002 真夜中の女子会 2/7:リトル・トナカイ・スタンピード
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その夜、イーリャ・コシノヴァは疲れが溜まりに溜まっていた。
なのに、目がギンギンに冴えている。
その日は疲れる出来事が多すぎた。徹夜明けに尿を被ったり、人質にされたり、内通者騒動に吸血鬼騒ぎ……。四方八方からやって来る災難の数々。むしろよく持った方だった。
そんな一日をスプリグリ族の宴会で締め括る。
イーリャにとっては癒しのひと時。
の、はずだった。
めでたい宴の水面下は、ラムシング村とスプリグリ族との抜き差しならない外交の場でもあった。
イーリャの期待に反して、気の休まる瞬間が全くない。
村の代表として恥ずかしくない振る舞いを心がけつつ、イーリャは容赦のない歓待をつつがなく切り抜けた。
結局、朝から晩まで怒涛の一日だった。這う這うの体で寝床に直行する。
もはや真に心安らぐ場所は夢の国にしかない。ぐっすり眠って、一日の疲れを癒そう。
倒れるように床に就き、目を閉じる。
だが、何度となく目を閉じていても、夢の国で門前払いを受けて、バネが弾けるようにギンと開眼してしまう。
心も身体も疲れ果てているというのに、目だけが駄々をこねて夜更かししたがっている。
(あ、あれのせいですね……)
宴会に出された料理。トナカイの脳みそが、目玉が、精巣が、おちん……珍味の数々が、今になってイーリャの精力を、そりゃもうはちゃめちゃに増強させていた。
厳冬を生き延びるトナカイの生命力が、イーリャの体内でリトルトナカイの大群と化して、所狭しと駆け巡る。大移動の地鳴り、群の鳴き声……。
たまらずベッドから飛び起きた。
「だ、だめです……眠れる気がしません……どうしましょう」
目を血走らせ、鼻息まで白くして、イーリャは頭を抱えた。
体力勝負の開拓村。元気がみなぎるのは良いが、ひと眠りした後に効いて欲しかった。
このままでは明日に疲労を持ち越して二徹目に突入する。生活の乱れなど、ラムシング村の規範を自負するイーリャにとって許し難いことだ。
何か、何としてでも眠気を誘うようなことを。
「……ああ、そうです。あれがありました」イーリャが独りポンと手を打つ。「伯爵領の資料を下読みしてしまいましょう」
イーリャ・コシノヴァの父、ゲセカ・コシノフは、旧ラムシンケ伯爵領の再開拓事業を拝命した役人である。
ジキニア公国連邦で分散展開する開拓事業。個々の収支面で過小評価されがちではあるものの、その全容は連邦肝煎りの計画だ。連邦全土を俯瞰すれば侮れない数字を上げつつある。
とはいえ、開拓に邁進するには、物も金も足りやしない。
その代わりに武器となるのは情報だ。
開拓事業計画が採択されると同時に、計画に有用な資料の供出を要請する大公令が布かれた。
掻き集められた資料は必要に応じて各地に分配、有用な物は筆写が急がれている。
コシノフ邸はそうした資料を収蔵するための書庫を備えていた。
書庫には開拓地の土壌研究資料、周辺地域の郷土史を始め、今や貴重となった旧伯爵領にまつわる資料も収蔵されている。
その中には吸血鬼・露術研究の異端児として悪名高い領主、ヘルシング教授の手記も含まれている。
エリーに寄生するアルフレッドは、ヘルシング家の統治以前から禁域内に封じられていた可能性が高い。
だとすれば、アルフレッドの記述が残されている可能性もある。
その中に、エリーの現状を打破するための手掛かりが隠されているかもしれない。
エリーの保護が決まってから、イーリャはその資料を紐解くつもりでいた。
(余りに膨大で気後れしていましたが、気を静められて、エリー様の助けになります。一挙両得です)
そうと決まれば話は早い。イーリャは当主代行権限をもって書庫を開き、資料を見繕って自室で読み漁ることにした。
少しでも読み進めれば資料を絞ることができる。寝落ちは望むところ。どう転ぼうとも利点がある名案だと、イーリャは人知れず自画自賛する。
ところが、読めども眠気すら催さないまま夜ばかりが更けていく――。
