感ないですね……」
「腹は減る」
「さっき食べましたよね?」
「歩くと減る」
「燃費悪すぎません?」
アッシュは真顔で腕を組んだ。
「リーネ」
「なんです?」
「腹が減っている人間は危険だ」
「え?」
「機嫌が悪い」
リーネは思わず吹き出した。
「アッシュさん基準だと全部ご飯で解決しません?」
「大体そうだ」
妙に説得力があった。
結局、二人は煙の上がる方向へ向かうことにした。
崖道を登る。
風が冷たい。
途中、痩せた畑が見えてきた。
土は乾き、作物もほとんど育っていない。
さらに進むと、小さな村が現れた。
だが――静かすぎた。
家は古く、柵も壊れている。
道を歩く村人たちはみんな痩せ細り、顔色が悪い。
子供の泣き声すら弱々しかった。
リーネは胸が締めつけられる。
「あ……」
村の入り口で、一人の老人がこちらへ杖を向けた。
「止まれ!」
しわがれた声だった。
老人の後ろには、疲れ切った男たちが武器を構えている。
「深谷から来たのか……!?」
「化け物め!」
警戒と怯えが混じった目。
アッシュがわずかに眉を寄せる。
空気がぴりついた。
だがその前に、リーネが慌てて前へ出た。
「ま、待ってください! 怪しい者じゃありません!」
「隣に化け物がいるだろうが!」
「化け物ではない!」
アッシュが即座に抗議する。
「俺は腹の減った竜だ」
「余計怖いです!」
リーネは頭を抱えた。
その時だった。
ごほっ、ごほっ。
近くで小さな咳が聞こえる。
振り返ると、幼い少女が壁にもたれていた。
顔色は真っ青。
痩せた身体。
唇も乾いている。
リーネは思わず駆け寄った。
「大丈夫!?」
少女は弱々しく笑う。
「へいき……」
全然平気じゃなかった。
熱もある。
栄養不足だ。
リーネの胸がぎゅっと痛む。
「……何があったんですか?」
老人が苦い顔をした。
「凶作だ。病まで流行った」
「薬師は?」
「死んだ」
沈黙。
風だけが冷たく吹き抜ける。
リーネは周囲を見た。
みんな疲れ切っている。
空腹と病で、目に光がない。
その時、アッシュがぽつりと言った。
「リーネ」
「はい」
「飯を作れ」
リーネは目を瞬く。
アッシュは真顔だった。
「腹が減っている」
「いやアッシュさんじゃなくて」
「全員だ」
その言葉に、リーネははっとした。
そうだ。
みんな、お腹を空かせている。
リーネは大きく頷いた。
「……はい!」
村の古い炊事場を借りる。
鍋はボロボロだったが、使えないほどではない。
リーネは深谷から持ってきたアビス・ライスを取り出した。
さらに薬草、根菜、干し肉。
水を鍋へ注ぐ。
火を灯す。
ことこと、と優しい音が鳴り始めた。
村人たちは遠巻きに見ている。
警戒しているのだろう。
それでも、鍋から立ち昇る香りに、みんな無意識に鼻を動かしていた。
肉の旨味。
米の甘い匂い。
薬草の優しい香り。
冷えた空気の中で、その湯気だけが温かい。
リーネは静かに魔力を流した。
【水】。
粥の口当たりを滑らかに整える。
【光】。
食材の栄養を活性化し、身体へ染み込みやすくする。
強い魔法じゃない。
けれど、優しい魔法だった。
リーネはそっと鍋を混ぜる。
「おいしくなりますように」
その声は、小さな祈りみたいだった。
やがて完成した粥を、リーネは器へ盛る。
「どうぞ」
最初に受け取ったのは、あの少女だった。
小さな手が震えている。
ふうふう、と息を吹きかけ、一口食べる。
その瞬間。
少女の目がぱっと開いた。
「あ……」
頬へ、じわりと赤みが戻る。
「おいしい……!」
かすれていた声に力が宿る。
さらにもう一口。
もう一口。
夢中で食べ始めた。
「身体、ぽかぽかする……!」
その声を聞いた瞬間、村人たちがざわめく。
老人が恐る恐る粥を口へ運ぶ。
しばらく沈黙。
そして。
「……なんだ、これは」
震える声だった。
「身体が、軽い……」
男たちも次々食べ始める。
誰も喋らない。
ただ夢中で食べている。
器が空になる音だけが響いた。
その光景を見ながら、アッシュが満足そうに頷く。
「うまそうだな」
「食べます?」
「当然だ」
アッシュは特大の器を受け取り、一気に粥をかき込んだ。
「……うまい」
「知ってました」
「染みる」
「お粥ですから」
すると、さっきの少女がリーネの服をちょんと掴んだ。
大きな瞳がきらきらしている。
「おねえちゃん」
「ん?」
「ごはん、世界一!」
その笑顔を見た瞬間。
リーネの胸の奥が、じんわり熱くなった。
昔。
ルファスたちは、料理なんて雑用だと言った。
火力の弱い魔法に価値はないと笑った。
けれど今。
自分の料理で、誰かが笑っている。
誰かが元気になっている。
それが、たまらなく嬉しかった。
アッシュが隣でふっと笑う。
「リーネ」
「はい?」
「お前、嬉しそうだな」
リーネは少し照れくさそうに笑った。
「……はい。すごく」




