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第四話 失われた日常

第四話 失われた日常


「うっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっまず!!」


ルファスの怒声が森へ響いた。


がしゃん、と木皿が地面へ叩きつけられる。


中身のシチューが泥の上へ飛び散った。


鼻を突くような獣臭さが広がる。


野営地の空気が、一瞬で凍りついた。


焚き火の前では、新しく雇われた料理番の男が顔を青くして震えている。


「も、申し訳ありません……!」


「謝って済むか! なんだこの腐った雑巾みたいな味は!!」


「く、腐っては……」


「臭ぇんだよ!!」


ルファスは舌打ちした。


口の中に残る鉄臭い味が最悪だった。


噛むたびに、肉から嫌な臭みが広がる。舌へまとわりつく脂も重く、飲み込むだけで吐き気がした。


隣では、僧侶のクラリスが顔をしかめている。


「……本当に酷い匂いね」


「だろ!?」


「以前はこんなことなかったのに……」


その言葉に、空気が微妙に止まった。


以前。


つまり、リーネがいた頃。


ルファスは眉を寄せる。


「……あいつの飯は普通だったろ」


「普通ではありませんでしたわ」


クラリスはスプーンを置いた。


「今思えば、かなり質が高かったのかもしれません」


「はぁ?」


「肉の臭みもありませんでしたし、長旅でも疲れが残りませんでしたもの」


ルファスは鼻で笑う。


「大げさだろ。ただの雑用係だぞ」


そう。


リーネは雑用係だった。


戦闘では役に立たない。


火力もない。


剣も使えない。


だから、荷物持ちと料理と野営準備を任せていた。


それだけだ。


――そのはずだった。


ぐううう……。


腹の奥が嫌な音を立てる。


ルファスの顔が歪んだ。


「っ……またかよ……!」


「ルファス?」


「くそ、腹痛ぇ……!」


彼は慌てて茂みへ駆け込んだ。


後ろから、パーティーメンバーたちの沈んだ声が聞こえる。


「俺も最近ずっと腹壊してるんだよな……」


「肉の処理が甘いんじゃないか?」


「保存食も三日で腐ったし……」


「結界も薄くなってる。昨日なんて魔獣が近くまで来てたぞ」


不満が次々漏れていた。


以前はこんなことなかった。


野営地はいつも快適だった。


焚き火の火加減もちょうどよく、寝袋は乾いていて、水も綺麗だった。


魔獣肉は臭みがなく、疲労も残らない。


長期遠征でも、誰も大きく体調を崩さなかった。


だが今は違う。


すべてが雑だった。


すべてが不快だった。


「くそっ……!」


茂みの奥で、ルファスは額へ汗を浮かべながら悪態をつく。


腹が痛い。


身体が重い。


苛立つ。


最近ずっと調子が悪かった。


剣も鈍る。


魔法の制御も荒れる。


眠っても疲れが抜けない。


そのくせ、空腹だけは異様に強い。


食べても満たされない。


むしろ食べるほど気持ち悪くなる。


最悪だった。


「なんなんだよ……」


ルファスは荒く息を吐いた。


その時。


ふわり、と風が吹く。


鼻先を、微かな香りがかすめた。


肉と香草の香り。


温かなスープの匂い。


ほんの一瞬。


脳裏に、見慣れた後ろ姿が浮かぶ。


焚き火の前で鍋を混ぜる少女。


『火が強すぎると、お肉硬くなっちゃうんですよ』


そう言って笑っていた顔。


ルファスは苛立ったように頭を振った。


「……なんで今さら」


死んだはずだ。


あんな谷へ落ちて、生きているわけがない。


なのに。


妙に思い出す。


毎晩出てきた温かいスープ。


香ばしい焼きたての肉。


疲れた身体へ染みる雑炊。


あれが“普通”だと思っていた。


でも今、目の前にあるのは臭いシチューだけだ。


ルファスは顔をしかめる。


野営地へ戻ると、戦士のガドが肉を齧りながら顔をしかめていた。


「硬ぇ……」


「焼きすぎなんだよ!」


料理番が叫ぶ。


「火力が強すぎて調整できねぇんです!」


「はぁ!?」


ルファスは怒鳴った。


「肉焼くくらい誰でもできるだろうが!」


その瞬間、クラリスがぽつりと言った。


「……リーネは、できていましたわね」


また沈黙。


ぱちり、と薪が爆ぜる音だけが響く。


クラリスは静かに続けた。


「火加減も、水分量も、全部ちょうどよかった。今思えば、あれだけ大量の食事を毎回失敗なく作るなんて……異常だったのかもしれません」


「お前、まさかあの無能を評価してんのか?」


「評価、というより事実ですわ」


クラリスは冷めた目でスープを見る。


「少なくとも、今の料理番よりは遥かに優秀でした」


料理番の男が涙目になる。


ルファスは舌打ちした。


気に入らない。


リーネを褒める空気そのものが気に入らなかった。


あいつは役立たずだ。


そうでなければならない。


でなければ、自分が間違っていたみたいじゃないか。


その時だった。


ばさっ、と結界の布が大きく揺れる。


次の瞬間。


グルルルル……。


低い唸り声。


闇の向こうに、赤い眼がいくつも浮かんでいた。


「魔獣!?」


ガドが剣を掴む。


クラリスが悲鳴を上げた。


結界が薄い。


以前なら絶対に近寄られなかった距離まで、魔獣が来ている。


ルファスは舌打ちしながら立ち上がった。


「くそっ、なんでこんな――」


言いかけて、止まる。


脳裏に蘇る。


毎晩、リーネが一人で結界石を調整していた姿。


『風向き変わってるので、東側補強しておきますね』


『夜は湿気が強いので、火弱めます』


『保存庫、冷やしておきました』


当たり前だと思っていた。


誰でもできると思っていた。


けれど今。


誰一人、それをできていない。


魔獣の唸り声が近づく。


ぎらつく牙。


腐臭混じりの息。


緊張が走る。


その中で、料理番の男が震える声で呟いた。


「……前の子、ほんとに優秀だったんじゃ」


「黙れ!!」


ルファスが怒鳴った。


苛立ちと焦りが混ざった声だった。


だが誰も、もう反論しなかった。


冷えたスープからは、嫌な臭いだけが立ち上っていた。



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