第二話 深谷の黒い竜
第二話 深谷の黒い竜
暗闇の奥で、金色の瞳が揺れていた。
リーネは息を呑む。
喉がからからに乾いている。冷たい汗が背中を伝った。谷底の空気そのものが、その存在に怯えているようだった。
ずしり、と重い音。
巨大な影が一歩近づくたび、地面が微かに震える。
月明かりすら届かない深谷の底で、それはまるで夜そのものが形を持ったような姿だった。
漆黒の鱗。岩のように太い四肢。鋭い牙の並ぶ口元から、白い吐息がゆっくり漏れる。
竜だ。
それも、ただの竜ではない。
幼い頃に絵本で見たことがある。国一つを滅ぼすと言われる古代種。人間では絶対に敵わない災厄。
古竜。
「ひ……」
逃げなきゃ。
頭ではそう分かっているのに、足が動かなかった。
金色の瞳がじっとこちらを見つめている。
いや、違う。
リーネは気づいた。
見られているのは、自分じゃない。
古竜の視線は、リーネの手にある器へ注がれていた。
正確には――湯気の立つスープへ。
ぐうううう……。
低く長い腹の音が谷底へ響いた。
リーネは目を瞬かせる。
古竜は気まずそうに視線を逸らした。
「…………」
「…………」
沈黙。
気まずい。
あまりにも想像と違う空気だった。
リーネは恐る恐る口を開く。
「あ、あの……お腹、空いてるんですか?」
古竜の喉がごくりと鳴った。
「……その匂いが悪い」
低い声だった。
岩が擦れるような重い響き。それでもどこか弱々しい。
リーネは改めて古竜を見上げた。
巨大な身体。
けれど、その漆黒の鱗には無数の傷が走っている。鎖のような赤黒い紋様が身体中へ食い込み、嫌な気配を放っていた。
苦しそうだった。
息も荒い。
金色の瞳もどこか濁って見える。
リーネは胸の奥がちくりと痛んだ。
怖いはずなのに。
この竜を見ていると、なぜか放っておけない。
「あの……よかったら」
リーネは器を差し出した。
「食べますか?」
古竜がぴくりと眉を動かす。
「……人間。俺が怖くないのか」
「こ、怖いです」
即答だった。
「すごく怖いです」
「…………」
「でも、お腹空いてるのは辛いですよね」
リーネが小さく笑う。
古竜はしばらく黙っていた。
やがて巨大な顔がゆっくり近づいてくる。
熱い吐息が頬を撫でた。
恐ろしいほど鋭い牙。
だが、その金色の瞳は器しか見ていない。
なんだか大型犬みたいだな、とリーネは思った。
古竜は慎重に器を咥え、スープを口へ流し込む。
その瞬間だった。
ぴたり、と空気が止まる。
古竜の目が見開かれた。
「……っ」
ごくり。
喉が鳴る。
もう一口。
さらにもう一口。
巨大な身体が微かに震えていた。
リーネはおそるおそる尋ねる。
「あ、あの……お口に合いませんでした?」
古竜は答えない。
ただ黙ってスープを飲み続ける。
そして。
器が空になった瞬間、ぽつりと呟いた。
「……うまい」
その声は、驚くほど静かだった。
けれど次の瞬間。
バキバキバキッ!!
凄まじい音が谷底へ響いた。
「きゃっ!?」
古竜の身体を縛っていた赤黒い紋様が、まるでガラスのように砕け散っていく。
黒い瘴気が噴き出した。
地面が揺れる。
風が唸る。
古竜が苦しげに咆哮した。
「ぐ、ぁ……!」
「だ、大丈夫ですか!?」
リーネが駆け寄る。
すると古竜の身体が眩い光に包まれた。
巨大な翼が崩れ、黒い鱗が霧のように消えていく。
やがて光の中から、一人の青年が姿を現した。
長い黒髪。
鋭い金色の瞳。
夜を溶かしたような黒衣。
人間離れした美貌だった。
青年はぼんやり自分の手を見つめる。
「……解けた」
その声は、先ほどまでの重低音ではなく、低く落ち着いた青年の声だった。
リーネはぽかんと口を開ける。
「え、ええええええ!?」
青年がゆっくり顔を上げた。
「騒がしいな」
「だ、だって竜さんが急に人間に!?」
「竜さん……」
青年は眉を寄せた。
「俺にはアッシュという名がある」
「す、すみません……」
リーネが慌てて頭を下げる。
アッシュはそんな彼女をじっと見つめた。
鋭い目つきなのに、不思議と先ほどほど怖くない。
むしろ。
彼の視線は再び鍋へ向いていた。
「……もうないのか」
「え?」
「スープだ」
リーネは思わず吹き出しそうになる。
この人、本当にスープのことしか考えてない。
「す、少しならまだ作れますけど……」
「作れ」
即答だった。
「今すぐ」
「えぇ……」
「腹が減った」
ものすごく真剣な顔で言われた。
リーネは困ったように笑う。
「じゃあ、少し待ってくださいね」
鍋へ再び水を注ぐ。
アッシュはその隣へどっかり座った。
近い。
圧が強い。
金色の目がずっと鍋を見ている。
「……あの」
「なんだ」
「そんなに見つめられると作りづらいです」
「早く食いたい」
「子供ですか」
「なんだそれは」
会話のテンポがおかしくて、リーネは少し笑ってしまう。
さっきまで死ぬかもしれないと思っていたのに。
不思議だった。
鍋が再びことこと鳴り始める。
湯気が立ちのぼる。
肉の香り。
野草の爽やかな匂い。
深谷の冷たい空気の中で、それだけが温かかった。
アッシュが小さく鼻を鳴らす。
「……いい匂いだ」
その横顔は、どこか嬉しそうだった。
リーネはふと尋ねる。
「アッシュさん、どうしてあんなところにいたんですか?」
沈黙。
火の音だけが響く。
やがてアッシュは低く呟いた。
「封印されていた」
「封印?」
「昔、人間どもが俺を恐れた」
アッシュの目が暗く沈む。
「だから深谷へ落とし、呪いで縛った」
リーネは胸が痛くなった。
自分と少し似ている、と思った。
怖がられて。
必要ないと言われて。
捨てられた。
アッシュがじっとリーネを見る。
「お前はなぜ、俺に飯を差し出した」
「え?」
「普通の人間なら逃げる」
リーネは少し考え、小さく笑った。
「だって、お腹空いてる顔してましたから」
アッシュが目を瞬く。
それから、ふっと口元を緩めた。
初めて見る笑顔だった。
「変なやつだな、お前」
「よく言われます」
スープが完成する。
リーネが器へ注ぐと、アッシュは待ちきれないように受け取った。
そして一口。
「……うまい」
今度は、はっきり笑っていた。
その表情を見た瞬間。
リーネの胸の奥で、冷え切っていた何かが、じんわり温かく溶けた気がした。




