第三話 極上ローストビーフ
第三話 極上ローストビーフ
「リーネ、起きろ」
低い声とともに、頬をつんつん突かれた。
「んぅ……」
まだ眠い。
深谷の朝は薄暗く、洞窟の外から差し込む光も青白い。冷えた空気の中で、リーネは毛布へ顔を埋めた。
「あと五分……」
「飯」
「起きます!」
がばりと身体を起こす。
すると目の前に、アッシュが腕を組んで立っていた。相変わらず無駄に顔がいい。けれど今は、その肩に担いでいる巨大な肉塊の方へ目が行った。
リーネは目を丸くする。
「えっ」
どさり。
地面へ置かれたそれは、小さな机ほどの大きさがあった。
艶のある赤身。きめ細かな脂。切断面からはじわりと肉汁が滲み、深い香りが漂っている。
見ただけで分かった。
とんでもなく上等な肉だ。
「な、ななな、何ですかこれ!?」
「朝飯」
「規模がおかしい!」
アッシュは不思議そうに首を傾げる。
「腹が減ったから狩った」
「普通そんな山みたいなお肉狩ってきません!」
「そうなのか?」
「そうなんです!」
リーネは肉へ駆け寄った。
そっと触れる。
しっとり柔らかい。
指先へ吸い付くような弾力。
鼻を近づければ、濃厚なのに嫌味のない甘い香りがした。
「……すごい」
思わず呟く。
「これ、ギガント・バイソンですよね」
「ああ」
「幻級魔獣じゃないですか!」
地上なら王侯貴族でも滅多に食べられない最高級食材だ。
リーネの胸が高鳴った。
料理人としての本能がざわざわ騒ぐ。
「食うか?」
「食べます!」
「そうか」
「でもその前に調理します!」
「そのまま齧ればいいだろ」
「だめです!」
リーネはびしりと指を突きつけた。
「こんな良いお肉、最高に美味しくしないと失礼です!」
アッシュは目を瞬く。
それから、少しだけ口元を緩めた。
「……お前、変なところで熱いな」
「料理は真剣勝負なんです!」
リーネは腕まくりをした。
まず肉の塊を丁寧に切り分ける。
包丁がすっと入った。
柔らかい。
しかも繊維が美しい。
「わぁ……」
切っているだけで楽しい。
リーネは軽く塩を振り、深谷で採れた香草を擦り込んでいく。
するとアッシュが隣から覗き込んだ。
「何をしている」
「下味です。お肉をもっと美味しくするんですよ」
「もう十分美味そうだが」
「もっとです」
リーネは真剣な顔で答える。
その横顔を、アッシュはじっと見つめていた。
やがてリーネは地面へ手をかざした。
淡い茶色の光が広がる。
ごごご、と岩が動いた。
地面が盛り上がり、滑らかな石壁が組み上がっていく。
「おお……」
アッシュが感心したように声を漏らす。
リーネは胸を張った。
「即席石窯です!」
「そんなこともできるのか」
「【地】魔法、戦闘は苦手ですけど、こういうの得意なんです」
石窯の中へ火を灯す。
ぱちぱちと薪が弾けた。
熱気が広がる。
リーネは肉の表面を一気に焼き始めた。
じゅううううっ!
凄まじい音。
脂が弾け、香ばしい匂いが洞窟いっぱいへ広がった。
アッシュの耳がぴくりと動く。
「……っ」
「まだですよ」
「匂いが危険だ」
「危険?」
「腹が減る」
「もう減ってるじゃないですか」
リーネは笑った。
焼き色がついた瞬間、今度は石窯へ肉を入れる。
そして、目を閉じた。
【風】。
そっと魔力を流す。
石窯の中で空気が回り始めた。
熱が均等に巡る。
強すぎず、弱すぎず。
肉の中心へ、ゆっくり熱を通していく。
リーネは集中していた。
肉汁を逃がさないように。
繊維を壊さないように。
香草の香りを優しく馴染ませるように。
火力は弱い。
だからこそ、丁寧にできる。
リーネはこの時間が好きだった。
静かな熱。
漂う香り。
少しずつ“美味しくなっていく”瞬間。
その時、アッシュがぽつりと呟く。
「お前は楽しそうに料理をするな」
リーネは顔を上げた。
「そう、ですか?」
「ああ」
アッシュは石窯を見つめている。
「魔法を使う時より、生き生きしている」
リーネは少し黙った。
炎がぱちりと爆ぜる。
「……料理、好きなんです」
小さな声だった。
「誰かが美味しそうに食べてくれるの、嬉しくて」
ルファスたちは、そんなリーネを馬鹿にしていた。
『雑用係』
『料理番』
『役立たず』
思い出すと胸が痛む。
けれど。
アッシュは違った。
この竜は、ちゃんと“美味しい”と言ってくれる。
ちゃんと食べてくれる。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「……できました」
リーネは石窯から肉を取り出した。
表面はこんがり焼けている。
ナイフを入れる。
す、と刃が沈んだ。
そして。
切り口から、透明な肉汁がじわりと溢れる。
断面は完璧な薔薇色だった。
アッシュの喉がごくりと鳴る。
「食っていいか」
「どうぞ!」
その瞬間、アッシュの手が消えた。
速い。
気づけば分厚い肉が一枚消えている。
「……うまい」
低い声が漏れる。
さらに一口。
「うまい」
もう一口。
「なんだこれは……!」
アッシュの目が本気で見開かれていた。
普段は余裕だらけの顔なのに、今は完全に理性が飛んでいる。
肉を噛むたび、じゅわりと肉汁が溢れる。
濃厚な旨味。
香草の爽やかな香り。
柔らかな赤身。
脂は甘く、舌の上で溶けていく。
「やばい」
アッシュが真顔で言った。
「止まらん」
「よ、よかったです」
「よくない」
「えっ」
「全部食ってしまう」
もう食べてるじゃないですか、とリーネは思った。
アッシュは夢中で肉を食べ続けている。
その姿がなんだか可笑しくて、リーネは吹き出した。
「ふふっ」
「なんだ」
「そんなに美味しそうに食べてもらえると、嬉しいなって」
アッシュの動きが止まる。
金色の瞳が、まっすぐリーネを見た。
「当然だろう」
「え?」
「お前の飯は、世界一うまい」
リーネは目を丸くした。
次の瞬間。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
今まで何度も否定されてきた。
価値がないと言われてきた。
けれど今。
目の前には、本当に幸せそうな顔で料理を食べる人がいる。
その事実だけで、涙が出そうだった。
リーネは慌てて顔を逸らす。
「ど、どうした」
「な、なんでもないです!」
「変なやつだな」
「アッシュさんにだけは言われたくないです!」
洞窟へ笑い声が響く。
冷たかった深谷の底で。
初めて、温かな居場所ができた気がした。




