008 旧交:いけずな女
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ガラス張りの温室に曙光が差しこむ。じょうろの放水に虹がかかった。
温室で栽培されているのは種々の薬草。薬草は葉や花弁に露を載せ、朝日にきらめかせていた。
温室中の水やりを終えて、十年明は一息ついた。
糸のように細い目を一層細めて、露の輝く薬草園を満足げに見渡した。
明は雅に着飾っている。白地に金銀の糸を縫った護律官の祭服。更に袈裟を重ね着し、尼頭巾を被り、被衣を合わせていた。
白磁のガーデンテーブルセット。椅子の背にツールホルダーをかけ、別の椅子に座る。
ガーデンテーブルには愛用の煙草盆を据えていた。明は煙管の火皿に黒い膠のような物を塗りつけて、ランプの火を吸い移した。
膠に火が回ったら深く吸い、青く甘い煙をぷかりと吐く。とろりと目じりを下げる。
明は、温室に揺蕩う煙を眺めるのが好きだ。時間が青い煙に蕩けて、穏やかに流れていく。この一服で、明の朝は限りなく恍惚で、完璧なものになる。
薬草の緑鮮烈にしてなお、曙を受け鮮やかな花。仕事に忙殺されて忘れがちだが、世界とはこんなにも色鮮やかなのだ。
「おはようございます、十年臨時付専任補佐官。おくつろぎのところ、失礼いたします」
それも、老齢の執事が割りこむまでの話。
この執事、歳月で容姿に味を出す部類だが、このひとときとの相性が悪い。朝が台無しだ。
明は無粋な輩に一瞥もくれず、ゆったりと煙を呑み、吐いた。
「おはようさん、アスケイグはん。お仕事熱心やね。その元気、分けてもらいたいくらいやわ」
「お電話にございます」
「……ぷはぁ」
「お電話にございます」
「ああ、えろうすんまへんえ。瞑想しとったんどす」
しょうもない男や。明は愚痴を煙に託し、ゆったりと輪の形にして吐く。我が道を行かはる人って、羨ましいてしゃあない。
「アスケイグはんはよしなしごとに動じひん御仁なんどっしゃろうけど、うちは気にしいやさかい、朝の静寂に耳を傾けとりましてん。色即是空」
「空即是色。ラムシング村のミキ・ソーマ地方護律官からですが」
もう一服に口をつける寸前、明は煙管を止めた。雁首を灰吹き縁に叩き、吸い殻を捨てる。雅な急ぎ足で執務室へ赴き、保留中の電話を取る。
「もしもし? ミキちゃん? ほんまに? あらぁ、えらい久し振りやないの。元気にしてはった?」
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「二日酔いでヤバい……」
ミキは頬杖から重い頭を垂れこぼして答えた。昨晩の宴の余韻が頭にガンガン響いていた。
「アキちゃんはどう? 今、情報局だっけ」
『せやで。情報管制室の臨時付専任補佐官』
「うん? り、りんじ……?」
『あはは。けったいな肩書きやろ? お陰さまで、のびのびさしてもろてるわ。それにしてもミキちゃんから電話なんて珍しいやないの。どういう風の吹き回しなん?』
「折り入って相談があってね」
『へえ、相談?』明が朗らかに復唱する。
「そう。いきなりで忍びないんだけれども、相談事がいっぱいあるんだよ。順を追って話していくから、よろしくね。まずさ、聖遺物ってさ――」
受話器から鈴を転がすような笑いが噴出し、相談事が遮られた。
『おもろいわあ、ミキちゃん。朝から笑かさんといてなあ。そない他人行儀にされるとまるで、うちらの仲はきちんと礼儀を通さなあかんくらい薄っぺらいようやないの。水臭いこと言わんといておくれやす。いつでも歓迎どすえ』
「アキちゃん、ありが――」
『親友やねんから当然やろ? うちらから差し上げたお手紙も、心ばかりの仕送りも、お返事なんて肩肘張ったもんわざわざ寄越さんでも、ミキちゃんの感謝はちゃんとうちの心に届いとりますさかいに』
「ア、アキちゃん?」
『無理もあらしまへんえ。ミキちゃんって頼もしいお人やさかい、赴任先やと一筆書く暇も忘れてまうくらいに、夢のような毎日を過ごしてはるんやろ? そないな雲の上の人気者が、わざわざお暇を作らはってまでうちにお電話くださるやなんて。それはもう、海より深いご事情のあるお話やろうから、伏して拝聞せなあきまへん。ねぇ? 』
電話の向こうで、明は朗らかに屏風のトラへ同意を求めた。
「おお……」始まった。明の嫌みが。「その……ごめんなさい」
『あら嫌やわあ。どうして謝らはるん? ああ、ひょっとして……あちゃあ、うちったら、気ぃ遣わしてもうたかな。堪忍なあ』
(相変わらず毒舌を揮うと途端に生き生きしだすなあ)
『せやけど……元気そうで、安心したわ。ほんまに』
沈黙の間に、歳月の隔たりが氷解する気配がした。諦め混じりに、明が溜め息をついた。
『ほんで、聖遺物って聞こえた気がしましたんやけど?』
「そうそう。今、余ってないかな? そろそろ現場に復帰しようかなあ、なんて思ってて。アキちゃんの推薦があれば心強いんだけれども。……。あれ、アキちゃん? もしもし?」
『ほんまおもろいお人やわあ、自分』
明の声は表向き笑っているのに、裏にある苛立ちがありありと表れていた。
『隠居してはる間に現場んことお忘れんならはったんかもせえへんから、うちが思い出させたるわ。聖遺物ってな、「ほうでっか。ほな在庫ご用意しときますさかいに」なんて言える気安い物ちゃうよ? 余らせるほどあらしまへんねん』
「う、うん……」
『聖遺物っちゅうたら、特務護律官の中でも一等優秀な子らに貸与される武器なんどすえ。そんなん持たされとる子らって、えらい努力してきはったんや。それはおわかりやんね?』
「う、うん、まあ……そうだね」
『ああ何や、わかてて言うてはんねや? ほんで、復帰する気ぃなったしおねだりしたろ、って?』
「そ、そんなつもりじゃあ……」
『やかましい。そんなつもりもとくなつもりもあらしまへんえ。一緒や言うとるんどす』
「そうかもしれないけれども……」
『ああ、よろしおすなあ、よろしおすなあ。さすがミキちゃんや。大した自信やわあ。同情してくれはるなら分けておくれやす、その揺るぎない自信。粉骨砕身してはる特務護律官に休暇を恵んであげて、ゆっくり羽を伸ばしている間は責任持って聖遺物を預かっといてあげようやなんて、うちみたいに臆病で小心な人間やと、逆立ちしたってよう言えまへんのよ。なあなあ? どちらのドレスメーカーはんで買いはったん、そのはんなりと豊かな厚みの面の皮? 高かったんとちゃいます?』
「ひぃん」
ミキはコシノフ邸から電話をかけている。屋敷の食堂が開き、朝食を求めて村人が集まってくる時間帯だ。
(誰か助けて)
ぞろぞろと通り過ぎる村人たちに目で助けを求めたが、仮面に隠されているせいで誰も気づかない。誰も彼も、寄越すのは朝の挨拶だ。
明に電話をかけただけで、ミキは二日酔いだけでなく、胃もたれにも悩まされることとなった。
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