006 真夜中の女子会 6/7:キャスパーの証言
考え疲れて、エリーはぼんやりと、昨夜キャスパーと交わした会話を思い出していた。
思い返すだけでも嫌なのに、止まらない。
――マイケル・スコットは、アルデンスの本名だ。
コシノフ家執事キャスパー・レンスキーは忌々し気に、しかし葛藤してその名を口にした。
マイケル・スコット。キャスパーによれば、二人はかつて霊髄壁穿孔大隊に所属していた。マイケルはパティソンという男爵にその働きが認められ、特例で準男爵位を叙勲したという。
立派な経歴だけれども、それが記憶の中のアルデンスとすぐには結びつかなかった。
「え、でも、アルデンスさんって名乗って……」
「最初はそう名乗っていた。けど、僕の顔を見るや心底驚いた様子で『キャスパー・レンスキーか?』ってな。曲がった人差し指に添えて中指を伸ばして、僕を指したんだ。それで僕もあいつに気がついた」
「……何ですか、それ」
「剣術の訓練で指を壊ったそうでね。その後遺症で、真っ直ぐ伸ばせないと言っていた。あの癖は見間違えようがない。雰囲気も声もがらりと変わっていたけど、よく見れば面影を残していた。君と一緒にいたのは、確かにマイケルだ」
「偽名だった、ってこと……ですか? 何で、そんな」まるで人目を避けるようなことを。
「僕に訊かれても困る」
アルデンスが偽名なら、エレクトラ・ブランも偽名の疑いが強くなる。
ヘーゼルがつけてくれたエリーという名前。谷底に落ちるとき、アルデンスが窮地にエリーの名を叫んでくれたのに、本当はエリーですらないのかもしれない。
演技だったとしても。
(あんな土壇場になってまで――?)
エリーという名前は、エリーと失われた過去を繋ぎ留めてくれる楔だった。偶然の一致に救われる思いだったのを、今更嘘だったで済ませたくない。
ウマに乗っていなければ、足元から崩れそうだった。
記憶が錯綜し、勝手に先走る思考に歯止めをかけて、エリーは声を上げた。
「……それで、知り合いだったから屋敷に入れたんですか」
キャスパーは答えた。
「まあね。匿うと見せかけて連邦に身柄を引き渡せば、コシノフ家に箔がつくかと考えた」
「私たちの指名手配書は出ていないはずです」
ヘーゼルの義兄ロバートがそう証言している。冗談のつもりだとしても不愉快だ。
「ああ、いや、すまない。言葉足らずだった。……そうだな、大隊時代のあいつのままなら、旧知のよしみで泊まらせてやっていた。禁域に転落する君を、彼が命懸けで庇ったんだって?」
「え、ええ」
「その話が本当なら、あいつは僕のよく知るマイクだ。一晩泊めるくらいお安い御用だよ。……けど、僕の知るパティソン準男爵はまるで別人になっていてね」
アルデンスことマイケル・スコットはパティソン男爵領の一部を与えられ、一代限りの安堵を認められた。
爵位を授かったのを機に、マイケル・スコットは大隊時代のパートナーと結婚した。
準男爵夫婦がいずれ子を儲けることも見越して、それに奉公人家族を加えた二世帯が、慎ましくも穏やかに余生を過ごせる。そんな小さな領地を与えられたという。
キャスパーがその噂を耳にしたのは、大隊の任務を退き、ポート使用人養成学院に在籍していた頃だった。
「彼とパティソン家の間柄は大隊時代から知っていた。だから、まあ、めでたいなと思った訳さ。同期の中じゃ出世頭、期待の星だったからね」
「その、結婚相手ってひょっとして私……」
キャスパーは首を横に振った。
「大隊時代のパートナーは、君じゃなかった」
エリーは肩を落とした。お腹の子の父親ではないとわかっていたくせに、我ながら未練がましい。
構わず続けるキャスパー。
「噂を耳にしたときは執事の訓練で手いっぱいでさ。祝電一本入れる暇もありゃしない。おかげで噂を確かめる機会を逃してしまった。そもそも、マイケル・スコットって名前がいけないんだ。連邦の地図にダーツを投げたら、当たった地点に必ず一人はいる名前だ。ひょっとしたら他人の噂を聞き間違えたんじゃないかと思って、すっかり忘れてしまった」
その後、学院を卒業したキャスパーはコシノフ家に仕えることになった。
そして、ラムシング村に居を移してから、またしてもパティソン準男爵の名が囁かれるようになる。
「パティソン準男爵、マイケル・スコットに仕えた奉公人家族が、次々と行方をくらませているって噂を耳にした」
ラムシング村からウマで三日ほどの距離にパティソン男爵領がある。準男爵領はそこから割譲された領地である。
目と鼻の先の領地。養成学院時代とは比べ物にならない頻度で、より具体的で黒い噂を耳にした。
曰く、あんな小さな領地で二家族が養える訳がない。
曰く、あんなネコの額のような領地で越冬できるからには、外道な手段を使っているに違いない。
曰く、物乞いや難民、身元が割れない者を屋敷に招き入れては使い潰し、その肉で食い繋いでいる。
曰く、連邦内の混乱に乗じて、二本脚の家畜を仕入れている。
曰く、パティソン準男爵は人食い一族だ。
「あの人がそんなことする訳がない!」
声を荒げたエリーに、狗人たちが何事かと振り向いた。そのときは宴の帰り道で、彼らの厚意で送ってもらっているところだった。
「何でもありませんよ」
キャスパーは適当に誤魔化して、狗人の注意が逸れるのを見計らう。
「僕も信じたくなかった」と苦々しくこぼす。
仮にキャスパーの知人のマイケルであれば、平民から貴族に引き立てられた出世頭である。大衆の嫉妬を集めるのは想像できたし、準男爵という絶妙に弱い立場なら、ゴシップの格好の的となる。
そしてどうも、奉公人を何度も雇い直しているは事実らしい。
槍玉に挙げられやすい条件が笑えないくらいに揃っていた。
口さがない庶民の悪趣味だと、キャスパーは取り合わないようにした。
だが、かといってパティソン男爵領に自ら赴いて、事実を明らかにしようとも考えなかった。
コシノフ家の執事であるキャスパーが、噂の出所が疑わしいとはいえ、怪しい貴族と交流を持つのは避けるべきことだった。
ましてや積極的にアプローチをかけるのはコシノフの家名に泥を塗りかねない。
パティソン準男爵は、果たして本当にあのマイケルなのか。判然としないまま日々を過ごした。
それから時は経ち、つい先週のことだった。
とある一件から噂を無視できなくなってしまった。
「シャクルトンというご家族から静養の予約電話が届いた。このご家族も臨月間際だったから断ろうかと思ったんだけど――」
――後生だ。頼む。
――パティソン準男爵も、奥様も賛成してくださっている。
――なあ、うちは去年の春からあのパティソン準男爵に新しく仕える奉公人だ。
――ラムシング村の者なら、それがどういう意味かわかるだろう?