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「――という次第で、こちら六冊目でして。ハハハ」
イーリャは隈のある目をギラつかせ、投げやりに口の片端を上げた。
「そ、そんなに精力つくんですか、あの料理……」
「つくなんてものじゃありません。持て余して困っているんです……」
イーリャはエリーの血化粧顔を、まじまじと見た。視力が低くても、エリーの顔が斑に赤くなっているのがはっきりとわかる。
「……ここで立ち話も何ですね。厨房までご一緒しませんか? 温かい物で一息つこうと思っていたところなんです。顔を洗うなら、お湯がご入用でしょう?」
コシノフ邸本館は現在、産院として開放されている。エリーやイーリャがいる三階はファミリールームだ。
赤子の泣き声や産声が、床下にくぐもっている。
熱湯、湯冷ましはいくらあっても困らない。それはつまり、厨房や暖炉は夜通しフル稼働で湯沸かし中ということだ。お茶の一杯や二杯、すぐに用意できる。
エリーは喜んでお呼ばれすることにした。
「あの、まさか、そのお顔のまま、お一人で厨房に行こうとなさっていましたか?」
イーリャに恐る恐る指摘されて、エリーは「あっ」と濁声を上げた。血塗れの女が夜間に屋敷を徘徊する。幽霊騒ぎ待ったなしだ。
「て、手拭いが見当たらなくて……」
苦し紛れの言い訳だ。イーリャに溜め息をつかれてしまった。
「まあ、みなさん助産で血を見慣れていますから、心配要らないでしょうが……」
イーリャが急に黙った。
「イーリャさん?」
「しっ」
エリーの口が塞がれた。イーリャの視線は、廊下の曲がり角に注がれていた。
床板が軋む音がする。チャごッ、ぎぃ、チャごッ、ぎぃ……。
階段を登る足音。リズムはそうでも、音が奇妙だ。靴の音とは違う。素足のようでいて、固い何かが床材を叩いている。爪――長く鋭い爪のような。
こっちに来る。
イーリャはエリーへ、その場でじっとしているよう身振りで伝えた。
エリーは黙って首をぶんぶん縦に振る。
イーリャは曲がり角に背を密着させ、足音の主を待ち伏せる。
足音の主の息遣いまでもが、段々と鮮明になっていく。獣のような呼吸。
手が曲がり角にかかった。獣毛が茂り、鋭い爪を備えた指がイーリャの目と鼻の先をかすめる。
剥き出しの牙の並ぶ口が、曲がり角から突き出された。
息を呑むエリー。
獣が姿を現した瞬間、イーリャは躊躇なく組みついた。
「あら~! どちたの~? ねんねできなかったの~? よちよちよち~!」
「おあああー!」
獣がイーリャに慄いた。イーリャは獣に抱き着き、全身で撫でるように可愛がった。イーリャがここまでする相手は一人だけだ。
「あれ、ヘーゼルだったの?」
ヘーゼル・バーンズ――人狼の女にして、ラムシング村の修律士である。エリーの恩人であり、最も心を許せる人だ。
おばけ話の直後で過敏になっていたけれども、よくよく考えてみれば、臆病なイーリャが進んで前に出た時点で察しがつくことだった。
この人のヘーゼルセンサーどうなってるんだろう。
「お、おお、エリー……うおっ!? 何だどうしたその顔!?」
戸惑うヘーゼルに抱きつくイーリャが、エリーに嫉妬の視線を寄越した。名前を呼ばれなかったことが気に食わなかったらしい。
「平気だから気にしないで。それより、そっちこそどうしたの? そんな格好で……」
ヘーゼルの皮膚にはオオカミの毛皮が縞模様に折りたたまれており、模様が裏返ると彼女は半人半狼の姿になる。獣の姿は、臨戦態勢の証拠だ。
ヘーゼルは頭を掻いて首を捻る。
「何か殴るような音とエリーの痛がる声が聞こえたから、すっ飛んで来た」
「んま~! 何て勇敢で良い子なのでしょう! さすが私のヘーゼルです!」
騒動の一端であるイーリャが、後ろめたさをおくびにも出さずヘーゼルの頭を撫でる。
「んおお……ぅふ」
容赦のない撫で方で、ヘーゼルの首がぐるんぐるんと回るほどだったが、当人は満更でもないらしく、片足をダンダンと踏み鳴らし、尻尾を振っていた。




