第一話 冷え切ったスープ
第一話 冷え切ったスープ
「だからお前は役立たずなんだよ!」
怒声と同時に、背中を強く蹴り飛ばされた。
リーネの身体が宙へ放り出される。
目の前から、焚き火の赤い光が遠ざかっていった。
「あ――」
叫ぶ間もなく、視界がぐるりと反転する。冷たい夜風が頬を裂き、耳元で轟々とうなった。奈落の深谷。王国でもっとも危険だと言われる死の谷へ、リーネの身体は吸い込まれていく。
崖の上から、勇者ルファスの怒鳴り声が小さく聞こえた。
「荷物持ち一人減ってせいせいするぜ!」
仲間たちの笑い声まで混じっている。
リーネは唇を噛んだ。
涙が風に散っていく。
どうして。
胸の奥で何度も言葉が渦を巻く。
どうして、あんなに頑張ったのに。
結界も張った。水汲みもした。料理もした。誰より早く起きて、誰より遅く眠った。それでも彼らは、リーネを「火力のない無能」としか見なかった。
身体が何度も岩へぶつかる。
激痛。
息が詰まり、視界が白く弾けた。
やがて――どさり、と鈍い音を立てて、リーネは谷底へ叩きつけられた。
「っ……ぅ……」
土と湿った苔の匂いが鼻を刺す。
身体中が痛かった。腕も脚も痺れている。それでも生きているらしい。
遠くで、水滴がぽたり、ぽたりと落ちる音が響いていた。
深谷の底は暗い。
見上げても、空は細い裂け目みたいにしか見えなかった。
冷える。
じわじわと体温が奪われていく。
リーネは震える指で荷物を探った。幸い、小さなリュックだけは身体に引っかかったままだった。
中には少量の干し肉と、硬くなった黒パン。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
惨めだった。
捨てられて、谷底に落ちて、それで手元に残ったのがこんなものだけなんて。
その時だった。
ぐううう……。
腹が鳴った。
静かな谷底に、情けない音がやけに大きく響く。
リーネはきょとんとして、それから小さく吹き出した。
「……そっか。お腹、空いてるんだ」
不思議だった。
ついさっきまで泣きそうだったのに、空腹を自覚した途端、少しだけ頭が冷えた。
お腹が空いていると、悲しいことばかり考えてしまう。
それなら。
「……ご飯、作ろう」
リーネはゆっくり立ち上がった。
近くに小さな水たまりがある。覗き込めば泥で濁っていたが、水魔法を使えば飲める程度にはできるはずだ。
リーネはそっと両手をかざした。
淡い青色の光が揺れる。
「分離」
小さな声とともに、水の中から泥だけがゆっくり沈殿していく。透明になった水面へ、リーネはほっと息を吐いた。
次に、周囲の野草を摘む。
普通なら強い苦味と毒がある雑草だ。けれどリーネには分かる。どこに毒があり、どこに食べられる部分があるのか。
「ごめんね、少しだけもらうね」
闇魔法を流し込む。
黒い靄のような魔力が、野草の表面をさらりと撫でた。すると嫌なえぐみの匂いが消えていく。
最後に干し肉を細かく裂いた。
小鍋へ材料を入れ、小さな火を灯す。
ぼ、と頼りない炎が揺れた。
ルファスなら鼻で笑っただろう。
『マッチの火かよ』と。
けれどリーネは、この小さな火が好きだった。
強すぎない火。
ゆっくり熱を通せる火。
鍋の底から、ことことと優しい音が鳴り始める。
湯気が立った。
干し肉の脂が溶け、野草の香りと混ざり合う。
リーネは火加減を細かく調整した。
熱しすぎれば肉は硬くなる。
弱すぎれば旨味が出ない。
だから、ほんの少しずつ。
じっくり。
丁寧に。
やがて、谷底に香りが広がり始めた。
ほっとする匂いだった。
まるで寒い冬の日に帰った家のような、優しくて温かな香り。
「……できた」
木の器へ注ぎ、リーネはそっと口をつける。
熱い。
けれど、その熱が冷え切った身体へじわりと染み込んでいく。
「……おいしい」
思わず呟いた。
干し肉の深い旨味。野草の爽やかな香り。澄んだ水の甘さ。
たったこれだけの材料なのに、不思議なくらい味が優しかった。
気づけば、涙がぽろりと落ちていた。
悔しかった。
苦しかった。
怖かった。
でも今だけは、全部忘れられる気がした。
その時。
ぞくり、と空気が震えた。
背後から、巨大な気配が現れる。
リーネの呼吸が止まった。
暗闇の奥。
そこに、金色の双眸が浮かんでいた。
巨大な影。
獣ではない。
もっと古く、もっと恐ろしい何か。
地を這うような低い声が、谷底へ響く。
「……その匂い」
リーネの手から、木の匙が落ちた。
影がゆっくり近づいてくる。
岩肌を擦る音。重い呼吸。圧倒的な威圧感。
本能が逃げろと叫んでいた。
けれど、リーネの鼻先をふわりと湯気がかすめる。
鍋の中のスープは、まだ温かかった。
リーネは震える手で器を持ち上げる。
そして、暗闇へ向かって差し出した。
「……あ、あの。よかったら、食べますか?」