――いいや、わかってくれ。ここしか頼れないんだ。
――こんなはずじゃなかったんだ。
「悲鳴じみた懇願だった。どこから電話をかけていたかと思えば、ここから最寄りの宿場町だ。買い出しの用事をでっち上げて電話をかけてきたらしい」
「まだ憶測じゃないですか」エリーはほとんど縋るように反論した。「それにもしキャスパーさんの予想が当たっていたのなら、そのシャクルトンさんたちがアルデンスさんを見て何とも思わないはずが――」
「ご家族は今もまだ到着していない。君たちは先回りしたものだと思っていた」
「物は言いようですね。私たちは……いえ、私が殺し屋に狙われていたんですよ? アルデンスさんが悪人な訳、ありません」
「あるいは君が、マイクを邪道に走らせた原因かもしれない」
エリーの頭に血が昇る。けれども反論が胸につかえて、息が苦しくなった。
殺し屋――ナイフ使いはエリーを悪女と呼び、何度も何度も執拗に刺してきた。
もし本当に、悪女呼ばわりされて当然のことを、エレクトラ・ブランが犯していたなら。記憶を失う前のエレクトラが、本当に人誑しだったとしたなら。
アルデンスを唆していたとしたなら。
エリーのせいでアルデンスが悪に堕ち、ずっと誰かを頼りたくても頼れない立場に追い詰められていたのだとすれば。
言い返そう。怒鳴ってやれ。そう思って吸った息を、何度も無駄に吐いた。
キャスパーの推測は、エリーが最も恐れていたものだ。
本当に悪事を犯していたから護律協会にも頼れず、二人ぼっちで逃げ惑わなければならなかったのではないか。
筋が通ってしまう。
「これでも、僕なりに考えたんだ。それでも、噂が……本当に思えて仕方がなかったんだよ」
最後の方だけ、キャスパーは言い淀んだ。
ケナガウマの行列が、松明に照らされて暗闇に点在する道を、黙々と歩んでいる。
「だったら」エリーが沈黙を破る。「だったら、私は何なんですか。そんなに私のせいにしたいのなら、根拠があるんですよね」
もっと毅然と言い返してやりたかったのに、声が情けなく震えていた。
返事がない。
「黙ってないで教えてくださいよ。私、記憶が無いんです。どんなに酷いことでも真実なら受け入れます。知っているなら教えてください、私の過去を。教えられるものならね。……何とか言ってくださいよ。それとも、言いがかりだったって認めるんですか」
燕尾服の背中、ずっと伸びていた背筋が、少しだけ曲がっていた。
「記憶も失くして、私は私自身のこともわからないんですよ。どこから来て、どこに行こうとしてて、アルデンスさんの命を犠牲にしてまで、どうして……その不安につけこんで、その余白につけこんで……良かったですね、都合の良い女がそばにいて! 酷い目に遭ったばかりの小娘に、あなたの独りよがりな願望を投影するのはそんなに楽しいですか!?」
前を行く狗人がまた振り返る。何でもないと、またキャスパーがフォローする。
エリーは目元を赤く腫らし、涙を堪えて口を結んでいた。
キャスパーが弱った顔を垣間見せ、言い逃れるようにまた背を向けた。
「君の言う通りだ。全面的に僕が悪い。謝るよ」
「違う……ごめんなさい。今のは、違うんです……」
命を顧みず、エリーを助けようとした勇敢なアルデンスが、たった一人の女に惑わされていた。
そんな世迷言を一瞬でも事実と決めつけたエリー自身が不甲斐なく、アルデンスの魂に顔向けできなかった。
キャスパーがその真意を知る由もない。
「だから、はっきりした事実に基づいたことだけを言おう」
「……何ですか」
目元を拭った鼻声のエリー、その目を、キャスパーが毅然と直視してきた。
「禁域を越えるルートは、パティソン男爵領への近道なんだよ」
ケナガウマの足音だけが雪混じりの泥濘を蹴っていく。
「ただ」
顔半分だけ振り向くキャスパーに、仕事疲れが滲んでいる。
「久し振りに見たあいつの顔は、僕の知るマイケル“夢想家”・スコット閣下だったよ」




